亜希子さんの証、いかがでしたか。きっと励ましを受けられたことと思います。今回の洗礼式では、亜希子さんの他にケビンさんという日本語科の学生さんも洗礼を受けましたが、今回のブログでは、証のあとでした私のメッセージをエントリーさせていただきます。(ちょっとはずかしいですが...)
洗礼式説教「終わりがすべての始まり」(新訳聖書 ローマ人への手紙 6:3-11) 2006年4月
今日は、私にとって、とくに嬉しい礼拝の日です。皆さんご存じのように、亜希子さんとケビンさんが洗礼を受けるからです。去年の秋に、二人がなぜキリストを信じたか、その証をしてもらいましたが、今日は、亜希子さんがもう一度、最近、神様に教えられたことについて話してくれました。
2) 皆さんは、今日の証を聞きながら、こう思いませんでしたか?「やっぱり、キリストっているのかもしれない。本当に神なのかもしれない」と…。
イエスは、倫理の教科書に書いてあるような、2千年前に存在した宗教の先生なんかじゃありません。イエス様は「天地万物を造られた神」そのものです。
この、天地創造の神が、私達人間の罪の身代わりとして、十字架の上で死なれました。しかし、御存知のように3日目に死から蘇り、私達を死と悪から解放してくださった。もし、皆さんがこのキリストの十字架は自分のためだと信じるなら、誰でもクリスチャンになれます。キリストの救いを受けられるのです。
4) ですからもう、「神っているのかな。いたら、自分のことをどう思っているかな」と漠然と思う必要はありません。もしあなたが、「キリストを私の救い主として信じます」と心で信じ、口で告白するなら、イエス様の働きかけを日常生活の中で体験していくことができます。そして、私達の心、考え方、行動、欠点も変え、解放してくださり、真のあなたにならせてくださいます。
亜希子さんとケビンさんは今日、洗礼を受けます。洗礼は救いを受けるための手段ではありませんが、主イエス様に生涯仕えていこうと思う人が洗礼を受けるなら、「神の子供、天国の相続者」になれます。また、世界に20億人あまりいるクリスチャン家族の一員となります。そしてまた、創造の初めから今までいる何百億人の神の民の子孫となるのです。今日洗礼を受ける二人は、この神の壮大な救いのドラマに入ることになります。(本当にいいですか?)
6) さて、今日は皆さんと、イエス・キリストの十字架の意味と、洗礼(バプテスマ)の意味について考えてみたいと思います。
天地を造られた神が、あなたのために犠牲になったのなら、それは2つのことを意味していると思います。1つ目は、あなたは、思った以上に悪い状態にいるかもしれないということです。 例えるならば、健康そのものだと思っていたのに、突然お医者さんに「ガンの末期状態ですよ」と言われるようなものです。
8) それは私達の心に潜む「罪」のようです。そして罪は、「神を第一としない心、人を人と思わない自己中心の性質」のことです。もし、この罪を処理しなければ、それはガン細胞のようにどんどん広がっていきます。誰も食い止めることはできません。
しかし、唯一、完全に食い止めることができる方法を、ローマ人への手紙6章は教えてくれています。 「自分を一度、死なせること」です。
10) ローマ人への手紙6章5節に「もし私達がキリストに継ぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」とありますが、この「継ぎ合わされ」という言葉は、実は「一緒に植えられた」という意味があります。私達はキリストと一緒に、土の中に植えられたのです。
私達が作物を土に植える時、「埋めて終わり」じゃありませんよね。そこから実を収穫するために埋めます。イエス様は、「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。「地面に落ちて、植えられたなら、多くの実を結ぶことができる」という意味です。新しい命が実となって生まれてくるのです。
これと同じように、私達もキリストと一緒に、心を一度、霊的に死なせていただいたなら、新しく生きることができるのです。
12) そして、神があなたのために命を犠牲にされたという2つ目の意味は、あなたは神にとって、大切な人だということじゃないでしょうか。あなたは愛されているのです。今まであなたのために、誰か命を犠牲にしてくれた人がいたでしょうか。<続く...>