夕暮れが迫る街並みを背にして、私たちはクライアントとの長引いた打ち合わせを終え、疲れた足取りでオフィスを後に。辻本さんと私は、今日はもう遅いしそれぞれの自宅に直帰することした。
「相変わらず難題をぶつけてくるお客さんですね。主任は平気なんですか?」辻本さんは少し驚いたような顔で私に尋ねた。彼女の声には打ち合わせで感じたプレッシャーがまだ残っているようだった。
「あの程度なら、いつものことよ。相手以上の準備をしてれば何にも臆することはないわ。」私は笑いながら答えた。
そして、ふと時計を見て、もうこんな時間かと思い、「それよりも少し遅くなったけど、どっかでご飯しない?おごってあげる。」
辻本さんの顔が明るくなり、「わーい、今月ピンチだったから助かります!」と嬉しそうに言った彼女の明るい反応に私も心が少し和む。
「でもね、皆んなには内緒よ。規則違反になるから。」私は少し顔を寄せて小声で念を押した。
「わかってますよ。憧れの主任とご飯食べるなんて、しあわせすぎます!」辻本さんは目を輝かせながら言った。彼女のこの言葉が、疲れた心にほっと一息つかせてくれる。
私たちは、周りを気にしながらも、親しげに話をしながら、近くの居酒屋に足を運んだ。
店の温かい灯りが、夜の訪れを告げる街。この一日の終わりに、ふたりで過ごす食事は、仕事の疲れを忘れさせてくれる時間になりそうだった。
彼女(辻本恵美)は私より6つ下の26歳、入社して4年、入社当時から、何時も笑顔が印象的で社内だけでなく取引先でも人気がある。
今日のクライアント方も「彼女(辻本さん)は来ないの?」と尋ねられたことがあったので一緒に来てもらった。
彼女は何時も周りを明るくしてくれる能力があるみたい。とにかく回りを和ませてくれる特殊な能力が備わっているかのようだ。勿論、仕事もちゃんとできる。
プレッシャーが高まる状況でも、忙しさが極まる時でも、彼女だけは常に笑顔で頑張ることで雰囲気を和らげてくれる存在。
正直なところ、私自身には彼女が自然と持っているそうした才能が少し羨ましいく思う。
彼女は食べながら喋ることも止まらない。化粧品の事、ファッションの事、美容院やダイエットの事などとにかくなんでも出てくるのが、私は楽しかった。
「ねぇ、主任の今日着ているジャケット、OLD ENGLAND(オールドイングランド)でしょ。いいな~大人っぽくて、10万でも買えないですよね」
彼女はファッションにも詳しく「OLD ENGLAND、Brooks Brothers、Brooks Brothers……イギリス系のブランドって何か大人の品がありますよね~いいな~。ニューヨク系のPaul Stuartも品がありますよね。そんなスーツが似合う女になりたい!」
「何言っての。辻本さんだって十分似合ってますよ。それに私なんかよりずっと可愛いし。こっちが羨ましわ。……」
お酒も少し飲んでいたので、彼女との会話で仕事の緊張感からもほぐれてきた頃。
「主任はお休みの日とか何しているんですか?弓道をやってるのは知ってますけど、他は?」
「そ~ね~。本を読んだり、ネットで興味のある論文を見たり、ピコとおしゃべりしたりかな~」私が答えると、
「えっビコ?」彼女が首をかしげた。
「インコなの、オキナインコって種類で少し大きめなんだけど、おしゃべりが上手なのよ」
彼女は少し考え様子を見せて「ねぇ主任は、彼氏とかいないんですか?」
私は少し驚いて「う~ん。居ないわね~」少し考えて「ほしいような時もあるけど、面倒くさいかな~。仕事の事だけでも精一杯だからね。」
「え~っもったいないな~。頭は切れるし、美人だし、スタイルいいし。持てない要素が無いのに……」
私はチョットだけからかってあげようと思って、「でもね、ジ・ツ・ワ。結婚したことはあるのよ」
彼女はびっくりして「えぇ~!」と大きな声を上げ、慌てて口をふさいで。
「大スクープ!月も海に落ちそうなくらいの驚き。ねっね、誰と、聞かせて、教えて、絶対喋らないから~お願いします。」
私は微笑みながら、「それはね、6歳の時に近所の男の子と両親の前で。」
「な~んだ。おままごとの事ですか~ぁ。驚いて損した。」彼女は拍子抜けした様子。
「そう、驚かせてごめんね。でも、そんな子供の頃の約束があるのよ」と笑いながら話を締めくくった。
辻本さんの明るさは、私が日々のストレスに対処するのを助けてくれる。彼女との会話の中で、私は仕事のプレッシャーを忘れ、笑顔になることができ、彼女と話していると、私ももっとポジティブになれるような気がする。
楽しかった。辻本さんとの夕食も終わり二人はそれぞれ帰宅していった。
私は、自宅に戻り明日の仕事の書類を整理した後、明かりを消すとピコが「おやすみ、おやすみ」と声をかけてくる。
私も「おやすみ」と返してベットに入った。今日はお酒も少し入っていたのでゆっくり眠れそうだ。
やがて、私は気づかぬうちに眠りに落ち、夢を見ていた。それは子供の頃に体験した結婚式の夢だ。
どこで行われていたのかは定かではないが、小さな私がある男の子と一緒に、「王子様とお姫様」の物語を演じているようだった。
その男の子は真剣な表情で「ねえ、キョッコお姫様、僕と結婚してくれる?」と提案した。
私はその純粋で遊び心あふれる提案にすぐに心を動かされ、「うん、いいよ」と素直に答えた。
その場で、私たちは小さなベンチに腰掛けて、お互いに結婚の約束を交わした。
夢の場面が変わり、多くの椅子が並べられた部屋にいた。その部屋はなぜか懐かしく、見慣れた場所のようだった。
そこには三人の大人がおり、そのうちの一人は私の若い頃の母親であることが分かった。三人はとても楽しそうに笑っていた。
そして、私たち二人は椅子の上に立ち、「あなたはキョッコを永遠に愛することを誓いますか?」と尋ねられる。男の子は力強く「はい、誓います」と答えた。
次に私に向けて「キョッコは、彼を永遠に愛することを誓いますか?」と尋ねられると、私は少し照れくさいながらも「はい、誓います」と答えた。
その瞬間、大人たちは私たちの頭上から花びらや枯れ葉のようなものを降らせてくれた。
母親は「あら、大変、お父さんにも見せないと」と言って、三人は大笑いしていた。
夜が深まり、部屋は静寂に包まれていた。私は、ふと目を覚ますと、まるで無意識のうちに涙を流しているかのように感じた。
薄暗い部屋を、ほのかに照らす常夜灯の光が、静かに時間が流れていく様子を物語っている。ピコも寝ているようだ。
夢から覚めた私は、一瞬、現実と夢の境界が曖昧になったような気持ちになっていた。
小さな約束が心のどこかでずっと私を支えていたのかも。しかし、現実の世界では、そのような純粋な約束は簡単には守られないことも知っている。
私の視線は、部屋の片隅にある本棚へと自然と向かう。
そこには、博士号取得時の写真が大切に飾られている。その写真の横には、特別なものがあった。それは、弓道着を身にまとった私の姿を鉛筆で丁寧に描いたデッサン画だ。
この絵と写真は、私の人生の重要な瞬間を刻んだ宝物で、部屋の中で静かに自分の存在を語りかけてくる。
私は、涙の理由を考えないように振り切って、もう一度布団の中に潜り込んだ。