釘宮
日本にたくさん尊敬する牧師先生がいらっしゃいますが、この先生もその
一人です。「わっはっは牧師」と呼ばれている釘宮先生です。この先生の
話を聞いていると、間違いなく元気が出ます。

今日はその釘宮先生のメールマガジンを紹介します。
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釘宮義人+今週のメッセージ+2005.11.27号
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        「死んで生きる」

 「死んで生きる」、こういう言葉は日本人好みの人生観かもしれない。こうした言葉を簡単に言い切る人もいる。特に禅宗になじんだ人たちの中では。私は、先日、大分県下のキリシタン遺跡巡礼のバスツアーに参加しての帰途、この言葉の重みをしみじみ感じたのであった。特に国見町のペトロ・カスイ岐部神父の記念館を訪れた後の、帰りのバスの中で今回の遺跡巡礼を主催し、その案内を買って出てくださった篠光子先生の車中講義を聞いた時、深く感じ入った。こうした殉教の方々こそ、正に「死んで生きた」人であったと。神様の前に無力になりきってこそ、人は真に生きる事ができる。人は、その時、まったく主にすべてを委ねることが出来る。
              *
 私が、そのことを最初、分ったのは22歳の時であった。1944年(終戦の前年)の11月23日、当時は新嘗祭という休日であったが、その日、私は回心した。正確に言い直せば、聖霊に回心させられたのである。当時、私は非戦主義者として福岡刑務所の独房に入れられていた。ここまで来ては非戦主義はもう棚上げである。私は否応なしに自分自身の霊性に対面させられた。私は自分の汚れ果てた罪の性質にホトホト困惑した。内なる自分を殺すしかないのである。 しかし、如何にがんばっても私の場合には「己れに死ぬ」と言うことは不可
能である、と悟った。「死のう、死のう」と頑張っている本体が「自我」であるからである。私は自殺出来る人が羨ましかった。失恋や貧乏の程度では自殺する意志を働かせることが出来るからである。私には他のことで本気で自殺を図った経験があるので、その経緯が分かる。本気で自殺しようとする時、甘美さを感じる人さえいることを私は理解できるのである。

 その時、私は究極の罪意識からくる絶望感に陥って3日を過ごした。あんな絶望感は他に無いと思う。しかし、その3日目、イエス様の御言が私の心を射抜いた。「自我に死のう、自我に死のう」とがんばっていた、その「自我」が、主の御言によって一瞬に死んでしまったのである。この辺の心理過程を説明することは、これ以上難しいが、とにかく私は死んだのである。そして生きた、生き返った。

 キリストの福音は、イエス様の十字架の死にある。そして、その復活にある。聖霊様が、そのイエス様の死と復活を私自身のものとして体験させ、かつ私の中にキリスト意識を内在させて下さるのである。
              *
 とは言え、人間の意識は更に更に内面に深く食い込む性質があって、私の罪意識は簡単には消えないのである。私の20歳代の小論に「罪人われ」というのがある。私は確かに救われている、その信仰は確かに持っているのだが、相変わらず、私は自分の「悪しき思い」や、「悪しき言葉」、「悪しき行為」を捨て
られず、困り果てるのである。

 この問題は後に私のキリスト内住体験が更に深められることがあって解決するのだが、それにしても困難な信仰の道程であった。こうした時、起こる祈りは「私は罪深い者です。力の無いものです。私を憐れんでください」と訴えるほかはない。讃美歌に「弱き者よ、我にすべて任せよやと主はのたもう」という讃美がありますが、これは長いあいだ私の愛唱歌でした。

 事実、私でなくても多くのクリスチャンがよく祈ります。「神様、私は無力です。この無力な者をお救いください。私は無力のどん底にいます。こんな駄目な者を支えて、お助け下さるのはあなただけです」などと。これは決して悪い祈りではない。確かにパウロも言っています。「神の力は弱いところに完全に現れる。だから、
キリストの力が私に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。私は弱い時にこそ強いからである」(第二コリント12:9~10)と。
 私たちは全能の神様の前には、ケシつぶのような、小さい無力なものです。ですから、神様の上よりの力を求める時、私たちは謙遜に平伏して祈るのです。これは良いことです。
              *
 しかし、このような言葉を毎日のように告白していると、本当に小さな無力な者になりきって何も出来ないクリスチャンになってしまう恐れがあります。私は思います、クリスチャンが本当に無力であって良いわけはない。私たちには、たとえ小さな者であっても、尚かつ力はあるはずです。

 ヨハネ黙示録3:8では御霊はヒラデルヒヤ教会を称賛しています。「あなたには少ししか力が無かったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否まなかった」と。ヒラデルヒヤの教会は決して無力ではなかったのです。力は小さかったけれども、その力を全力使って信仰の証しを立てた。それを御霊は誉めてくださっています。これこそクリスチャンのあるべき姿でありせんか。

 「私は無力で何も出来ません」と泣きべそをかいているのがクリスチャンの標準ではありません。クリスチャンは力は小さくても、その小さい力を尽くして主に仕えるべきなのです。「喜んで自分の弱さを誇ろう」と言った、あの同じパウロは第一コリント15:58でこう言っています。

「愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」と。事実、神様を愛する点において、私たちは全力を尽くすべきです。マルコ12:30を拝読しましょう。イエス様はおっしゃっています。「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け、主なる私たちの神は、ただひとりの神である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』」と。
              *
 私たちが「力が無い」と言ってへりくだるのは、神様の前にある時だけです。そして私たちが神様の前にへりくだる時、神様は私たちに力を下さいます。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。また「聖霊が下る時、あなたがたは力を受ける」と約束されたのはイエス様です。また、すでに旧約聖書でも言われていました。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)。

 だから私は言いたいのです。主を仰いで喜びましょう。主は力を下さいます。この地上の戦いでも、世の勢力に負ける必要はありません。この世の君はサタンだとも言いますが、私たちは当然サタンにも勝ち得ます。いや、それ以上に勝ち得て余りあるからです。ここに福音の勝利があります。「福音」とは喜びのおとずれです。だから「ワッハッハハ」と笑えるのです。当然、喜びは更に燃え広がります。

 ここで、私の提唱する「ワッハッハハ」宣言は、実証されています。笑えば笑うほど喜びは倍加するのです。そして、力は更に増し加わり、クリスチャンは世界のどの分野に行って誰にも負けない活躍が期待できるのです。さあ、みなさんあらゆる分野に出て行って勝利を得るのです。
              *
 追加したい私の発見があります。思いきって言うと、「主にむかって、笑って祈ろう」というのです。一寸、不謹慎ですねえ、勘弁して下さい。私はこの祈り方の基礎として、次のみ言葉を挙げます。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」(詩篇37:4)。

 有名なマタイ7:7の「求めよ、さらば与えられん」、口語訳では「求めよ、そうすれば与えられるであろう」ですが、「私は求めてもなかなか与えられません」と、不満を訴える方たちも多かろうと思います。求めて与えられないのは、なぜか? 「快楽のために使おうとして悪い求めかたをするからだ」とヤコブ4:3は言うが、それだけでもない。下手な求め方をするからです。それでは上手な求め方というのがあるのか、あるのです。

 聖書には祈りの秘訣として、「信仰をもって祈ろう」とか、「イエス様の御名によって祈ろう」、あるいは「失望せず常に祈ろう」などと、記載されていますが、ちょっと気がつかないのがこの言葉です。「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる」(詩篇37:4)。
 
「主によって」を「主を仰いで」と読み替えると感じが出ると思います。また、「喜びをなせ」という訳は文語文から現口語訳への伝統ですが、すこし訳し過ぎとは思いますが、良い訳です。
 
私はこう読んだのです。イエス様を見上げて、無理にでも喜びの顔と、喜びの声をあげて、イエス様に心の願いを申し上げるのです。そうすると、イエス様は必ず私の願いを聞き入れてくださるのです。イエス様はおっしゃいました、「あなたがたのうちで自分の子がパンを求めるのに石を与えるものがあろうか。魚を求めるのにへびを与えるものがあろうか。天にいますあなたがたの父はなおさら求めてくる者に良いものを下さらないこ
とがあろうか」(マタイ7:9~11参照)と。

 イエス様を見上げて、喜びの声をあげてあなたの求めをイエス様に告げなさい。イエス様を見上げて喜びの声をワッハッハハとあげる時、私たちは不思議に悪い求め、快楽のための求めはしないものです。そして、不思議に聖なる油があなたに注がれます。聖なる光が注がれます。イエス様があなたの求めを清めてくださるからです。

〒870-0914 大分市日岡2-3-15 キリストの福音大分教会 釘宮義人
         TEL097-551-1366 FAX097-558-8550
     HP http://www.d-b.ne.jp/wahaha/

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 釘宮義人著「こうすれば信仰がわかる」定価 ¥1785(税込)
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  【テレホン聖書】097-551-0305
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櫻井よしこ

ジャーナリストであり、ニュースキャスターであった「櫻井よしこ」さんを知っていらっしゃる方は多いと思います。その櫻井よしこさんが自らの半生を書いた「何があっても大丈夫」を紹介されて読みました。
 敗戦の混乱の中、ベトナムの野戦病院で生まれ、命からがら日本に引き揚げてきた櫻井さん一家。少女時代、貧しい暮らしをしながら日本各地を転々とし、やっとつかみかけた幸せも、父親の蒸発、妾の発覚で、二転三転…。
 そんな波瀾万丈の生活を支えたのが、櫻井よしこさんのお母さんでした。「人を赦す」、「神に愛されている」という聖書的な生き方で生きるお母さんの言葉が、読んだ私の心にも染みこみました。今日はその一部をご紹介します。

 … 母はどうしてあんな風に前向きになれるのだろう。なぜ、愚痴や悪口や恨み言や批判を口にしないのだろう。なぜ思いっ切り、父をなじらないのだろう。なぜ、父と同居する女性の悪口を、彼女の実姉と一緒になって言わないのだろう。
 私は母に訊いてみた。
 「なぜ、お母さんは誰のことも悪く言わないの。言いたいけれど、我慢しているの? 誰にも言わないから、私に本当の気持ちを言ってほしい…」

 母は炬燵に入った私の向かいに座った。じっと私の目を見つめている。母の瞳が優しい茶色であることに気付く。小首をかしげてしばらく考えるような仕草をして、ようやく母は語り始めた。

 「お母さんはあなた達のように学校に行っていないから、難しい話はできないけれど、こう思うの。人間はみんな、神様に愛されて生まれてきたんだと。世の中を見渡してごらんなさい。人間ほど恵まれて生まれてきた存在はないでしょう。使えば使うほど知恵を出してくれる頭脳を与えられている。努力すればするほど磨かれる才能も、ひとりひとりに与えられているでしょう。神様は私たち皆を愛して下さっているの。だから、私たちは誰でもみんな、幸せになるようになっているの。どんな人も幸せになるために生まれてきたのよ」

 母は、ひとりひとりの幸せはその人自身が決めるものだとも言った。真人村万年下屋敷に生まれたことを常に感謝し、機織りをして家計を助けることができたことも感謝して暮らしてきたと語った。努力して努力して、上手に機を織り、他の人の反物よりも高く買い上げてもらったことを幸せに思い、そのお金を父親に渡して喜んでもらえたことは親孝行ができたことであり、本当に幸せだと思ったというのだ。

 「幸せはね、みんなの前にあるの。見つけることができるかどうか、それは気持ち次第なの。大事なことは、神様はどんな人にも幸せになってほしいと思っていらっしゃること。だから、お父さんや女の人が不幸になればいいなんて考えて悪口を言うことは、お母さんにはできないのです。お父さんも女の人も、皆、幸せでいることがいいことなの」

 神様は全ての人が幸せになるよう願っていらっしゃる。全ての人が幸せになるために生まれてきた。この母の言葉は私の心の中に染み込んでいった。人間の心の中には競争心もあれば、嫉妬心もある。他人を退けたくなることも恨みたくなることもある。自分がそのような後ろ向きの気持ちに陥ろうとするとき、私は母の言葉を思い出す。どんな人も幸せになる権利があり、それは天の意志なのだと。小さな存在の人間にすぎない身で、天の意志に反して、他の人を憎んだり恨んだりするのは不遜である。他の生き物よりも恵まれた資質を与えられた人間として生を受けたからには、出来るだけ前向きに生きよとも、母は繰り返し言い聞かせてくれた。
 これらの言葉をおまじないのように繰り返せば、私にも自分の中の後ろ向きな心を克服することができた…。
ちょっと時間のある時に思わず手にとってしまうのが、「時間の使い方」や「仕事の効率」などに関する本です。今日は午後にちょっと時間があったので、川北義則さんの「自分のための24時間」という本をナナメ読みしてみましたら、おもしろいことが書いてありました。「人生の締め切りを設定したシュバイツアー博士が成し遂げたこと」という章でした。ご紹介します。

「自らが定めた締め切りを守って、人生を百八十度転換させたのが、アフリカ医療の父、シュバイツアー博士である。彼は中級階級の牧師の子に生まれたが、音楽の才能に恵まれ、オルガンの腕は天才的だった。また、頭脳も明晰で、音楽、学問のどちらの世界でも一流になれると認められていた。ところが、21歳の夏、彼は自宅のベッドの上でこんな誓いをたててしまったのだ。

「神様、私は本当に幸せです。でもどうかもう少し時間をください。30歳まではこのまま音楽と学問の世界に生きます。しかし、それからは、神様への感謝をこめて、私は人類への奉仕活動に生涯を捧げます。」

オルガン演奏家であると同時に神学者でもあったシュバイツアーは、30歳になると神との締め切りを守る行動に出た。医学生として医科大に入学、6年間の勉強の末、医学博士となってアフリカへ向かったのだ。世界的人道主義者としてノーベル賞に輝くシュバイツアー博士の人生が始まったのは、40歳の時からである。

もし彼があの夏の日、幸福感のあまり、あのような誓いを立てていなければ、黒人医療に献身した人道主義者は生まれなかったであろう。これほど偉大なことでなくても、何事かを為す人は自分なりの締め切りを作り、それを守って生きている。当面何の締め切りもない人は、生きるに値する仕事を持っていないと言える...。」

どうでしょうか。神様に自分のしたいことを思いっきり打ち明けて、自分なりのビジョンと時間割を作ってみてはいかがでしょうか。
神様が、「幸せ (happiness) を得る方法か、喜び (joy) を得られる方法
のどちらかを教えてあげよう」と言われたら、どちらの方を選びますか?
ほとんどの人が「幸せの方をお願いします」と言うのではないでしょうか。しかし、「小説聖書」を書いたウオルター・ウオンゲリンは、happiness と joy について、こんなことを言っています。

 「浅い幸せ(happiness)と深く流れるような喜び(joy)の違いは、”悲しみ”にある。Happinessというものは悲しみと共存することができない。悲しみがやって来ると、happinessは死ぬからだ。幸せは痛みに耐えることができない。しかし喜び(joy)は悲しみから生まれるものである。よって、どんな悲しみにも耐えうる。喜びは、神の恵みによって変貌した試練である。試練が忍耐を生み出し、忍耐が人格を生みだし、人格が希望を生み出す。そして喜びとなったこの希望は私達を裏切ることはない。」

願わくば、どんなことがあっても揺るがない「喜び」をいただけたらと思います…。

"The difference between shallow happiness and a deep sustaining joy is sorrow. Happiness lives where sorrow is not. When sorrow arrives, happiness dies. It can't stand pain. Joy, on the other hand, rises from sorrow and therefore can withstand all grief. Joy, by the grace of God, is the transfiguration of suffering into endurance, and of endurance into character, and of character into hope--and the hope that has become our joy does not (as happiness must for those who depend upon it) disappoint us." Walter Wangrin, "Reliving the Passion"
前回ご紹介した佐々木満男さんの証の完結編です。以前の私もそうでしたが、「悩み多き人」には励まされる証だと思います。

(1)不安からの解放
まず、生活の根底にあった「不安」から解放されました。それまでの私の人生は不安の連続でした。米屋を継がされるのではないか、試験に落ちるのではないか、仕事に失敗するのではないか、病気になるのではないか。その不安を解消するために、がんばって勉強したり、仕事に励んだり、スポーツに打ち込んできたように思います。したがって、そこには本当の喜びも楽しみもありません。

しかし、イエス・キリストを心の中にお迎えしてからは、次第にそのような不安がなくなってきました。全知全能の神は、私の本当の父であり、私を心から愛し、守り、導いていてくださることを、信仰によって、日々の生活の中で体験するようになったからです。こうして今では、安心して学び、喜んで仕事をし、レジャーを心から楽しむことができるようになりました。

(2)むなしさからの解放
次に、「人はいつかは必ず死んでしまうのだ」という「むなしさ」から解放されました。それまでの私には、どんなに学んでも、一生懸命に仕事をしても、愛する家族がいても、死んでしまったら、何の関係もなくなってしまうのだという、大きな「むなしさ」がありました。

しかし、キリストを信じることによって「永遠の命」が与えられました。「死んでも天国において永遠に生きていける」という希望を持つことができたのです。そしてこの世の生活は、人々を愛し、神からまかされた仕事を行うという、楽しくかつ重要な意義があることを知りました。

(3)無力からの解放
最後に、キリストに出会うまでの私は、いつも自分の「無力」に悩まされてきました。やるべきこと、やりたいことはたくさんあるのに、それをやる力がないのです。しかし、キリストを信じてからは、神の無限の力と知恵が与えられるようになりました。そのようにして今では、どんな難しい事件にも、「神には不可能はない」ことを信じて、祈りつつ取り組んでいます。そして、ひとつひとつの事件を通して、神のすばらしい奇跡の解決を体験させていただいています。

4.何を信じるか
私たちは生まれてからこの方、いつも何かを信じて生きています。「人は何かを信じなければ生きることができない」ように造られているのではないでしょうか。子供の頃は親を信じ、勉強しているときは学歴を信じ、社会に出れば会社や財産や健康を信じるといった具合にです。

しかし、かつての阪神大震災を思い起こせば明らかなように、目に見え、手で触れることのできるもので、本当に頼ることのできるものは何ひとつありません。関東大震災がいつ再び起こるかわかりません。日本の政治や経済もいつ崩壊するかも知れません。いつ会社が倒産し、家庭が破綻するか知れません。そこで多くの人々は、安心を求めて、いわゆる新興宗教等に救いを求めます。ところが、一連の不祥事を追っていくと、諸宗教にも真の意味の救いがないことがわかってきます。

究極的には、救い主・イエス・キリストを信じる以外に、本当の救いはありません。キリストを信じること以外に人はすべてを委ねて安心して生きていくことはできないのです。イエス・キリストは、「わたしは、道であり、真理であり、命である」と言われました。キリストは私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかってその命を犠牲にしてくださいました。そして死後三日目によみがえって、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。

聖書によれば、天地万物はキリストによって創られ、支えられているのです。キリストは「王の王」であり、「主の主」であると書かれています。イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも永遠に変わることがありません。人類の歴史上、イエス・キリストと並びうる人は一人もいないのです。

私たちの人生で最も大切なことは、「何を信じるか」です。何を信じるかで、その人の人生が決定してしまいます。もしあなたが、神の御子であり、王の王であり、主の主であるイエス・キリストを信じるなら、永遠の命が与えられます。そして神の無限の力と愛と恵みを享受することができるようになるのです。私がその証人です。また、世界中のクリスチャンがその証人です。

この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである(使徒行伝4:12)
佐々木満男

佐々木氏は東京大学法学部卒業後、国際弁護士の資格を取られ、
現在、丸の内国際弁護士事務所に所属しておられます。ハーベスト・
タイム・ミニストリー理事。「インターナショナルVIPクラブ」を
主催し、ビジネスマンへの福音伝道に力を注いでおられる方です。
著書の「どんなことにもくよくよするな!」は大変励まされる本です。

1. 生活の根底にあるもの—不安・むなしさ・無力—

私は東京の下町で生まれ育ちました。父は祖父の代から米屋を営んでいました。長男である私は高校を出たら、当然、米屋を継ぐものと父から期待されていました。しかし父は気性も体力も強く非常に厳しい人だったので、一緒にいるだけで緊張してしまい全く楽しくありません。何とかして父から逃げよう、逃げようとしていました。

一生懸命に勉強して、ある私立大学の商学部に入学しました。「大学に入ったら父があきらめてくれるのではないか」と思ったからです。ところが入学した年に、近所の米屋の息子さんが、同じ大学の同じ学部を卒業して、米屋を継いだのです。私はこれを聞いてびっくりしました。これでは私も4年後には米屋を継がなければならないのではないかと不安になりました。そこでその翌年、こんどは国立大学の法学部を受験して、入学してしまいました。

大学卒業後は弁護士になりました。そのおかげでようやく父もあきらめてくれました。幸いなことに、今では、妹が柔道・剣道の有段者のおむこさんをもらって、米屋を継いでくれています。弁護士になってからは、国際的な法律事務所で働くことになりました。そして、日本と外国のさまざまな法律問題・紛争処理に携わってきました。20代の若さで顧問会社数社の取締役や監査役に任命されたり、一流企業の代理人弁護士としていろいろな国々へ出張して仕事をしたりしていました。外見的には大変華々しい生活をしていたと思います。

ところが、国際的な法律問題や紛争処理は、法律、文化、商習慣、言語などの違いがあるために非常に難しく、また仕事がどんどん増え、しばらくすると、ストレスのため疲れ果ててしまいました。「何のために弁護士になったのか、父を継いで米屋をやっていた方が余ほど楽ではなかったか」などと疑問を持ったりするようになりました。社会のいわゆるエリート・コースをどんどん昇って行っても、ますます不安と心配がつのるばかりです。人はいずれは死んで消えていくことを思うと、「人生とはなんとむなしいものか」と考え込まざるを得ません。

2.イエス・キリストとの出会い

そこで、もう一度ゼロから出直してみようと思い立って、オーストラリアのメルボルンの大学に留学しました。国際弁護士の激務から解放されて、再び学生気分に戻り、初めのうちは天国にいるような思いで楽しく過ごすことができました。ところがしばらくすると、社会から逃避したような学生生活にも飽きてきたのです。そしてまた人生の不安とむなしさが大きくつのってきました。

そんなときに、友人に誘われて、あるクリスチャンの集会に参加したのです。そこで、それまで私が経験したことのない、あたたかい愛と喜びと平安を持っている人々に出会いました。「私も彼らのようになりたい」と思いました。その後、友人たちと聖書を学んで、聖書に書かれていることを心から信じることによって、イエス・キリストと出会うことができたのです。

3.イエス・キリストに出会ってから

イエス・キリストに出会ってからは、確実に私の人生の方向が変わってきました。キリストを通して、宇宙万物を創造し、支配している全知全能の唯一・絶対・永遠・無限なる神がおられることを知ったのです。しかも、その偉大な神の本質は愛であることを知りました。そして、キリストの霊、聖霊を受けることによって、日々の生活の中で私に神の愛が無限に注がれていることを体験できるようになったのです。

キリストに出会ってから、私は、「不安」、「むなしさ」、「無力」という、人生の三つの根本的問題から解放されました...。<この続きはまた明日!>
 ある英会話教室グループを経営している社長さんが、知り合いに尋ねられました。「おたくのライバルはどこですか? NOVA、それともジオス?」 
すると、社長さんはこう答えました。「ディズニーランドです」。

 ディズニーランド内のあるレストランに、若い夫婦がやってきました。ウェイターが注文を取りに行くと、「お子様ランチを2つ」という注文でした。
しかし、お子様ランチは就学前のお子さんしか注文できず、そのことはメニューにも書かれています。「失礼ですが」と、ウェイターはていねいにその旨を伝えました。すると、夫婦はこう答えたのです。
「昨年、私たちの娘が亡くなりました。娘はここのお子様ランチが大好きで、一周忌に二人でお子様ランチを食べに来たのです」と。

 「ご注文、承りました。」
ウェイターはメニューを下げ、厨房に向かいました。そして、数分後、そのテーブルに3皿のお子様ランチが並びました。「どうぞ、ご家族でごゆっくりおくつろぎください」。ウェイターは、微笑みつつ深々と頭を下げました。夫婦は泣きながらお子様ランチを食べたそうです。そして、ディズニーランドの本部に手紙を書いたのです。「また来年、娘と一緒にお子様ランチを食べに行きます」。

 不況の中、東京ディズニーランドには、たくさんの人が詰めかけます。それは、そこに行くと感動をもらえるからです。
やって当然のレベル、予想通りのレベルといろいろありますが、マニュアルで対応可能な状況を越えたレベルでなされるサービスに、人は感動します。そのような対応を生み出すのは、相手に対するあふれる愛です。

 イエスさまの愛は、私たちの予想をはるかに超えています。
その愛を受け取り、感動することによって、私たちも愛を学びます...。
Amy

この間記事を書いたエイミー・カーマイケルの話、その2です。

エイミー・カーマイケルは、アイルランド生まれの宣教師でした。インドでの孤児のための宣教が最もよく知られていますが、日本でも宣教師として活躍していたことがあります。また、10冊ぐらいの優れた本を書いていて、多くの人達を励ましています。

エイミー・カーマイケルは、24歳のときに宣教師の召命を受け、25歳でバックストン宣教師の待つ日本の松江で宣教師の生涯を開始しました。エイミーには「みさきさん」という通訳がいました。

1893年(明治26年)のことでした。エイミーは神様からの語りかけを聞き、1週間目で2人がイエスキリストを信じるようにと祈り、2人が信じました。そして、次の週は4人が救いを受け入れるようにと祈ると、4人が救いを得ました。「それは信仰ではない」と先輩の宣教師からいさめられましたが、本当に神様からの語りかけなら、それが起きると信じました。
すると、8人が救われるという語りかけがあった翌週、実際に8人の日本人がイエスキリストを主として信じました。当時では、これほど伝道に成功した宣教師は、エイミー・カーマイケルを除いてはいませんでした。

エイミーはもともと神経痛を患っていましたが、証のために日本人と同じように着物を着ていたのが悪かったのか、神経痛があまりにもひどくなり、15か月で日本を去らざるを得なくなりました。一旦上海で静養したあと、インドに向かいました。

エイミーは、インドのバンガロールからはじめて、さらに南のドノバーで働きを始め、貧しい少年少女の救済、学校と病院の建設、やがて800人の大きな「ドノバーフェローシップ」という愛の共同体を作り上げます。エイミーは55年間、インドで神に仕え、83歳で生涯を閉じました。

60歳を過ぎてからは、骨折にはじまり、リュウマチに悩まされ、晩年の20年間は、ほとんど部屋から出ることができない身体だったそうです。

73歳の時の手紙にこうあります。
「昨晩、祈ろうとしましたが、みじめな敗北を味わいました。そばにあったイザヤ書を開くと、シオンの門について書かれている言葉が私の目を捕らえました——門は絶えず開かれています。それは、昼も夜も閉じられることはない(60:11)。父なる神のご臨在に近づく門は絶えず開かれているのです。門の扉を押す必要はありません。祈ろうと努力するのは、門を押すようなものでしょう。門が開かれているなら、入る以外に何もしなくて良い。単純すぎるように思えますが、私にとっては大きな助けとなりました。」
 
エイミー・カーマイケルは、この晩年の20年間に多くの著作を残しました。
特に有名な「御翼の陰で (You Are My Hiding Place)」は、この苦しみの20年の間に書かれた本です。
私の教えているアメリカの大学では、いよいよ2学期目も半分を
越えました。この時期になると、身体をこわしたり、いろんなことで
悩んだりする学生達が増えてきます。

そんななかで悩みながらも、仲間や先生達に助けられ、3歩前進
2歩後退しながら進んでいく学生は、何とか乗り切ることができます。

しかしこの大事な時期に親が助け船を出し過ぎると、学生は最後
まで歩き続けることができなくなります。すぐには帰れない距離に
家がある学生の方が思い切って腹をくくることができるので、うま
く乳離れをすることができます。

しかし、家が近すぎたり、親のところにすぐ帰れるような環境だと、
巣立ちがどうしてもうまく行きません。いつまでもエサをもらえる
ような状態なので、自分で羽を広げて飛ぼうとはしなくなるのです。


クリスチャンも同じかもしれません。
何でもほしいものがすぐ手に入ったり、困難な状況を人任せにして
しまうと「信仰の羽」を広げることができなくなってしまいます。

神は、鷲がその雛を訓練するように、飛べるまで高い所から落とす
こともあるのです。

ある人がこんなことを言いました。
 "God is in the business of helping you IN trouble, but not
 out of trouble."
(神は、あなたの困難の中で働かれるが、困難を取り除こうとして
 働かれるのではない。)

羽ばたくために悩んだり、叫んだり、傷ついたり... そんな姿を
忍耐して見ている父なる神様の方が辛いのかもしれませんね。

なぜか、夏川りみの「花になる」が聞きたくなる今日この頃です。
学校

家には5歳の娘がいますが、学校が楽しくてたまらないようです。
「今週はあと何日、学校に行けるだろうか」と指折り数えています。月曜日が始まるのが待ちきれないほどです。

娘には、いつも一緒に遊んでいる「ディナちゃん」という女の子の友達がいます。昼休みにグランドで遊んだり、一緒に歌ったり、お互いに絵をプレセントしあったりと、見ているだけで微笑ましくなる仲です。

そんな二人を見ていると、「どうしてそんなにディナちゃんが好きなの?」と聞いてしまいたくなります。

「ん~」と考えている娘に…

「優しいから? 楽しいから? おもちゃを貸してくれるから?」と
 矢継ぎ早に聞いてしまう私達、親でした。

そこで娘は、こう答えました。
「ん~。だって、Best friend(親友)なんだもん!」

それを聞いて考えさせられました。私達大人はともすれば、「~だから好きだ」とか「~だから友達になる」という“理由と論証づけ“の世界で生きています。

しかし、「“だって、友達なんだもん”、“だって好きなんだもん” でも
いいじゃないか!」と思いました。

以前、「どうしてイエスキリストを信じているの? どうしてキリストを親友なんて呼べるの?」と聞かれたら、「よく分かんないけど信じているんだ」と自信をもって答えられないことがありました。

「だって、すべてを造った神様だから。」「俺の“友“だから。」 
それで、いいんじゃないか、充分じゃないかと思う一日でした。