皆さん、こんにちは。今回はブログ移動のお知らせです。

アメブロには相応しくないトラックバックなどが多いため
以前から困っていたのですが、思い切って別なブログに
一括移動することにしました。

http://blog.goo.ne.jp/andygoo

以上のサイトですが、これからもよろしくお願い致します。
花盛り

私の住んでいるミシガン州ホーランド市は、人口が5万人もいないほど小さな町なのですが、あるお祭りで有名な町です。

「チューリップ・フェスティバル」というお祭りですが、アメリカでは一番大きなチューリップのお祭りが、毎年5月の中頃にあります。お祭りの間は、この人口5万人しかいない町が、なんと50万人にふくれあがってしいまいます。大学の卒業式もこの時期と重なるので、町は至るところ大渋滞。ふだん5分で行けるようなお店も、30分はかかってしまいます。

ですから、混み合う前に、皆さんに素敵なホーランドの町をちょっと写真でご紹介します。(ちなみに、私はデジタルカメラで写真を撮るのが好きです。もうわかってしまったでしょうか...)

この写真の木は、何という名前の木かわからないのですが、春一番に真っ白な花をさかせる木です。(サクラの一種かも...)その下に美しいチューリップが咲いていたので、思わず車を止め、シャッターを切りました。

ホーランド市は1847年にオランダ人の入植者によって建てられたのですが、オランダから200人の人々を導いてきたのが、バンラルティーという名前の牧師です。そして「オランダ」という意味の名前の「ホーランド」がこの町の名前になりました。

1866年には、ホープカレッジができたのですが、なんと日本とおもしろいつながりがありますので、それは後日、お話しますね。どうかお楽しみに!
... 妻と真面目に話していることですが、もし心臓病を持っている娘のノエルの状態がさらに悪くなって、私達以外に心臓をあげられる人がいないとしたら、きっと「この心臓を使って下さい」と医者に言うと思います。しかし、ノエルに命をあげるためには、私達は死ななければなりません。しかし、そのことを歴史的に、 世界的に、 霊的に、大きなスケールでしてくださったのが「イエス様の十字架」です。イエス様はあなたに命を与えるために、自らの命を犠牲にされたのです。

14)もし、 たとえ私達の心臓をノエルに与えても、80年ぐらいしか使うことはできませんが、イエス様の命は「永遠」です。「永遠に神と共に、命にみなぎって生きることができる命」です。これは夢物語ではなく、この姿こそ、私達の真のあるべき姿なのです。

さて、神様はどのように私達に永遠の命を与えられたのか。それは、すでに持っている命に新しい命を足したのではありません。むしろ、神様は、私達の命を一度、十字架につけ、死なせ、ゼロにし、そこに全く新しい命エネルギーを吹き込まれたのです。それが今日のローマ人への手紙6章の前半に書いてあることです。

16) ちょっと、エンジニアリングの話になりますが、充電式カメラのバッテリーでも何でも、使った分を足していくだけだと、バッテリーの寿命は短くなりますね。しかし、長く使うためには、一度、電気エネルギーを抜き、ゼロにして(リフレッシュと言います)から、充電すると長持ちします。まるで、バッテリーを一回死なせて、甦らせるかのようなプロセスです。

神様は、生まれながらの私達を十字架で死なせ、ゼロにし、全く新しい「神の命エネルギー」をそこに入れ、甦らせてくださいました。そして、このエネルギーをいただくと、神様のことを愛し、神様のことがわかるようになるのです。

18) でも、それって目に見えますか? その出来事の目に見える形が、水のバプテスマ、洗礼です。洗礼は、あなたの罪が洗い流されたこと、イエス様と一緒に古い自分に死んだこと、そして、神の命をいただいて復活したことを示しています。

そして、あなたの中にいらっしゃる方は、「主イエス・キリスト」です。「古いあなた」ではありません。ですから、洗礼の意味は第一に、あなたの霊的な「お葬式」であり、「誕生式」であり、「結婚式」でもあります。 <続く...>
洗礼式礼拝

亜希子さんの証、いかがでしたか。きっと励ましを受けられたことと思います。今回の洗礼式では、亜希子さんの他にケビンさんという日本語科の学生さんも洗礼を受けましたが、今回のブログでは、証のあとでした私のメッセージをエントリーさせていただきます。(ちょっとはずかしいですが...)

洗礼式説教「終わりがすべての始まり」(新訳聖書 ローマ人への手紙 6:3-11) 2006年4月

今日は、私にとって、とくに嬉しい礼拝の日です。皆さんご存じのように、亜希子さんとケビンさんが洗礼を受けるからです。去年の秋に、二人がなぜキリストを信じたか、その証をしてもらいましたが、今日は、亜希子さんがもう一度、最近、神様に教えられたことについて話してくれました。

2) 皆さんは、今日の証を聞きながら、こう思いませんでしたか?「やっぱり、キリストっているのかもしれない。本当に神なのかもしれない」と…。
イエスは、倫理の教科書に書いてあるような、2千年前に存在した宗教の先生なんかじゃありません。イエス様は「天地万物を造られた神」そのものです。

この、天地創造の神が、私達人間の罪の身代わりとして、十字架の上で死なれました。しかし、御存知のように3日目に死から蘇り、私達を死と悪から解放してくださった。もし、皆さんがこのキリストの十字架は自分のためだと信じるなら、誰でもクリスチャンになれます。キリストの救いを受けられるのです。

4) ですからもう、「神っているのかな。いたら、自分のことをどう思っているかな」と漠然と思う必要はありません。もしあなたが、「キリストを私の救い主として信じます」と心で信じ、口で告白するなら、イエス様の働きかけを日常生活の中で体験していくことができます。そして、私達の心、考え方、行動、欠点も変え、解放してくださり、真のあなたにならせてくださいます。

亜希子さんとケビンさんは今日、洗礼を受けます。洗礼は救いを受けるための手段ではありませんが、主イエス様に生涯仕えていこうと思う人が洗礼を受けるなら、「神の子供、天国の相続者」になれます。また、世界に20億人あまりいるクリスチャン家族の一員となります。そしてまた、創造の初めから今までいる何百億人の神の民の子孫となるのです。今日洗礼を受ける二人は、この神の壮大な救いのドラマに入ることになります。(本当にいいですか?)

6) さて、今日は皆さんと、イエス・キリストの十字架の意味と、洗礼(バプテスマ)の意味について考えてみたいと思います。
天地を造られた神が、あなたのために犠牲になったのなら、それは2つのことを意味していると思います。1つ目は、あなたは、思った以上に悪い状態にいるかもしれないということです。 例えるならば、健康そのものだと思っていたのに、突然お医者さんに「ガンの末期状態ですよ」と言われるようなものです。

8) それは私達の心に潜む「罪」のようです。そして罪は、「神を第一としない心、人を人と思わない自己中心の性質」のことです。もし、この罪を処理しなければ、それはガン細胞のようにどんどん広がっていきます。誰も食い止めることはできません。

しかし、唯一、完全に食い止めることができる方法を、ローマ人への手紙6章は教えてくれています。 「自分を一度、死なせること」です。

10) ローマ人への手紙6章5節に「もし私達がキリストに継ぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」とありますが、この「継ぎ合わされ」という言葉は、実は「一緒に植えられた」という意味があります。私達はキリストと一緒に、土の中に植えられたのです。

私達が作物を土に植える時、「埋めて終わり」じゃありませんよね。そこから実を収穫するために埋めます。イエス様は、「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。「地面に落ちて、植えられたなら、多くの実を結ぶことができる」という意味です。新しい命が実となって生まれてくるのです。
これと同じように、私達もキリストと一緒に、心を一度、霊的に死なせていただいたなら、新しく生きることができるのです。

12) そして、神があなたのために命を犠牲にされたという2つ目の意味は、あなたは神にとって、大切な人だということじゃないでしょうか。あなたは愛されているのです。今まであなたのために、誰か命を犠牲にしてくれた人がいたでしょうか。<続く...>
学生達

今日は朝から暖かく、昼には23度を越える陽気となりました。

"Spring Fever"と言いますが、こんな日になると学生達も外に行き
たくなるらしく、「外で勉強しましょう!」と誘ってきます。

「外で本当に勉強できるのかな~」と思ってしまいますが、教室の
中でこもっているよりもいいので、思い切って外で勉強することに
しました。

今日は「~ながら~をします」という文型を学びましたが、「同じ
人が、2つのアクションを同時に行う時に使う文型。自分、または
ある人にとって、より大事なアクションが文の後ろに来る」という
ような説明をしました。

すると、学生達は自分の文を作り始めました。
そして、「ポップコーンを食べながら、映画を観る」のか「映画を
観ながら、ポップコーンを食べる」のかという話になりました。
どうやら、アメリカ人の学生にとって、ポップコーンは映画と同じ
ぐらい大事な物のようです...。

ホープカレッジの日本語クラスは、今日で平常の授業は終わりです。
これから、今まで学んだことの復習に入り、来週の金曜日から期末
試験などが始まります。そして、あっという間に卒業式がやってき
ます。大学の一年が終わるのは本当に早いものです...。

みんな、がんばって行こう!
... もし、私がアメリカに戻って学校生活を始めていたら、私は父の孤独の真髄を見ることはなかったでしょう。そのために父の再婚についてもっと長いこと苦しまなければいけなかったかもしれません。主は私のために道を整えていてくださいました。日本に残ることを許し、父と暮らす中で、主は自分自身の痛みに目を向けるだけではなく、父の心の痛みにも目を向けるように導いてくださいました。
  
 父との暮らしの中で、改めて、父の私に対する愛、父は決して言葉で表そうとはしませんが、それははっきりと目に見えるものでした。父の力強さ、そして、長いこと認めたくはありませんでしたが、父の再婚の決断が私を深く傷つけたこと、そしてその傷をつけた父を赦すとういうことをしなければならなかったこと。

 家族に傷つけられ、赦さなければならないほど辛いことはないと思います。家族というのはいつもお互いを支え合い、決して傷つけあうものではないという考えが根本にあるからです。聖書には神があなたを赦したようにあなたも他人を赦しなさいと言っています。私は長い間これを父に実行できないでいたことに苦しんでいました。父を赦さなければいけないという状況さえも否定していた私に主は現実を見る勇気、そして自分の心の痛みだけに専念するのではなく、父の心の痛みも感じることができるような、人を思いやれる人間になることの大切さを教えてくださったのです。

 日本での時間を終え、アメリカに戻ってきた私を主はさらに祝福し続けてくださいました。ホープに戻ってくる前、友達は私のことを覚えてくれているだろうかなどと不安に思ったりしていましたが、それはまったく無用な心配でした。主は今までに築き上げてきた友達だけではなく、新たな人々との出会いももたらしくてくださいました。主の祝福は言葉で表すよりももっと深く大きいものです。
 時々、ふと思います、主よ、なぜあなたは私をこんなにも祝福してくださるのでしょうか、私はこんなにたくさんの祝福には値しないのに、何も返せるものはないのに。中嶋先生が説教されたように、神様は私たちに見返りを求めることなど決してないのです。ただ主は私たちを深く愛しており、困難な時もそして喜びのときもすべてを分かち合いたいと思っているのです。そんな素晴らしい主を知れたことを大変うれしく思います。

 主は時として、私たちが想像もしなかったような考えを投げかけてきます。私たちは当然私たちなりの考えがあるので、それにとまどうことでしょう。そこに飛び込むには不安がいっぱいあるでしょう。しかし、勇気を出して主の言葉に忠実になれることの素晴らしさを私は今回学びました。日本に残るというのはとても大きい決断でしたが、それをいざ決めたとたん、主はいろんな形でそれをサポートしてくださいました。父のサポート、Hopeのサポート、そして友人のサポート、これらはすべて主がもたらしてくださったものです。そして、父の再婚で傷ついた事実を受け入れ、父を赦すことができたこと、父の孤独を理解できたこと、そして父の愛を感じられたこと。これらすべてを学ばせてくださった神様はやはりとても偉大です。

 Hopeでの生活もあと残り1ヶ月となりました。卒業のあとどうなるかはわかりません。しかし、主が私に何かを用意してくださっていると信じています。主が私とともにいてくださり、必要なことを起こしてくださることを知っています。私に必要なことは、主が私の頭では計画していなかった計画を投げかけてくださったときにそれに、答えることができるだけの信仰、信頼を主に寄せているかだと思います。私はいつも主の投げかけを受け止め、それに従うことのできる信仰を持っていたいと思います。神は私たちの勇気をたたえ、祝福を何倍いや、何十倍にもして返してくれることでしょう。

 こうして、私と主の道のりをお話しする機会が与えられたことを本当に感謝します。みなさんの上にも神様の祝福がありますように、困難なときも、そして喜びのときも主とともに歩けることができますようにと祈って終わります。
アメリカに帰国する前日の午後のことでした、私はリビングのソファーに座って窓の外を眺めていました。父とよい会話ができたことで私はとてもほっとしていました。すると主が次のように話しかけてきたように感じました。「亜希子、家に残りなさい。学校に戻らずに家に残りなさい。そして、あなたのお父さんとの関係を修復するのです」と。

 私は信じることができませんでした。私の最初のリアクションは、英語で”Are you kidding me, Lord?” そんなことはとうていできないと思いました。学校を休んで家に残るなどというOptionは考えたこともなかったのです。いろいろなことが私の頭の中をよぎりました。10月の時点で学校を休学することは可能なのか?そうしたら予定通りに卒業することはできるのか?キャンパス内で私がかかわっている活動はどうしたらいいのか、今やめてしまったらそれは無責任ではないのか?1学期学校を去って友達は私のことを忘れてしまわないか?などなど数えたらきりがないほどに不安の種はたくさんありました。
 
 しかし、何度も主にこれでいいのかと尋ねれば尋ねるほど、それは確信に変わっていくように思われました。その日の夜、私は思いを父に打ち明けました。父は意外なほど、それが私のしたいことであれば、好きにしたらいいと言ってくれました。それからことはあれよという間にスムーズに動いていきました。Hopeにいる関係者に連絡し、休学したい旨を伝えると、さっそく私のために手続きを済ましてくれました。友人たちもこの決断をサポートしてくれました。

 おかげさまで私は日本でとてもよい時間を過ごすことができました。最初の1ヶ月は長野の祖母の家にもどり、一緒に暮らしました。田舎でひとり暮らしをしている祖母と住んだ時間はとても貴重なものでした。祖母の畑で取れるものをふんだんに食べ、温泉につかり、近所を散歩したり、それはとてものどかな時間でした。美しい自然の中でゆったりとした時間をすごし、改めて主が作り出したこの美しい自然に感激し、感謝するばかりでした。学校の忙しさから離れて一息つくことは、母を亡くして走り続けてきた私には必要なものでした。

 1ヶ月のち私は家に戻り、父と暮らしました。この経験もかけがえのないものとなりました。アメリカに来て3年間できなかった、父と一緒に暮らすこと、日々の小さい出来事を分かち合えるのは、素晴らしいことでした。一緒に寝起きをともにし、食事をし、時間をすごすというただそれだけのことですが、それをこんなにも恋しく思っていたのかと改めて感じました。

 そして何よりもよかったことは、父の孤独をもっと深く理解できるようになったことです。家に帰ってきて一人で食事をしたり、週末を一人で過ごさなければならない父を見て私の心は痛みました。ここにきて初めて一人でいるのは辛い、さびしいという父のコメントの本音を知りました。そのことによって私は初めて父の再婚に納得することができました。このまま一人で残りの人生を過ごすなんて辛すぎる、父はそんなことには値しない。これよりももっと幸せな人生に値するはずだと。

以前ご紹介した、ホープカレッジの4年生の亜希子さんが、昨日、洗礼を受けました。洗礼を受ける前に、「最近の神様との歩み」と題して、お話してもらうことになりました。その証をご紹介します。

 私がイエスキリストを受け入れて早くも1年以上がたちました。長かったようで、短かったようなあっという間の1年だったと思います。神様を受け入れてからの人生は実に驚くほど変わりました。母を亡くし、絶望しか見えていなかった私に、主は光を与えてくださいました。主はどんな経験をもけっして無駄にはしない、無駄にはさせないということを教えてくださいました。
 去年の9月に証をさせていただいたときには、私と主との出会い、主を受け入れるまでのプロセスについて話させていただきました。今回は主とのこの1年の道のりを振り返ってみたいと思います。
 
 母を亡くして、2年半が過ぎようとしています。母を亡くした痛みもだんだんと和らいできました。この痛みが全て消えることは一生ありませんが、主がその重荷をも背負っていてくださるというのはとても心強いものです。

 しかし、去年の夏、もう一つ困難がもたらされました。父が再婚したいと言ってきたのです。私の最初のリアクションはショックと混乱でした。父がまた結婚するなどとは思ってもみなかったからです。次に思ったこと、それは、父はもう母を愛していないのかということでした。もしそれが本当だとしたら、私にとって耐え難いことでした。

 しかし、そのような気持ちとは裏腹に、私は努めて明るく父に言いました。「お父さんが幸せになれるのだったら、私も幸せだよ」と。今考えると、その気持ちは偽りとしかいいようがありませんでした。私はクリスチャンとして、人の気持ち、とくに家族の再出発を祝福すべきだと言い聞かせていたからです。父の再婚に対する私の本当の気持ちを私は押し込めていました。なぜなら、人間として、クリスチャンとして、人の幸せを喜ぶべきだと思っていたからです。

 しかし、神様はちゃんと私を見ておられました。去年の8月、私はてんかんをわずらい病院に運ばれました。そのとき、主は私に「ペースを落としなさい。ゆったりとした時間を持ちなさい」と言っておられるように感じました。主の言われたとおり、その学期を休みの学期にすることにしました。比較的簡単なクラスを最低限の単位で過ごすことにしました。学校にいながらゆったりとした時間を過ごすというのはとても難しいものです。周りの友人たちは毎日宿題や課外活動に終われ、忙しくしています。そんな中わたしはあまり宿題もなく、やりたいことは何でもやれるという状況にいました。しかし、私の心の中の孤独、虚しさはずっと消えることはありませんでした。神様は私が自分の心の痛みに直面していないことをご存じだったのです。

 そんな中、秋休みがやってきました。それはちょうど母の3回忌にあたるため、私は休みを利用し、日本に帰りました。日本に帰ると、父はてんかんをわずらった私の体調をものすごく心配していました。父は私のてんかんを自分のせいだと感じていたらしく、私が父の結婚に関して本当はどう思っているのかと聞いてきました。私は正直に告白しました。いくら頭では父の新しい幸せを願おうとしても、心はそう簡単にはいかないと。とても不安であると。父はそんな私を見て、結婚は辞めてもいいと私に言いました。その瞬間、「それは私が父に望んでいることではない」と気づきました。私は父に、心の痛みをわかって欲しかっただけだったのです。この再婚話によっていかに傷ついたかということ、ただそれだけをわかって欲しかったのです。そして何よりも私には時間が必要だということ。父に面とむかって心の傷をうちあけることができたことによって、私は心の重荷を下ろすことができました。それと同時に父の自己犠牲愛を感じました。家族の暖かさを再確認しました。
友人からおもしろい記事を紹介してもらいました。クリスチャントウデイというインターネットのキリスト教新聞ですが、日本人クリスチャンの人口が6%に増加したという記事です。Gallop社の調査が入っているということは信頼に足る情報であると思いますが、本当だとしたら、素晴らしいですね! 以下、その記事を転載します。


日本クリスチャン人口急激増加 6%に (「クリスチャントウデイ」より)2006年03月20日 14時08分

 米紙クリスチャンポストの情報によると、最近のギャラップ世論調査によって、前回の調査と比較してかなり多くの日本人がキリスト教を信仰すると主張していることが明らかになったという。
特に十代の若者の中でキリスト教信仰を主張する人の割合が急激に増えたという。

 日本はキリスト教徒が1%にも満たない国家であるといわれていたが、今回の大規模な全国調査によると日本人のキリスト教徒の全体的な割合は6%に上るだろうということが示された。一方で、日本で最も人気のある伝統的な宗教である、仏教、神道の信徒数は減少傾向にあることも示された。

 成人日本人の30%の人は何かしらの宗教を信仰していると主張しており、そのうちの75%は仏教徒、19%は神道、そして12%がキリスト教徒であったという。特に日本人の若者の間で前回調査と比べて著しい変化が生じていることが明らかになった。若者の間では、20%がなんらかの宗教を信仰しており、そのうち60%は仏教徒、36%がキリスト教徒あるいは神道であるという。

 また今回の調査結果から、日本人の十代の人口のうち、7%はキリスト教徒であることが伺え、米ギャラップ社によると、この日本人の若者に見られるキリスト教徒数の増加度は驚くべき結果であるという。

 日本の社会科学者らによると、今回の調査は今までに行われた調査の中でも最も大規模もので、児童から高齢者まで幅広い年齢層の日本人に対して宗教意識を調査したものであるという。

 今回の日本人に対する宗教意識調査を企画したギャラップ社のビル・マッケイ氏は、「ギャラップ社によってデザインされた質問用紙を日本の専門家が見たとき、彼らは日本人は決して社会的に敏感でなおかつ個人的な質問には返答しないだろうと難色を示しました。しかしながら日本人は彼らの宗教について話す準備ができており、もし私たちが尋ねれば尋ねた以上のことを返答してくれるだろうと、調査専門会社である当社の直感が働いたのです。今回の調査結果は、第二次世界大戦の悪夢を打ち壊した日本人の現代の横顔を明らかにしてくれたと思います」と述べた。

 マッケイ氏は今年末に放送される予定のドキュメンタリー番組のプロデューサーの1人でもある。今回の世論調査の目的の一つは、そのドキュメンタリー番組に調査結果を用いるためであるという。

 ギャラップ社によると、ここ50年間のギャラップ調査において、今回の調査結果ほど重要な結果が得られたことはなかったという。なぜなら今回の調査結果は、日本の非常に魅力的な文化傾向を明らかにしたからであるという。

 今回の調査結果を綿密に調べた結果、さらに人生に対する日本人の一般的な見方、精神的健康、道徳性に対して多くの日本人が失望していることも明らかになった。 

 また日本人の多くは死後の世界があることを何かしらの形で信じているにも関わらず、日本人の間で永遠に続く希望をもっている人はほとんどいないことも明らかになったという。

 米国の十代の若者と比較して、日本人の十代の若者は人生に対して悲観的な見方をしていることも示された。前回の調査では、日本の85%の十代の若者が「なぜ自分がこの世に存在しているのかわからない」と答えたのに比べ、米国では自分の存在理由がわからないと答えた十代の若者は22%しかいなかった。さらに米国人の十代の若者の76%が「自分がこの世に存在する理由を常に模索している」と答えたのに比べ、日本人の十代の若者で自分の存在理由を模索している人はわずか13%。さらに「自分は生まれなければ良かった」と思う十代の若者は米国では3%しかいなかったのに比べ、日本では11%も存在していることも明らかになった。

http://www.christiantoday.co.jp/news.htm?id=480&code=int
そして、この記事の入手元のクリスチャンポスト紙の記事です。
http://www.christianpost.com/article/asia/915/section/more.people.claim.christian.faith.in.japan/1.htm
十字架の不思議さは、「神自身の聖なる怒り」を「神自身が受け止めたこと」にあります。私達は聖くなければ、聖なる神に受け入れられることはありません。すべてを造られた創造主なる神を第一にしていなければ、私を含め、だれもが神に背を向けていることになります。それを聖書では「罪」と呼んでいます。

罪は罰せられなければ、義が成り立ちませんが、神は「究極に聖」であると同時に「究極に愛」なるお方です。愛する子供である人間が罰を受けるのを黙って見ていることができなかったイエス・キリストは、自らの地位を天に置き、地上に降りて来られたのです。

そして、創造のはじめから決められていたように、キリストが「聖なる神」の怒りを身代わりに受け止めてくださいました。そのキリストの十字架が、自分の罪の代わりに行われたことを信じる時に、私達は、キリストの犠牲の下に自らを置き、罰を回避することができるのです。これは、父なる神様が自ら定めていた「人類の救済策」でした。

ここで新約聖書のパラドックスが理解できると思います。
キリストの苦しみは、一方で、罪のゆえに神の怒りが注ぎ出されたことを意味しています。しかし他方で、父なる神の御心に服従するという麗しい行為なのです。

キリストが来られた700年以上も前に、神様は預言者イザヤを通して、メシア(キリスト)についてこう言いました。

「まことに彼(キリスト)は、私達の病を負い、私達の痛みを担った。だが、私達は思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私達のそむきの罪のゆえに刺し通され、私達の咎のゆえに砕かれた。... 私達はみな、羊のようにさ迷い、おのおの自分勝手な道に向かっていった。しかし、主は、私達すべての咎を彼に負わせた。」
(イザヤ書 53:4~6)

新渡戸稲造は、クリスチャンで第一高等学校の校長でもありましたが、ある時、学生が大きな問題を起こしてしまったそうです。やったことがあまりにも悪かったので、処罰することになりました。「君達のやったことは悪い。だから、処罰しなければならない」と言い、新渡戸はおもむろに竹のムチを取り出しました。

次の瞬間、竹のムチが振り下ろされたのは、学生達にではなく、新渡戸の手の平でした。何度も何度も自分の手を鞭打ち続けている新渡戸を見て、学生達は、イエス・キリストの身代わりの十字架の姿を見たそうです。

イエス・キリストを信じる時に、父なる神様は、私達を「罪赦された、聖く、義しい者」と見てくださるのです。