この本のタイトルは作者の前作「二十五年後の読書」に登場する作家三枝
(「二十五年後の読書」の紹介ブログはこちら)
前作は女性書評家を主人公に文学の価値を描いた、作者が60歳を超えて挑んだ作品。
登場人物の作家三枝昴星に作者自身を投影している気配を感じました。
自己を投影した登場人物に作中で書かせた作品のタイトルで次作を発表したわけですから、自信のほどがうかがえます。期待も高まります。
そして、その期待に見事に応えてくれる作品でした。
◆ ◆ ◆
この小説のタイトルから、「私たちを満足させるもの」の正体にたどり着くか、そこまでいかないまでも正体を朧気ながらうかがい知ることはできそうです。
この地上において私たちを満足させるもの / 乙川優三郎 (新潮社)
2018年刊
お気にいりレベル★★★★☆ |
主人公高橋光洋は終戦直後の生まれ。いわゆる団塊の世代です。
戦後まもなく父を亡くし、疎開先の千葉県袖ケ浦で祖父母・母・兄とともに貧しい農家で育ちます。
母は家族を残して家出、兄は絵の道を諦めて農家を継ぎます。
光洋は製鉄所に勤めるものの労務問題で嫌気がさし、蓄えを頼りに海外に旅にでます。
ドイツ、フランス・パリ、スペイン・マルガ、ポルトガル、インド、タイ、フィリピンなど点々とし、ここではパリ、マルガ、フィリピンで出会った人と暮らしが、そして暮しににじみ出る死生観が描かれます。
旅での経験を活かし、海外でのホテル勤務などを経て日本で文学新人賞に挑み始めた時には40歳を超えていました。
◆ ◆ ◆
前半は人生の漂流者として、後半は作家として苦悩する、光洋の人生を人との出逢いの断片を10篇の連作にして収められています。
製鉄所勤務時代に通った店のボッサを好むホステス、パリで泊めてもらった女性日本人画家、マラガで世話になった誇り高き乞食とその妹、フィリピンの運転手一家、大手や二流出版社の女性編集者、旅先の旅館に勤めるミャンマー人、終の棲家で光洋の世話をするフィリピン人女性 etc.
異なる価値観を持つ人々との出会い、光洋自身の生きる軸さがしと小説への挑戦の日々が、個々の話からあぶり出されます。
読み進むうちに、点々と描かれるエピソードがうっすらとつながっていき、書かれていない時期の光洋を勝手に想像しはじめました。
◆ ◆ ◆
終盤に、光洋の人生を総括するように、前半に登場した人々と思わぬ形で再び出会います。
私の老いた胸でさえキュンキュンしました。
あちこちで経験した出来事は決して無関係でなく、人生の糸に編みこまれて現在につながっているかのうようです。
光洋が終の棲家として選んだ千葉県御宿に登場する外構業者や女性郵便配達員には、おなじ乙川優三郎の短篇集「トワイライト・シャッフル」(紹介はこちら)の登場人物の面影があります。
作家には、人との出逢いの積み重ねばかりでなく、作品の積み重ねの連なりもあるのだというように。
老いを迎える身でなくても、心を満たす思いを持てる積み重ねを求めて、これまで体験をたどってみたくなる小説です。
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