西行にみる「覚悟決めた潔さ」と「情けなさを示せる潔さ」♪ | ♡守護天使からの贈り物★

♡守護天使からの贈り物★

天国な時間を過ごしています。
誰でも、気づけば、
それは叶う…

{AF1C54BD-33F4-44E0-B02C-B31AF367013A:01}
(韓国扶余からの蓮の石鹸はとても素敵な香りです。)

学生時代に西行に惹かれました。
彼の和歌を見た時の衝撃は忘れられません。
萩原朔太郎並みでした。
萩原朔太郎よりも惚れました。

image
(小さくてかわいいものを見ていると 実に見飽きませんよね~♪♪)

出家し素晴らしい歌を残した「世捨て人、旅人」でした。
以降、私の生き方の主軸となりました。
本当に私も出家しようと思っていたのでした。
庵を京都にって本気で考えたりあるいはやはりカトリックなんだから
シスターになる?と考えたり。笑
やがて・・・「宗教に属するのは違うな~」と感じ始め・・・
取り敢えず「旅だ」と。

「この世の名誉、立ち位置すべて要らぬ、」
その潔さは一貫して和歌に溢れています。
実はしかし、酔わないほどに潔いのに平気でめそめそした歌も多いのです。
それが人間らしくて いいんですね、(o^^o)
かと言って、いつまでも下手な欲があって
だらだら、おろおろしているのとはまた違う。
都になかなか離れきれない自分を客観視して、やがて離れて行きます。
冷徹なまでに、自分を突き放して観ることが出来た一人です。

だから「世捨て人ではない人達」の和歌よりも
群を抜いて、都を唸らせたのではないかな?と思います。
それは優れた歌人たち、たとえ同じ法師であっても
なにか西行にしかない癖、個性、天才ぶりを感じさせます。
蒸留水とは異なり、癖が強いとむしろ思えて、それが好きなのです。

鳥羽上皇が「生得の歌人」、つまり「生まれながらの天才だ、」と…
和歌や詩にありがちな酒に酔った、甘美さがないのです。
もちろん、とことん嘆くのもされるのです。
しかし逃げがない。

おしむとておしまれぬべきこのよかは
みをすててこそ みをばたすけめ

それまでは、近代詩の萩原朔太郎に惹かれていました。

前例がない詩を書けると言う意味では
お二人ともそうなので天才なんですね。

今まで誰も書かなかったものを大胆に書いたのは
このお二人なので
和歌も含めて日本の詩における最高の天才
生まれながらも天才詩人、天才歌人は
このお二人だと私は感覚で感じてきました。

「誰もやらなかったのをやるってカッコイイ!」(((o(*゚▽゚*)o)))
子供の頃はそう思っているのに 大人になると
「誰もやっていないから奇異でできない!かっこわるい!無難がいい
ってなってしまいます。
奇異に見られることに参ってしまうからだと思います。

西行の表現方法はとても正直で
思いきり変で…思いきりカッコ悪いです。笑
思いきり自分を情けないまでに表します。
未練もたっぷりだったりもするのに、
先程述べた通り、なぜか情緒に溺れません。
やはり、未練がある自分を客観視できているからだと思います。
余すところなく飾り気なく晒します。
思いきり女々しくて…思いきり心細くて思いきりぶざまで。
男なら隠していたいはずであろうに、男がそう書ける潔さ。

なげけとてつきやはものをおもはする
かこちがおなるわがなみだかな

不細工な変な自分の顔、って…
例えばこのように、あまりこんなことは当時の和歌の世界では
詠まないのに平気で書いちゃう。
他にも枕詞を重んじるのが当時の和歌のルールなのに
「前例がない」のがとても多いです。

周りからすると

凄い変わってるなぁ~

だったかと思います。

「名誉の評価を受けて生きて死ぬほうが虚しいのではないだろうか?
世の中を捨てて評価されずとも自分を生きるほうが
よほど私こそ自分を捨てていないことなのです…」
彼の真意はこうであったんじゃないかな~???

世間に賞賛されなくてもよい、
悟れた立派な僧侶よりも、ただの歌詠みの坊主だと言う扱いでよい。
それよりもこの世の地獄を正視して
真に何が儚いのか?
真に思いきり嘆いて…思いきり釈迦を感じるために
気の向くままに修行をして
旅と言う常に危険が伴う世界に身を置き
孤独に向き合って…その立ち位置から時には客観視して人やわが身を眺める。
ちゃんと実は熊野の修行もされています。
西行の素敵なところは
達観した偉い坊主の「振り」をしないで
とことん、初めは都への執着の想いに向き合い、
時には慕う気持ちや恋もして向き合い 、
世の中の出来事や「人」にも
愛着を持ちながら関心を寄せていました。
そして晩年は「無邪気」に帰依します。

注意※これはまりあ流の解釈なので信じ込まないでくださいね。笑
研究か学問とはすべて、「~です、」と言い切ってはダメで
「~と思われる、」と現時点での自分の説、解釈だと書かないとなりません。
一つは違う解釈も認める姿勢を持つためです。
そして、現時点での解釈がのちに自分でも
「あ、真理は、事実は違った」と覆すこともありうるからです。

「テラテラ歌詠みなんか甘いことしないで
仏の世界だけに入れ!それこそ煩悩だ、」
と当時は僧侶から非難や批判もあったかもしれません。

しかし、西行に会うと僧侶からもその超越した意識は身体に溢れていて
話す前から尊敬されたと言われるほど
時には崇徳院の怨霊さえも悟らせて諌めたと言われるほどに
持ち上げ過ぎかもしれませんがそれほどまでに
西行はその後もずっと愛される歌人でした。
風貌は闊達な男らしい姿であったとされています。

丸ごと情けなさを認めて愛してこそ、感情を感じ尽くしてこそ
超越できる、解脱できることを良き男たちは
見せてくれているなぁと見つめています。

それにしても…

杉原千畝さん、白洲次郎さんも
思いきり気持ちがいいくらいに出家さながら、捨てています。
と前に記事に書きました。
「いいや、捨ててはいない」と言うお声もあるかとは思います。
しかし、やはり、潔さって、どこか、
するりと捨てられる部分があるんですよね~

そして捨てた先に

結局、彼らは思い通りに
自分を生きて生き切って満喫された、
そんな気がします。
白洲次郎さんの鮮やかな往生さえも。

西行は「釈迦の命日に亡くなりたい、あの桜の時期に…」

うらうらとしなんずるなとおもひとけば
こころのやがてさぞとこたふる

ねがはくはそのはなのしたのもとにてはるしなむ
そのきさらぎのもちづきのころ


見事にそれは叶い  自分の死さえも思い通りにできた訳です。

あまりに昔の人で伝説化しているのでどこまで信憑性に欠けているか
事実なのかわかりかねますが
当時から、彼の往生は感嘆されました。

あっばれな生き方は  いつのまにか
もともと生きたかったように生きることが出来ています。
死にたい時期さえも決めることが出来ます。

世の中を捨ててこそ、自分を生きる、

と言う意味を歌った彼の意識は

ね?

例えば

願いを叶える方法として、今、言われる
引き寄せの法則の真髄なのではないでしょうか?

「他人軸で生きるな、自分を生きろ、自分軸で生きろ、
すべての不満や未消化は他人軸で生きるからだ、」

西行のように生きて西行のように死にたい
だから私はどこにいても永遠に旅人のマインドであろう
いつでも捨てられる軽さを持とう

震災に遭い、大事な物が壊れ、さらにそうなりました。
すべての物は置いて死ぬし、すべての物は束の間の出会い。
社会における自分の立ち位置もいつも仮の姿。

今、私はお客様に伝えています。

前例がない、
だから、やってみようよ、^ - ^
あなたが天才だよ~(≧∇≦)


まりあ