私がクリスチャンになったのは18歳の時でした。イエス・キリストが救い主であることを信じたわけですが、長い間、イエス様の十字架の意味がわかりませんでした。今もその素晴らしさの一部しかわかっていないような気がします。

そこで、レントのこの時期に、神様が十字架にかかられたことの意味をもう一度学んでみようと思い、アメリカではよく知られているジョン・パイパー牧師の「イエス・キリストの受難」という本を読んでみることにしました。

ご存じでしたか? イエス様の十字架の意味は50あまりもあるのだそうです! ちょっと長いですが、ご紹介します。次回から、いくつかにわけて、学んだことを書いていきますね。

 1.神の怒りを受け止めるため
 2.天の父を喜ばせるため
 3.従順を学び、完全な者となるため
 4.死者の中から復活するため
 5.罪人に対する神の愛と恵みの豊かさを示すため
 6.御自分の愛を私達人間に示すため
 7.律法が求める法的責任を無効にするため
 8.多くの人の贖いの代価となるため
 9.私達の罪を赦すため
10.義認の基礎を提供するため
11.私達の義となる従順を完成させるため
12.有罪宣告を取り去るため
13.救いの根拠としての割礼とすべての祭儀を廃止するため
14.信仰へと導き、保つため
15.私達を聖い非難されるところのない完全な者とするため
16.きよい良心を与えるため
17.すべての良いものを与えるため
18.道徳的、肉体的病いを癒すため
19.信じる者すべてに永遠の命を与えるため
20.今の悪の世界から救い出すため
21.神と和解させるため
22.神の御元に導くため
23.神に属する者とするため
24.私達が至聖所に大胆に入るため
25.神と出会う場所となるため
26.旧約時代の祭司職を終わらせ、永遠の大祭司となるため
27.人に同情のできる祭司となるため
28.父祖伝来のむなしい生き方から解放するため
29.罪の奴隷から解放するため
30.私達が罪に対して死に、義に対して生きるため
31.私達が律法に対して死に、義に対して生きるため
32.私達が律法に対して死に、神のために実を結ぶ者となるため
33.私達が十字架だけを誇りとするようになるため
34.私達が信仰によって生きる者となるため
35.結婚の意味を深めるため
36.良いわざに熱心な民を造るため
37.へりくだった犠牲的な合いの模範に従うように召すため
38.自分の十字架を負う弟子達を作るため
39.死の恐怖から自由にするため
40.死んだ後、すぐ主とともにいられるため
41.死者の中から甦らせるため
42.世の支配と権威の武装を解除するため
43.福音のうちにある神の力を放つため
44.民族間の敵意を打ち壊すため
45.あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々を贖うため
46.世界中から羊たちを集めるため
47.最後の審判から私達を救うため
48.御自身と私達の喜びを得るため
49.栄光と誉れの冠を受けるため
50.最悪の出来事も善へと変えられることを示すため

『イエス・キリストの受難』(ジョン・パイパー著)より
皆さんがいつも学ばされるレッスンって、何でしょうか?

ある人にとっては、時間に遅れないというレッスンかもしれませんし、
ある人にとっては、心配せずにまず祈るというレッスンかもしれません。

私にとってのレッスンは、「神様がこうしなさいと言われるのでなければ、
物事の最終判断を神様にお任せする(委ねる)」というレッスンです。

前回、Mさんとの出会いのことを書きましたが、実は後日談ならぬ、
前日談がありました。

日本からの学生さん達を当大学の学生とマッチングさせる時に、お互いの
趣向や語学力を元にして決めるのですが、今回は自分の思ったようにペアが
決まりませんでした。何かを言う前に、すでに、学校でペアが決められていたからです。

「これは何とかしなければ!」と思わず電話を取り、自分の意見を言おうとしたその時、「私に任せなさい」と神様に言われたような気がしました。

今、振り返って見ると、実は、あのままのペアで良かったのです。
いや、あのペアでなければならなかったのです。

そうでなければ、Mさんは、今頃シカゴでホームステイをしており、話す機会もないまま日本に帰っていたはずです。

あそこで口を出さずにいて本当に良かったと思いました。
神様は全部、お見通しだったわけです。

よっぽど強い神様の語りかけを感じるのでなければ、焦って自分の力で何かをしようとするよりも、全てをご存じの神様に委ね、その状況に身を置くのが良いというレッスンを今回もあらたに学ばされた次第です。
大変、ごぶさたしていました。何度もアクセスしてくださった方、申し訳ありませんでした! 今日から大学の春休みが始まり、やっと一息つく時間ができ、ホッとしています。

さて、私の勤めている大学には5つの姉妹校があるのですが、この時期になると、その内の東京にある大学からお客さんがみえます。毎年、学生さんが4人と引率の先生がお一人いらっしゃいます。

学生の皆さんはアメリカ人家庭にホームステイをしていますが、その学生さんの一人、Mさんとゆっくり話す機会がありました。

Mさんは21歳なのですが、よくいろんなことを勉強している人です。将来、銀行関係で働きたいと抱負を語ってくれました。

いろいろと話しているうちに、キリスト教についてかなり熱心に勉強していることがわかりました。

「どうして福音書は4つしかないんですか?」、「ニカイア会議で何が決まったのですか?」、「コーランと旧約聖書の違いは?」など、かなり内容のある質問をしてくれました。

1時間ほど話してから、Mさんは、「もう少しキリスト教と他の宗教を比較して、勉強してから信じるかどうか考えたい」と言いました。

しかし、私は言いました。 「比べても、真理は見えてきませんよ。」

「どうしてですか?」とおっしゃるので、将来、銀行員になるMさんに、以前、銀行関係のクリスチャンの方に伺ったお話をしました。

江戸時代の両替商(銀行)の大事な業務の一つに、偽物を見分ける仕事があったそうです。皆さん、その訓練は、どんな訓練だったと思いますか。いろんな偽物のお金を比較して見分ける訓練を受けたのでしょうか? 

いいえ。実は、こんな訓練でした。

本物のお金を、毎日穴が空くほど見つめ、触り、親しんだのだそうです。

Mさんは幸いに、「天地万物を造られた創造主の神がおられる」と信じていたので、「では、ユダヤ人も信じたキリスト教一本に絞って、穴の空くほど勉強し続けてみてはどうですか?」と勧めました。
そして、最後に、イエス様の名前で一緒に祈りました。

こういう出会いが与えられるのはうれしいものです。

ありがたい休みの初日となりました...。

追伸、銀行と言えば、元日銀総裁の速水優さんも熱心なクリスチャンの方です。Mさんも速水さんのことを知っていて驚きました...。
ミネソタの高校へ通っている間、日本で装っていた自分を捨て、12歳で脱ぎ捨てた自分を装ってまた人生を歩み始めました。それはどういう意味かと聞かれると少し説明しにくいのですが、あえて言うなら、12歳のときまで親しくしていた人にとっては三年間の空白の時間があります。その時間の間に僕が経験した物事や成長なども見取っていません。まさに止まっていた12歳の西野輔の時計が再び動き始めたような感覚だったと思います。その人たちから見れば、僕は何の不満もない、誠実に育った青年としか見られていなかったのです。

しかし、それもまた問題の始まりでした。三年間で成長もすれば、人も変わります。急変はしていなかったけど、微妙に違いが生まれていたと思います。でも、教会や周りの人たちは大事な存在で、決して期待を裏切ることなどできませんでした。自分は好かれるよう手はず良く臨機応変に対応していきました。学校では成績が良く、サッカー部に所属して、性格のいい、やさしい人だと思われ、友達もたくさんいていろいろな人に慕われていました。教会では子供に好かれ、聖書にも詳しく、年下の人に模範の役割のような存在でもありました。それが偽りだったのかと聞かれると、そうでもありませんでした。その中には自分もいたけれど、同時にいませんでした。いつのまにか、人の期待に応じることが自分の目標と生きがいになってしまってました。ほめられることは人間として誰でも好きだと思います。自分はいいことをした、人に認められた、と実感できるからだと思います。期待にこたえるだけではほめられません。期待以上に何かをやり遂げることによってほめられます。そのために自分は必死に頑張りました。しかし、期待をうわまると、期待の基準があがる一方で、きりがありません。とうとう押し込んで我慢していた自分がもう押さえ込めなくなり、自分の中で何かが爆発したような気持ちになり、頭の中が真っ白になり、もうどうでもいいようになってしまいました。

こういう時、人間は大きく二つに分けて対処するでしょう。一つは世界を嫌い、全てに八つ当たりしてしまう人。もう一つは逆にすべて自分で背負い、自分を嫌う人。世界は神が創り、人間も基本的には誠実な生き物だと信じたい自分は、どうしても世界を嫌うことができず、自己嫌悪に走りました。そのころから何もかも深く考えるようになり、眠れぬ夜も長く続きました。大学に来た当時もそうでしたが、考え始めて4年以上になります。そろそろ答えを見出すどころか、考えれば考えるほど答えが遠ざかりますが、人はどん底に落ちたら上に行くしかすべはありません。相変わらず自尊心は低いですが、自分を見つめなおすことができるようになりました。こういうふうに、自尊心が低いとか、大ざっぱだとか、わすれがちとか、自分の欠点を見るのは前から得意でしたが、それは自分の一部であることを認めています。直すどころか、直してしまったら自分でなくなってしまって自分を見失ってしまうような気がします...。<続く>
さて、今日は私の教えている大学の4年生の西野輔さんのライフストーリーをお届けします。西野さんは小さい頃からアメリカと日本の間を行き来し、両方の文化と言葉をよく理解している人です。大学を卒業する前に、日本語礼拝で証をしてもらうことにしましたので、お読み下さい。

... 日本人として生まれてから早くも22年以上たちました。父の仕事の関係でアメリカで育ちました。キリスト教との関わりは物心がつく前に始まりました。日本はクリスチャンが少ないことで知られていますが、その日本からアメリカへ渡って間もなく母が信者になりました。母は自分と同じ22歳のときにキリスト教を受け入れ、兄弟三人ともその時から毎週日曜日に教会へ通うことになりました。教会というものは僕にとっては自然な環境であり、存在自体疑問に思いませんでした。

そのように年月も流れ、日本へ帰国するころには普通にキリスト教を受け入れていました。小学校の最後のころまではまるでアメリカという場所が自分の世界であり、まれに訪れる日本は遠い存在でした。これからずっとアメリカで生き続けるのだと思っていました。しかし、両親は10年でアメリカでの生活を終え、一家日本へ帰国しました。自分が今まですべてだと思っていた世界が足元から引き抜かれ、まるで両親に裏切られたような思いも絶えませんでした。当時12歳の自分にはわからない大人の世界で全てが決められ、自分は従うことしかなす術がなかったのです。カルチャーショックという一言でまとめてもいいのかわかりませんが、まるで夢の中を生きているような体感がしばらくおさまりませんでした。

そこが「自分」探しの旅の出発点ともいえるでしょう。

自分の世界が裏返しにされた時から自分に疑問を抱き始めました。異世界へ連れて行かれるのに自分には何もできない事実を通して自分の非力さを覚え、なぜ神様は友達のいない日本へ行かせるのかが不思議で理解できませんでした。

日本ではどうしても「普通」というものがあります。「普通」といわれてもわかりませんね。多分、地域によって違いますが、日本人にはノルマがあります。こういう格好をして、こういうものを好き好み、こういう仕草や言葉遣いを使う、と決まった定められていない規則があります。よく日本文化は順応的だといわれますが、そのときは肌身で感じました。その「普通」の枠内に入らないものは切り捨てられる、という残酷な結末がすでに中学校のころから始まっていました。中学校を卒業するころは完璧に日本色に染められて、自分を見失っていました...。<続く>
いのちの教育

NHKスペシャル『よみがえる教室』でも取り上げられた茅ヶ崎市立浜之郷小学校の大瀬敏昭前校長先生のドキュメンタリーが本にまとめられました。

末期ガンと闘いながら教壇に立ち続け、自らの命を犠牲にしても伝えたかった「命の重さ」の授業。

最初に気付いたのは2000年の1月だったそうです。「自分の中にガンが生きている...。この世で自分に最後に与えられた使命は、この与えられた命を通して教育をすること」。それがクリスチャンであった大瀬校長の決意でした。

それから4年後の2004年1月3日に大瀬敏昭校長は57歳の若さで亡くなられました。生前のメッセージが24日に、同小学校の「お別れの会」で紹介され、児童や父母ら1500人が参列し、大瀬校長の人柄がしのばれたそうです。
 
以下はその「お別れの会」のレポートです。

「お礼」と題したメッセージは、大瀬さんが余命わずかと宣告された2002年9月ごろ、「私に何かあった時に読んでほしい」と同僚の栗原幸正教諭に託していた。

そこには、こう書いてあった。

「私たちは旅人であり、私の生も旅の途上であります。そして今日、『風』により新しい生を受け、『風』とともに次に旅立ちます...。正直心残りもありますが、成し遂げてきたことが幾ばくかはあり、ささやかながらも満足感を抱いての旅立ちです」。

さらに、「借り物の言葉」と断って、「大きなことをしようと健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと病気を与えられた。」

「祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに、実は私が望んでいたすべてのものが与えられた」とクリスチャン哲学者のラインホルト・ニーバーの言葉を引用し、自らの思いを伝えていた...。

いかがでしたか。たとえどんなに短い生涯でも、神に与えられた仕事を全うして天に帰りたいという念を強くさせられました。
がん哲学

哲学にもいろいろあるようですが、「がん哲学」というのを聞いたことがありますか。

樋野興夫(ひの・おきお)先生という順天堂大学医学部の教授ですが、こんなことを言っています。

「私は病理学者です。病理学者は、死を起点として人生を見るのです。人は死んだらすべての肩書きが取り去られます。その時、何が残るかが問題なのです。」

死というのはそれほど遠い存在じゃないと考えると、むしろ「よりよく生きる」ことができるんじゃないかと最近感じます。

大学のある学生がこんなことを言ってきました。「人生は無意味だと思う。目的も感じないし、将来何をしたらいいかもわからない...。」

そこで、こんなことを勧めてあげました。「近くの子供病院に一日見学に行ってみたら? きっと人生の見方が変わると思うよ...。」

隣町には子供のための病院があります。入院患者は、お母さんのお腹の中に5ヶ月しかいなかったという胎児から、16歳までの子供達です。心臓病から白血病まで、たくさんの子供達が毎日「生と死」を闘っています。

しばらくして、その学生が戻ってきました。今度はまったく違った目をしていました。生き生きとしていました。今、彼は社会福祉施設で楽しく働いています。

「本当に大切なものは、死の30分前に大切なものである」(ある哲学者)

樋野先生の本もありますが、テレビにも出られたようです。「ハーベストタイム」というキリスト教放送ですが、2004年5月の第4週と6月の第2週の放送です。バックナンバーも調べられますので、ご参考まで。http://www.harvesttime.tv
友人が教えてくれたサイトをご紹介します。

「ココロのきれいな人」じゃないと見えないそうです。

絵の真ん中の、小さな小さな4つの黒い点をじっくりごらんください。

http://www.flash.co3.jp/page/f1.html

ちょっと休息の日曜日にどうぞ。笑顔になれますよ。
漢字

日本語科の一年生は、はじめの2週間でひらがなを習いますが、少しずつ漢字も紹介します。簡単なところでは、「一」、「二」、「三」、「人」、「大きい」など。そして、日本人がよく使う「大丈夫」の語源は「大きな子ども、Big boyだったんだよ」と説明すると「大笑い」してくれます。

でも、やっぱり漢字は難関です。日本人にとっても覚えにくいのに、アメリカ人にとっては「超」難しいのです。そんな時、「漢字の中に聖書の話が入っているんだよ」と言うと、みんな興味を持ちます。「ほんとうか?」という顔をしている人もいますが、少しずつ説明していくと、「ほんとうかも...」という顔になっていきます。

Dr.KangとDr.Nelsonという人が"The Discovery of Genesis"という本を書きました。漢字の中に、聖書の話が盛り込まれているとしか思えないような漢字が200ほどあるというのです。(日本語でも同じような本がでています。ティモシー・ボイルという物理学の博士号を持っている人が「漢字に秘められた聖書物語」という本をマルコーシュ・パブリケーションから出しています。)

聖書のはじめが書かれたのが今から約3500年前ですから、漢字の始まりと言われている契文・金文が書かれた紀元前1500年とほぼ同じ時期です。この頃、シルクロード(絹の道)の元となった「玉の道」がすでに存在していて、中国と中近東は貿易で結ばれていたようです。

では、どんな例があるのでしょう。たとえば、「造」という漢字ですが、この漢字は「土」「口」「ノ」と「しんにょう」から成っています。ここでDr.Kangが説明しているのは、2千数百年前に書かれた「詩経」には「口」が「人」の意味で書かれていることがあり、この説を採用すると、この漢字は最初の人間アダムの造られ方と同じだというのです。そして、カタカナの「ノ」のようなものには、「力や息や気を入れる」という意味があると説明しています。確かに「アダムは土から造られ、神に息を入れられ、人となり、歩き始めた」と聖書にあります。

「船」という漢字がありますが、「舟」と「口」と「八」からできています。でも、なぜ「舟」に「八人の人」が乗っていると大型の船になるのでしょうか? 聖書の創世記を見ると、「ノアの箱船には、ノアとノアの妻と、3人の息子達と息子達の妻の合計8人が乗っていた」とあります。「え! 単なる偶然じゃないか? ノアの大洪水なんて非科学的だ!」と思われる方は、「世界の洪水伝説」を調べてみられるとよいと思います。世界中には昔から、ノアの洪水伝承が120ほどの地域で類似した形で伝わっています。

次に「義」という漢字ですが、元の漢字は「羲」です。聖書では「正しい、赦された」ということを「義とされた」と表現します。でも、どうして赦されたことが「羲」という漢字で表されるのでしょうか。この漢字は「羊」「秀」「戈(ほこ)」からできています。

また、立命館大学名誉教授の白川静先生のお書きになった「常用字解」の説明も引用したいと思います。「義 ー 羊と我とを組み合わせた形。我はのこぎりの形。羊をのこぎりで切り、犠牲(いけにえ)とすることをいう。儀式のときに供えるいけにえには、羊を使うことが多く、のこぎりで二つに切り離して供えた。それは羊の内臓をも含めて、すべて犠牲として完全であることを示すためで...神などに供える犠牲としての条件においてすべて欠陥がないことを義しい(正しい)という。義は犠牲の羊のことである。」

旧約聖書のレビ記を読んだことがある方なら、目玉が飛び出るぐらい驚かれたと思いますが、これはまさに、旧約聖書時代に行われていた犠牲の捧げ方です。完全な(秀でた)動物を二つに切り裂き、その間を通ることによって「義」と認められました。「血に命がある」というのが犠牲の理由ですから、血が流されなければ罪の赦しがなかったのです。そして、「羊」は「神の子羊」として犠牲となったイエス・キリストを表しているのは想像に難くないと思います。

これは聖書の話に関連している200ほどある漢字の一部だけですが、いかがでしたか。いつか、白川静先生にお会いして「漢字に秘められた聖書物語」について話し合えたらと願っています。

最後に漢字クイズで終わります。「禁」の漢字はどこから来たと思いますか?
日本漢字能力検定協会が毎年公募する世相漢字。
2005年の漢字は「愛」でした。

「愛」が最も多く投票された理由は、紀宮様のご成婚や、愛子様の
女性天皇に関する論議、愛地球博の成功、スポーツ界の「愛ちゃん」
の活躍などからだそうです。

「愛」の漢字ってすてきですよね。この漢字は「受ける」と「心」
からできているそうです。誰かの「心」を自分の中心に「受けとる」
のが「愛」。

私達をこよなく愛しておられるイエス様の「心」をそのまま受け取り
たいと思います。

たとえ私達の心には愛が足りなくても、イエス様ご自身が「愛」その
ものになってくださるのではないでしょうか。