うちは仏教だと言いつつも『神様』を求める人 | 愛と希望と信仰で人生大逆転

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パン講師クリスチャンのプライベートブログ。

こんばんは。

パン講師クリスチャンの平野宏子です。




今日は私担当のフリーレッスン日でした。
午前レッスンが終わって、
午後はマンツーマンレッスンでした。



その生徒さんとマンツーマンレッスンになったのは初めてでした。



「先生と二人でレッスンなんて初めてだから、今までプライベートなことをお話しするきっかけがなかったです」



そうおっしゃって、初めて聞くここだけの話をたくさん教えてくれました爆笑




そのお話の中で、
「神様がそうしてくださった」・・・とか、
お話ししてると神様がたくさん出てきました照れ




うちは仏教なんですけどっておっしゃいながらね爆笑爆笑爆笑



お家には仏壇があって、猫ちゃんが入ってしまうそうなんです猫



神様の存在はなんとなく信じているんだけど、生まれた時から仏教に親しんでいるというのが私たち日本人です。








特別信仰しているものがなければ、日本人はとりあえず当たり前に仏教でお葬式しますよね。



私も子供の頃から両親の実家は仏教で、お盆はお坊さんに拝んでもらったり、お葬式は仏式でしたから、「うちは仏教です」というのはわかります照れ



でも、よくよく考えてみると、『うちは仏教』っておかしな言葉だなって思いますね爆笑
信仰するのは家ではなくて個人なのに



歴史的に、国が檀家制度を作ったのが現代も残っているからですね。



Wikipediaにはこうありました下矢印下矢印下矢印



江戸幕府は、1612年(慶長17年)にキリスト教禁教令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。
その際に、棄教した転びキリシタン寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。

武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである[6][7]。これを寺請制度という。

寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。

寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されたりすることに繋がった。






国が強制的に作った檀家制度に、私たちは今も縛られているのです。



過去や家に縛られないで、自由でありたいですね照れ




[ヨハネの福音書 8章32〜36節]


あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

イエスは彼らに答えられた。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

ですから、子(キリスト)があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。




自由じゃない=奴隷
真理を知ると、私たちは完全に自由になります。


私たちは全員もれなく罪を持って生まれてきます。
罪から解放されることのない罪の奴隷です。


どうしても悪いことを考えてしまったり、罪を犯してしまうものです。罪から解放されることはないから罪の奴隷となっているのです。


真理を知るということは、神のご計画を知るということです。


キリストが十字架にかかって死なれたのは私の罪の身代わりとなってくださったからだと信じることができれば、罪から解放されて、何の奴隷にもならない完全な自由となります。


自由を手に入れると、人の悪い目も気にならないし、檀家とか関係なく自分の信仰を持つ勇気も得られます。


誰にも気兼ねする必要はないのです。


自由なんですから爆笑











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