和多志の中で交差する琉球との関わり深いウルとアラハバキφ(..) | de fideli☆。.:*:・'°この誓いと共に。.:*:・'°☆

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生きている以上何かに…誰かに…傷つけられるけど…。
何かに誰かに傷つけられるか、傷とも思わず全てはギフトだと
楽しむ事も選べる。★*☆♪
自由意志と自己責任と自分軸で輝けるメッセージを宇宙は届けてくれている∞氣づきの架け橋を綴って行きたいな。.:*:・'°☆



【日本民族を形成するアジア五加】

馬族・・・アルタイ系種族(白人系)

牛族・・・オリエント系種族・シュメール人(白人系)

犬族・・・印欧系アーリア種族(白人系)

鳥族・・・殷人(黄色人系)

蛇族・・・原南洋人(オウストロネシア語族(黄色人系)



【牛】の原産地はメソポタミア。そのウルク期に於いて牛はウルと呼ばれていました。

牛族が王族となったため、ウル王朝と呼ばれ、都市もまたウル市といわれました。それから34世紀経ったBC1世紀、古代満州の扶余に牛を部族名とする【牛加】が実在しました。




【牛加】が官名であると同時に部族名でありました。 


牛加には二種あり、一つはウル族、一つはシオ族。

【塩族・シオン族】は、BC2800年前後頃から

牛族のウルクと帯同して原郷のメソポタミアを離れ

インドでは釈迦の名で呼ばれ、殷では、【召方ショウホウ】と呼ばれました。


【日本書紀】垂仁天皇二年の条の第一の一書にあった【額に角の有る人】という記述は牛の角形のついた冠帽をかぶった人の形容で、これが【兜】になり、二本の牛の角のある

【牛冠】をかぶる古代の習俗だったのです。【ツヌガアラシト】はツノガアルヒト(角がある人)であると共にアラシトは、後代実在した加羅の人名、また王号でもありました。


【蘇】は【于斯うし】牛の朝鮮語のsoです。

【牛冠】【王】のシンボルだったようです。


BC2500年、アッカド王国では、ナラム・シン王がかぶっていました。BC800年、ウラルトゥ王国では、牛冠のスフィンクスが王座の一部でした。


祟神・垂仁朝時代に牛冠をかぶっていたという


ユダヤにルーツを持つとされる徐福

牛の角を持つ牛頭天王(スサノオ)

同一視され徐福もユダヤ教の影響を受け

道教の教えを大切にしつつ

牛の角をシンボルとした

唯一神ヤハウェを信仰していた



琉球開闢神の

アマミキヨには角があり鬼のようだった

シネリキヨ(シリニク)こそが

徐福(蘇民)だとも云われるが……


琉球開闢説にある

男神 志仁礼久(シリニク)シスナーガ族スサノオ

女神 阿摩弥姑(アマミコ)先住民族女系祭祀王

伝説を持ち込み背乗り乗っ取った説がしっくりくるんですが……。




そもそも史記も

当時の権力者の思惑で作成されてるのだが

その中に埋もれた真実が在ると信じたい!


バチカンの図書館には

世界各国から略奪した

歴史書が保管されているそうだ

開示されたら読んでみたいものである





縄文晩期の西日本は、原南洋人、オウストロネシア語族、

蛇をトーテムとするオラン・ラウトの生活舞台でした。


次いで弥生早期に洛東江流域から南加と原シナ人

(鳥をトーテムとする猪加)という

猪加とは、チュルク族つまりトルコ人のことです。

猪加というのは、扶余の王族である馬加の文化人が蔑んで名づけた名でした。黄色人同士、稲作農耕民であるところの二種族が西日本へ渡来しました。


これが日本列島へ稲作文化を搬入した二加であり

原畿内人であり、銅鐸人であったと考えられます。

青シンプル.JPG


弥生中期になると

扶余の王族、高句麗の前期王族

馬韓王の系譜につながる馬加を盟主とする連合軍

まず北九州の松盧国に上陸、以後しだいに先住の狗加、牛加、猪加、南加たちを制圧して九州に入りました。


これが日本の天皇氏族であり

種族の系譜としては馬をトーテムとするアルアイ系人種

すなわち北方騎馬民族の一種です。



馬加が西日本一帯を完全に制圧したのは

【三国志・魏志・倭人伝】によると、247年、九州の狗奴国(狗加の国)が邪馬壱国に敗北した時点になりますが、倭国大乱では、誇り髙き先住民族は奮闘していました。.:*:・'°☆



飛鳥大神=事代主 えびす 蝦夷

第7代考霊天皇の時代~
倭国大乱になる……。

第8代考元天皇(出雲系)の息子
磯城家(大王家)の皇子
登美長髄彦=大彦命
大彦命=登美一族
大彦命の息子武淳川別(タケヌワカワワケ)
彼らの子孫【阿倍氏】が後に
蝦夷と呼ばれるようになる.。o○

神武東征は数々の戦乱により
渡来系九州天孫族の物部王国による
古代ヤマト勢力への侵略であった。

大和の将軍 登美長髄彦
大和の支配者 饒速日(徐福)

兄の五瀬命(イツセ)が敗北し戦死。

五瀬を征伐後
饒速日の息子ウマシマジが後継
※五瀬/ウマシマジとも徐福の血統
   ウマシマジはイワレビコだと云う…。

弟の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ/神武天皇)が後に勝利し初代天皇神武となった。

大彦は勝利したものの深手をおいヤマトを離れ各地を転々…。身内の裏切りにより大敗した。

大彦命の息子武淳川別の子孫は
常陸国→陸前国→陸中国→東北へと移り

大彦王国が日高見国と名のったから

東の夷の中に、日高見国あり

景行期27年『日本書紀』に書かれた。

 

二月、東(あずま)の夷(ひな)の中に

日高見国有り。

其の国の人、男女並に椎結(かみをわ)

身を文(もとろ)けて、人となり勇み悍(こわ)し。

是を総て蝦夷(えみし)と曰う。

亦土地壌えて曠(ひろ)し。

撃ちて取るべし。

 

その後、日之元津国(ひのもとつくに)」

日本之国(ひのもとのくに)と名のった。

 

『旧唐書』〔倭国日本国の条〕には、次のように書かれている。

 

日本國者 倭國之別種也。

以其國在日邊 故以日本為名。

或曰:倭國自惡其名不雅 改為日本。

或云:日本舊小國 並倭國之地

 

日本国は倭国の別種なり。

その国は日の辺のある故に

日本(ひのもと)を名とする。


倭国の蔑称:

倭国はその名が上品でないと自ら嫌い

改めて日本に変えた。

670年『倭』を改めて『日本』と号した


あるいは言う。

日本は古くは小国で

倭国と並立していた


この阿倍一族による


東北地方の日本国は

大和地方を中心とする倭国とは別の国で

それぞれが独自の貿易を行っていた。


この貿易の続行による輸入品は

後の平泉文化にも入っている。


この史書に書かれたように

日本列島に二つの独立国があったことは

外国には広く知られていた。


この2つの独立国並時代

鎌倉時代まで続いた.。o○


日本が初めて一つの国に

統一されたのは【北条執権】の時代


https://www.touken-world.jp/shikken-hojo/


阿倍氏は鎌倉時代には【安東氏】を名乗り

その中心地は【津軽十三湊


アビ彦とナガスネ彦は津軽に留まり、アソベ族の残党とツボケ族、そして大陸や朝鮮半島から東北に渡ってきた部族と連合し、アラハバキ族を結成する。アラハバキ族は東北を五つに区分し、それぞれに王を置き、各王による合議制で鎌倉時代まで統一を保った。

 

大和を征服した日向国は、たびたびアラハバキ国を攻めたが、アラハバキ族は防衛するだけでなく、逆に大和を制圧して、自分たちの王朝を立てたこともあった、という。

 

これが『東日流外三郡誌」に記された東北古代王朝部分のあらましで、壮大な創世神話から、大和政権との確執が描かれている。


古代以降は、東北地方の豪族・安倍氏をアラハバキ族の子孫とし、平安時代末期には宗家となった安東〔安藤〕氏が、十三湊〔青森県五所川原市周辺〕を拠点に水軍を組織。十三湊は交易の中心になり、内外の船が行き交い大いに繁栄する。

しかし、1340年〔もしくは翌年〕に起こった大津波で壊滅した、といった安東〔安藤〕氏の鎌倉時代から江戸時代に至るまでの歴史が綿々と綴られている。


↓以下より一部抜粋 ✨感謝✨