シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて〜その291〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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今回はホツマツタヱ24アヤ、Part10です。

このアヤは「〜その73〜」でやっていたのですが、もう4年も前のことで、今読んでみると、その荒削りなのに唖然としてしまいます。
まあ、それでも、他の研究者に比べると、随分とマシなのですが、ね。

では、今日も本文にいきましょう。


●一行訳19

24-99 はらをきみ いつさきみやに ハラヲキミ イツサキミヤニ 【ハラ、原・ヲ〔敬〕、央・キミ、君、ハラヲキミ(ニニキネ)は】、【イ、伊・ツ、豆・サキ、崎・ミヤ、宮・ニ、伊豆崎ミヤ(元の狩屋)に】、
24-99 はこねかみ みとせまつりて ハコネカミ ミトセマツリテ 【ハコ、函・ネ、根・カミ、神、函根神(ここでは神上がったアシツ)を】【ミトセマツリテ、3年〈1年半〉の間祭った後で】、
24-100 おきつぼの みねよりながめ オキツボノ ミネヨリナガメ 【オキ、沖・ツボ、壺・ノ、沖壷ミヤの】、【ミネ、峰・ヨリ、自・ナガメ、眺、現琵琶湖沖島の「見晴らし広場」(標高225m)から眺めて】、
24-100 みことのり なんぢやまくい ミコトノリ ナンヂヤマクイ 【ミ(寧)コト、言・ノリ、宣、言われました】。【ナンヂ、汝・ヤマ、山・クイ、咋、汝ヤマクイ(土木工作官)よ】、
24-100 やまうしろ ノおほりつちお ヤマウシロ ノオホリツチオ 【ヤマウシロ、山背の国の】、【ノオホリツチオ、野を掘り土を】
24-100 こゝにあげ おゝヒのやまお ココニアゲ オオヒノヤマオ 【コ、個・コ、々・ニ・アゲ、上、別々に上げ】、【オオ、大・ヒ〔日〕・ノ・ヤマ、オ、アマテルミヤコの大日の山の手法を】、
24-101 うつすべし ヒとゑたにたり ウツスベシ ヒトエタニタリ 【ウツス、写・ベシ(命令)、手本として(ヤマノミチノクに従って)新宮の開発をしなさい】、【ヒ〔一〕ト(類)エタ、枝・ニ、タリ、足、60日のうちに】、
24-101 ヒゑのやま そのいけみつが ヒヱノヤマ ソノイケミツガ 【ヒ〔日〕ヱ、枝・ノ・ヤマ、山、比叡山の麓のミヤ(現京都市左京区修学院開根坊町18赤山禅殷)ができた】。【ソ、其・ノ・イケ、池・ミツ、水・ガ、その池のの水が】、
24-101 たのソロに のりてみのれハ タノソロニ ノリテミノレハ 【タ、処・ノ・ソ〔水〕ロ〔陸〕ニ、そのミヤの稲に】、【ノリ、載・テ・ミノ、実・レ(結果)ハ、用いて実ったので】、
24-101 みソロいけ まゝありいけの ミソロイケ ママアリイケノ 【ミ(寧)ソ〔水〕・ロ〔陸〕・イケ、活、稲栽培の得意な分野を活かして】、【ママ、儘・アリ、在・イケ、池・ノ、資源は変えずに、池の】、
24-102 にしいわや みはむゐしなお ニシイワヤ ミハムヰシナオ 【ニシ、西・イワ、言・ヤ、家、西側で営農する一門と】、【ミ(寧)ハム、喰・ヰ、居・シ、其・ナ、名・オ、禄を喰む家々を】
24-102 いつわけて ながすいしがわ イツワケテ ナガスイシガワ 【イ(継)・ツ・ワケ、分・テ、主な業務は継続しながら(農閑期に協力させて)】、【ナガス、流・イシ、石、ガワ、川、石川の流れを組む一族を】、
24-102 せきいれて あれワおいけて セキイレテ アレワオイケテ 【セキ、急・イレ、入・テ、肝煎りとして】、【アレ、在・ワ〔地〕・オ・イケ、活・テ、既存の人的資源を活用し】、
24-102 なるかみお わけてしつむる ナルカミオ ワケテシツムル 【ナル、鳴・カミ、神・オ、イカツチの一門とを】、【ワケ、分・テ・シツ、鎮・ム(使役)・ル、(伝聞)わけて鎮めるという】、
24-103 かぐつちと みつはめおうむ カグツチト ミツハメオウム 【カ、夏・グ、具・ツ・チ、道・ト、夏の国の血筋を引く一族と】、【ミツ、水・ハ、端・メ、女・オ・ウム、生、水端の女神の徳を持った一門が】、
24-103 あおひハと かつらにいせの アオヒハト カツラニイセノ 【アオヒ、葵・ハ【衣】・ト、葵の葉と】、【カツラ、桂・ニ・イ、伊・セ、勢・ノ、桂の葉に因んで伊勢の(神官の)】、
24-103 みことのり あめハふりてり ミコトノリ アメハフリテリ 【ミ(寧)コト、言・ノリ、宣、お言葉がありました】。【アメ、雨・ハ・フリ、降・テリ、照、雨が降ったり(日が)照ったり】、
24-103 まつたきハ いかつちわけて マツタキハ イカツチワケテ 【マツタキ、全・ハ、すべては】、【イカツチ、雷・ワケ、分・テ、キカツチ衆を分けて】、
24-104 かみおうむ これとこたちの カミオウム コレトコタチノ 【カミ、神・オ・ウム、生、(新たな)神を生じました】。【コレ、此・トコ、常・タチ、立・ノ、クニトコタチよりも】、
24-104 さらのゐづ わけいかつちの サラノヰヅ ワケイカツチノ 【サラ、更・ノ・ヰ、威・ヅ、稜、勝る稜威です、と】、【ワケ、分・イカツチ、雷・ノ、争うイカツチ衆を和した、ワケイカツチの】、
24-104 アまきみと ヲしてたまわる アマキミト ヲシテタマワル 【ア〔天〕・マ、間・キミ、君・ト、アメ族の僕のキミとして】、【ヲ〔尊〕シテ、文・タマワ、賜・ル(完了)、ヲシテを賜りました】。


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●連続訳19
ハラヲキミ(ニニキネ)は、伊豆崎ミヤ(元の狩屋)に、函根神(ここでは神上がったアシツ)を3年〈1年半〉の間祭った後で】、
【オキ、沖・ツボ、壺・ノ、沖壷ミヤの】、【ミネ、峰・ヨリ、自・ナガメ、眺、現琵琶湖沖島の「見晴らし広場」(標高225m)から眺めて】、
【ミ(寧)コト、言・ノリ、宣、言われました】。【ナンヂ、汝・ヤマ、山・クイ、咋、汝ヤマクイ(土木工作官、ここではオオヤマスミ)よ、山背の国の、野を掘り土を別々に上げ、アマテルのミヤコの大日の山の手法を、手本として、ヤマノミチノクに従って、新宮の開発をしなさい。
そして60日のうちに、比叡山の麓のミヤ(現京都市左京区修学院開根坊町18赤山禅殷)ができました。
その池のの水が、そのミヤの稲に用いて実ったので、稲栽培の得意な分野を活かして、資源は変えずに、池の、西側で営農する一門と、禄を喰む家々を、主な業務は継続しながら、農閑期に協力させて、石川の流れを組む一族を、肝煎りとして、既存の人的資源を活用し、イカツチの一門とを、分けて鎮めるという、夏の国の血筋を引く一族と、水端の女神の徳を持った一門が、葵の葉と、桂の葉に因んで伊勢の神官の、お言葉がありました。
雨が降ったり(日が)照ったり、結局は、イカツチ衆を分けて、新たな神を生じました。
これはクニトコタチより勝る稜威です、と、争うイカツチ衆を和した、ワケイカツチの、アメ族の僕のキミとして、ヲシテを賜りました。

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●解説19
これまで、函根神というのを固定的に、ヲシホミミだと思いこんでいましたが、一般的な「国の礎となった人」の意味だったようです。
つまり、ここでは早世した国母、アシツヒメの生家を奉り、1年半、その環境を整備して姫の徳に報いた、と書いてあるのです。

「ヒヱノヤマ」というのが、年か月の暦の「枝」だと思いこんでいたのが間違いで「日の一枝」、つまり、わずか60日だったのです。
儀式として、異なる家柄の部族に交わらないけど、一連の事業をさせるのが「ヤマノミチノク」の奥義だったのです。
断っておきますが、ホツマツタヱには「クラオカミ」、「タカオカミ」などという言葉は一箇所もでてきませんが、ニニキネの時代には、はっきりと意識して、二つの争う勢力を平定したのですから、それは凄いことです。
「カグツチ」という集団が土木工事に長けており、「ミツハノメ」という集団が水利の管理に長けていた、ということなのですね。
私もこれまで、クラオカミ・タカオカミが単純なヤマサだと思っていました。
でも、それは彼らのライフスタイルを示していたのです。


オキツボから見て、比叡山の後ろに位置するので山背(やましろ)になったのか、たまたまそこにあった山背の国のミヤを整備しろ、といったのかはわかりません。

さて、その地に、二つの勢力が住んでいたようです。
そのひとつは、赤山禅院として、こともあろうに、道教寺院に乗っ取られており、祭神は赤山大明神(せきざんだいみょうじん)としか解りませんでした。
もうひとつは鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)で、祭神は素盞嗚尊と牛頭天王です。


上が赤山禅院、下が鷺森神社。

しかし、私の目を引いたのはもうすこし南にある石川丈山(いしかわじょうざん)の墓です。


これは江戸時代になった頃の茶人(あるいは歌人)石川丈山の墓です。
なんでも、後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)から歌会だか、茶会だかの誘いがあったときに、「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」 と詠んだとかで、
上皇は隠居に徹するなら、しょうがない、ただし「立つ」は物騒だから「添ふ」にしなさいと言われたとか。
オオタタネコの時代なら、フツーに、ブッタ斬られちゃうよね。

この図の左側の高野川(たかのがわ)を越えたところにあるのが、もうすこし後ででてくる川相の国(かわあいのくに)そこに流れているのが、その瀬見の小川なのです。
石川丈山は三河の武士と聞いているので、此の地は先祖から続いた本貫地(ほんがんち)であると推測されます。
素行の良くなさそうな上皇とは付き合いたくないので、先祖の地でくすぶっていたい、という主張なのでしょう。
その1500年も前に石川氏がニニキネの諸国見狩に同行していたのでしょうが、山住の強力な一族だったと推察されます。
石川氏は、その後、現代の石川県の基になっているとか。
「ナガスイシガワ」と、濁音にしているところが、ブッタ斬らない、クシミカタマの優しさなのでしょうか。

まあ、ここで、その石川氏を肝煎りにして、二つの家柄、カグツチとミツハノメを和して「闇龗;くらおかみ」、「高龗;たかおかみ」にした徳を讃えて、伊勢の神官(ヲヲンカミ、つまり神上がったアマテルの神威)は、ニニキネに対して、ワケイカツチの君、としてヲシテを賜ったのです。

ちなみに、西のイワヤはミツハノメを信奉する一族で、祭神として高龗を祀っています。


左に見える川は鴨川、川相の国の左端になります


●一行訳20

24-104 ひろさわお おゝたにほらせ ヒロサワオ オオタニホラセ 【ヒロ、広・サワ、沢・オ、広沢池を】、【オオ、大・タニ、谷・ホラ、掘・セ(使役)、掘り下げて広げ】、
24-105 くにとなす あまねくとふる クニトナス アマネクトフル 【クニ、国・ト・ナス、成、国と呼べる規模に整備しました】。【アマネク、遍・トフ、問・ル(完了)、広く物部衆の要望に応えられる】、
24-105 ほつまぶり たのしみうたふ ホツマブリ タノシミウタフ 【ホ、穂・ツ・マ、間・ブリ、振、生産者達は】、【タノシミ、楽・ウタフ、歌、楽しく作業し、歌う】、
24-105 つがるにハ ぬまほりあけて ツガルニハ ヌマホリアゲテ 【ツ、津・ガル、涸・ニ・ハ、湿地を涸らすのは】、【ヌマ、沼・ホリ、堀・アゲ上・テ、沼を堀り、土を上げて】、
24-105 たみつうむ あそへのおかの タミツウム アソヘノオカノ 【タ、手・ミツ、水・ウム、多、利用できる水を増やした】、【ア、阿・ソ、蘇・ヘ、辺・ノ・オカ、丘・ノ、(オホナムチのように)アソベの丘の】
24-106 ゐゆきやま なヨさとうみて ヰユキヤマ ナヨサトウミテ 【ヰ、居・ユキ、雪・ヤマ、山】、【ナ、名・ヨ〔百〕サト、里・ウミ、多・テ、一門の郷も増え】、
24-106 かつしまや かつみねやまと カツシマヤ カツミネヤマト 【カ、右・ツ・シマ、島・ヤ(例示)、物部の島(領地)や】、カ、右・ツ・ミ、身・ネ、根・ヤ、家・マ、間・ト、物部衆直参の】、
24-106 しまあひに かつうおなれハ シマアヒニ カツウオナレハ 【シマ、島・アヒ、間・ニ、島と島の間で】、【カツ、数・ウオ、魚・ナレ、熟・ハ、乾物の身欠ニシンの手屑を干した肥料を融通させていました】。
24-106 このうおゝ あらたにいれて コノウオオ アラタニイレテ 【コ、此・ノ・ウオ、魚・オ、この魚の干物を肥料として】、【アラ、新・タ、処・ニ・イレ、入・テ、新開の拠点で】、
24-107 ワおこやす アまのこやねも ワオコヤス アマノコヤネモ 【ワ〔地〕オ・コヤス、肥、土を肥やしました】。【ア〔天〕・マ、間・ノ・コ、児・ヤ、屋・ネ、根・モ、アマノコヤネも】、
24-107 かすがくに とぶヒのおかに カスガクニ トブヒノオカニ 【カ、春・スガ、日・クニ、国、カスガの国として】、【トブ、飛・ヒ〔火〕・ノ・オカ、丘・ニ、飛火野の丘に】、
24-107 やまとかわ ほりてつくれる ヤマトカワ ホリテツクレル 【ヤマ、山・ト・カワ、川、山と川を】、【ホリ、堀・テ・ツクレ、造・ル、掘って造った】、
24-107 みかさやま ゐよのいふきハ ミカサヤマ ヰヨのイフキハ 【ミ(寧)カサ、笠・ヤマ、山、三笠山の植生を豊かにし】、【ヰ、居・ヨ、代・ノ・イ、伊・フキ、吹・ハ、当代のイフキヌシは】、
24-108 アめやまに うつしたおなす アメヤマニ ウツシタオナス 【ア〔天〕メ・ヤマ、山・ニ、天山(現滋賀県野洲市北桜487若宮神社)として】、【ウツシ、写・タ、処・オ・ナス、成、写して拠点としました】。
24-108 あすかきみ かくやまうつし アスカキミ カクヤマウツシ 【ア、明、ス、日・カ、香・キミ、君、アスカのキミは】、【カ、香・ク、久・ヤマ、山・ウツシ、移、カグヤマのミヤを移して】、
24-108 みやのなも ハせかわほりて ミヤノナモ ハセカワホリテ 【ミヤ、宮・ノ・ナ、名・モ、ミヤの名もアスカミヤ(現奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708飛鳥坐神社)です】。【ハ長セ、谷・カワ、側・ホリ、掘・テ、長谷付近の】、
24-108 あすかゝわ ふちおたとなす アスカカワ フチオタトナス 【アス、飛・カ、鳥・カワ、川、飛鳥川の】、【フチ、縁・オ・タ、手・ト・ナス、為、アスカは(オオヤマスミの)娘を妃にし、ミヤ(現奈良県桜井市初瀬4593長谷山口坐神社)を給いました】。


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●連続訳20
広沢池を、掘り下げて広げ、国と呼べる規模に整備しました。
広く物部衆の要望に応えられる、生産者達は、楽しく土木作業し、歌います。
湿地を涸らすのは、沼を堀り、その土を積み上げて、利用できる水を増やした、(オホナムチのように)アソベの丘の居雪山の事業で、一門の郷も増え、物部の島(領地)や、物部衆直参の、島と島の間で、乾物の身欠ニシンの手屑を干した肥料を融通させていました。
この魚の干物を肥料として、新開の拠点で、土を肥やしました。
アマノコヤネも、カスガの国として、飛火野の丘に、山と川を掘って造った、三笠山の植生を豊かにし、当代のイフキヌシは、天山(現滋賀県野洲市北桜487若宮神社)として、写して拠点としました。
アスカのキミは、カグヤマのミヤを移して、ミヤの名もアスカミヤ(現奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備708飛鳥坐神社)です。
長谷付近の、飛鳥川で、アスカヲキミは、オオヤマスミの娘を妃にし、ミヤ(現奈良県桜井市初瀬4593長谷山口坐神社)を給いました。

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●解説20
この部分の連続訳を導くには、私がフランス語の学習で培った、アナリズ・ロジークの手法が使われています。
「ちょっと強引過ぎるんじゃないか?想像を混ぜているだろう?」と思われる向きには、はるか昔に書いた「〜その25〜」を参照していただかねばなりません。
実際、この部分には、ここに示したような事実が盛り込まれていたのですから、「そんなこと書いて無い!」と思ってしまった人は永久に「読めない」のです。
クシミカタマが事象を列挙するときには、言葉の端々に修辞が施されていることに気づいてください。
アメ族の時代の文法では、動詞の語尾と形容動詞、助動詞の区分に微妙な「にじみ」があり、旧来の平安文法を適用できないのです。
そして、その文法がやがて熟れて古墳時代に向かうことを考えて、この時代の文法を、すこしでも正確に定義していかなくては、29アヤ以降を読むなど、不可能なのです。
皇国史観に凝り固まった人々は、参政党の演説にだまされて「これこそ日本人だ!」と感じてしまうのです。

気をとりなおして、本文にもどりましょう。


これは現代の飛火野、カスガクニのトブヒノオカ。

カグヤマのミヤは11アヤで出てきたように、アマテル生誕の地で、ハラミの薬草の名産地で、ヲシホミミばかりでなく、アスカにも強い影響を与えたミヤですが、そこから一歩踏み出すにはオオヤマスミの影響下に入る必要があったのです。
大和路については観光地でもあり、大和川流域に関する論文も様々にあるようですので、アカデミックな研究を漁るのも良いかもしれません。
この流域は、そのほとんどが、オオヤマスミによる支配の確定によるものなのです。
川の名、土地の名が出てきたら、それはその名の氏(うじ)と結んだことがほとんどなのです。


これは飛鳥坐神社(あすかにますじんじゃ)、アスカミヤです。


これは長谷山口坐神社(はせやまぐちにますじんじゃ)、長谷姫のミヤですね。
これら、オオヤマスミのプロパティはいくらでも増やせ、その度にニニキネの行動範囲も広がっていくのです。
縁組に失敗したら、どうするのか? そうですね、皇后アシツヒメを失ったニニキネは、そのために、多大な出費を強いられましたが、その結果はますます支配力を強くしているのです。




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