220918  希望の二つの顔  アドルノ『否定弁証法』 | 思蓮亭雑録

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精神は、自分がその一契機をなしているにすぎない現実の連関によって強制されていることを、次々におこなっている。物象化が存在なり存在史なりへ押し入れられ、自己反省やそれによって点火された実践がおそらくは変えたいと願っている当のものが、運命として嘆かれたり聖化されたりするのは、よくよく不誠実な仕業である。なるほど、存在の理説が、自分の中傷している全哲学史、特にカントとヘーゲルが準備したもの―内と外、主観と客観、本質と現象、概念と事実といったもろもろの二元論は絶対ではないということ―を継承して、実証主義に反対しているのは正しいかもしれない。しかし、その対立項の宥和は回復不可能な起源へと投射され、そのため全体を構想する動機となった二元論そのものが、宥和への衝動に逆らって、固定化されるようになる。存在忘却を嘆く悲歌は宥和のサボタージュである。希望がしがみつく神話のように不透明な存在史は、希望を否認する。眩惑の連関としての存在史の宿命性は、打破されるべきであろう。 124.

An dem, was der Geist verübt, trägt nicht dessen ehrfurchtsloser Vorwitz schuld, sondern er gibt weiter, wozu er gezwungen wird von dem Zusammenhang der Realität, in dem er selbst nur ein Moment bildet. Einzig mit Unwahrheit ist Verdinglichung in Sein und Seinsgeschichte zurückzuschieben, damit als Schicksal betrauert und geweiht werde, was Selbstreflexion und von ihr entzündete Praxis vielleicht zu ändern vermöchten. Wohl überliefert die Seinslehre, legitim gegen den Positivismus, was die gesamte von ihr verleumdete Geschichte der Philosophie, Kant und Hegel zumal, grundiert: die Dualismen von Innen und Außen, von Subjekt und Objekt, von Wesen und Erscheinung, von Begriff und Tatsache seien nicht absolut. Ihre Versöhnung aber wird in den unwiederbringlichen Ursprung projiziert und dadurch der Dualismus seiber, gegen den das Ganze konzipiert war, wider den versöhnenden Impuls verhärtet. Die Nänie über die Seinsvergessenheit ist Sabotage an der Versöhnung; mythisch undurchdringliche Seinsgeschichte, an welche Hoffnung sich klammert, verleugnet diese. Ihre Fatalität wäre als Zusammenhang von Verblendung zu durchbrechen. 96f.

👼 物象化が批判の対象であるのは、それが精神を一契機とする現実の必然性だからだ。
👹 それゆえに、反省は実践的な意味をもつということだね。
👿 そうだね。物象化の批判において理論的反省は経験へと高まるし、また高まらなければならない。精神は経験において自らを止揚するだろう。
👹 その意味で、経験は希望の場所だ。
👼 ところが希望は自らを裏切りうる。希望は常に裏切られうるからこそ希望といるかもしれないが、希望を裏切るのは状況ばかりではない。
👿 物象化は精神に非同一性を指示するが、精神は保守派がこの言葉を好むように反動的でありうる。喪失と回復の神話が回帰するわけだ。
👹 媒介するとは媒介されるということだ。物象化批判において希望自身が物象化される。「いまだない」ものが「すでにあった」ものへと投射される。
👼 ハイデガー的には世人への頽落、非本来性ということになるのかな。
👹 そこはハイデガーの物象化批判の巧みなところだろうね。だが、それは批判というよりも一気に無効化してしまう。それが不安という舞台装置のもとで演じられる無としての存在との出会いドラマだ。
👼 つまりそこには台本があるということだね。
👿 言い換えれば、本来性自体が「すでにあった」あるいは「すでにあった」と信じたい根源の投企ということだ。
👹 希望は物象化されて郷愁となる。
💩 リベラルと見られていたものの本質が実は反動であるということはありうることだ。生きる経験の現実を洞窟だと観じることは、真にあるものを「すでにあった」次元に定位して形而上学となる。その二元論自体が現実の経験として注意深く批判されなければならないが、精神は希望の物象化によって経験を性急に跳び越えてしまう。経験のうちに非同一性という未来からの痕跡を探るかわりに、存在という根源からの声に聴従することを命じられる。希望だと思われていたものが支配となるのだ。

 

Afghan girls attend a class in an underground school, in Kabul, Afghanistan, Saturday, July 30, 2022. For most teenage girls in Afghanistan, it has been a year since they set foot in a classroom. With no sign the ruling Taliban will allow them back to school, some girls and parents are trying to find ways to keep education from stalling for a generation of young women. (Photo by Ebrahim Noroozi/AP Photo)

すべての人に等しく教育を受ける権利が保障されなければならない。