シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて〜その118〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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すみません、まったく更新していませんでした。

世界中が佳境に入っているときに、何をやっているんだ!とお叱りをいただくかもしれませんが、なにしろ、あなた任せの世界情勢ですので、私などいつお迎えが来ても良いように、ある程度、まとめておきたかったのです。(無論、お迎えはロシアからですがwww)

日常的なことはシベリアに行ってからなら、いくらでもやれるじゃないか!と言うかもしれません。
しかし、多くの人が何も知らないうちに滅びていくのは見たくないので、いろいろ、公開するのです。
徐福の来訪だって、「そんなのたいしたことじゃない」と思うのは勝手ですが、それは「大したこと」なのです。

そんなわけで、脇目もふらずにホツマツタヱの編年(へんねん)の作業をしていたのです。
とりあえず、スケルトンのフレームワークができましたのでお見せしたいと思います。


これは編年のスケルトンです。

私は、オオタタネコは、あまり信用していません。

以前こんな図を貼ったことがありました。


このころは、これでも充分説得力があると思っていました。

この図中、指導者という項目でオオタタネコの項目にタケヒトと書きましたが、これは本文中の各アヤの時代における指導者の意味であり、オオタタネコがタケヒトに仕えたわけではありません。
そればかりか、オオタタネコはクシミカタマの200年も後の人なのです。

オオタタネコは資料によってタケヒトの事跡を知っているだけです。
反対に、クシミカタマはウガヤフキアワセズ、タケヒトの時に同時代をすごしています。


コンテンツ比較分類改

さて、これはどうしたものでしょうか。

おそらく、オオタタネコはクシミカタマの記述した文書を「神話的歴史書」ととらえたのでしょう。
マネして続きを書けばいいかなー、と軽く考えたのかもしれません。
上の、編年のスケルトンで欠史八代と書いた部分にも記述が無いわけではなく、書紀で割愛された情報が多数あります。
単に、現在の私の守備範囲からはずれるので詳細は示していないだけです。ミマキの時代に比べて情報が薄いのはオオタタネコの実見的な時代とは異なり、公式記録から引いているだけだからかもしれません。
もちろん、29アヤ〜40アヤまでを放棄するわけではなく、皆さんにお任せしようと思っているだけです。

上の、コンテンツ比較分類改の黄色い部分に着目してください。

33アヤに、チヌスヱでオオタタネコがミマキのキミに、誰の子か問われて、昔のオオモノヌシであるオオミワカミのハツコ(=果つ子、末裔)ですと答えているのです。

このやりとりを知った昭和生まれのアームチェアデテクティブが放置するはずもありません。
チヌのスヱ村?
大阪の陶邑かね?
ミマキの時代に陶邑?半島系の陶人?
あー、なるほど・・・

オオタタネコは半島系渡来人の裔、つまり東朝鮮人の祖なのではないでしょうか。
タケヒトの時代頃、国内でなにかが起こり、キミ中心の絶対社会にシフトしていったのではないか、と想像しています。

さて、日本書紀を読んでいればフツーに出てくる話じゃん、と云えばそれまでですが、この謎を読み解くにはいくつかの条件があるのです。

まず、このブログを読んでいること・・・あ、ウソウソ、そんなこたーない。

・長江流域で始まった大規模水田による稲作が日本列島に伝わったのは朝鮮半島経由ではないことを理解していること。
・その頃、朝鮮半島では水田稲作は普及していなかったのを知っていること。

・魏志倭人伝に書かれていた「倭」というのは日本ではないという知識があること。
・同様に、邪馬台国は「楽浪海中の近く」にあり、日本列島には無かった、女王卑弥呼は日本人ではなかった、と言える批判力があること。
・日本に大規模水田稲作が伝えられてから500年後に朝鮮半島で須恵器と呼ばれる高度な土器が作られていたのを知っていること。

・日本で、「カミヨ」と云われる時代は、大中華では秦の始皇帝が大文明を築いていた時代で、さほど昔ではない、ということを理解していること。
・その500年後にならなければ日本には文字が無かった、などということを信じない理性があること。

・ホツマツタヱを読んだことがあり、ホツマツタヱのコンテンツは異なる2つの時代の人によって書かれているのを知っていること。
・ホツマツタヱの前半部分が書かれたのは弥生時代であり、後半が書かれたのは古墳時代であった、という知識があること。

・紀元前220年に徐福が4000人の少年少女を引き連れて日本列島に渡来したと考えるだけの想像力があること。
・そしてその一団は半島経由ではなく、周りに何も無い海原を、黒潮によって乗り切ったと考えるだけの想像力があること。

これらの心得のうち、一つでもダメなものがあれば、この話は受け入れ難いのではないでしょうか。

DNAの話はやめておきましょう。
私は、半島人を差別したいのではありません、東朝鮮人を差別したいのです。
DNAの話は人の移動について知ることはできるのですが、純粋にDNAが人の行動を規定するわけではないからです。
以前書いた「族」の話を参照していただくと助かります。
〜その40〜」、「〜その41〜」、「〜その42〜

人の思考、行動は育った環境に依存するのです。
水平伝承も垂直伝承も、「族」の支配が大きいのです。
列島に生まれて日本人の間で育った人は、大概、日本的になります。
列島に生まれて東朝鮮人の間で育った人は、大概、朝鮮的になります。
東朝鮮人というのは、列島内部で2000年かけて培われた族の性質なのです。

縄文人が平和で弥生人が好戦的というのは間違いなのです。
縄文人も弥生人も平和を愛していたのです。
好戦的で残酷なのは古墳時代の支配者なのです。

でも、まだまだ、勘違いしないでください、朝鮮人は「英雄的」なのです。
基本的に、日本で、半島系の人を嫌っているのは「ネトウヨ」だけです。
韓流なんてのが流行ったときに、北系の顔をした韓国人は貴公子のような扱いを受けていたことを思い出してください。
私の友人にも北系の顔をしているのがいましたが、女性から快く思われても、恋愛対象としては避けられていたようです。
つまり見た目は、「添え物」に過ぎないのですね。
半島、特に南の習慣では男尊女卑が一般的でしたが、最近では変わりつつあるようです。
男に媚びる女性は今も多いようですが、まあ、世の中は変化するものです。
日本では経済状態が悪く、色気に走る男も少なくなっているようです。


これはオブジェクト志向による族の特性を考えるモデルです。

昔、高校生の頃、北京放送のプロパガンダを聴いていました。
いわゆるSWL(ショートウェイブリスナ)つまり、ラジオ放送でも、中波帯(BCL、ブロードキャステイングリスナ)でない、短波帯のものです。
日本向けのプロパガンダのために、7MHzとかでは、夕方になると日本語放送をやっていたわけです。
日本でおこなわれていたプロパガンダには、他にも米駐留軍向けを装ったFEN(ファーイーストネットワーク、極東放送)などがありました。
さて、その北京放送のくり返し言われていたのが「広範な中国人民は、英雄的朝鮮人民と連帯しぃ〜」というような文言です。

少し話を戻して、こんなサイトがあります。

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

長江の河口のすぐ南に7000年前の河姆渡遺跡というのがあります。
このサイトではこういう進歩的な情報を重視しているようですが、邪馬台国にこだわっているのでダメですね。


大中華には蚩尤(しゆう)【チーヨウ】という苗族の英雄がいます。



なんでも苗族は昔、黄河流域に住んで蛮勇を誇る民族だったのですが、黄帝との争いに負けて南下し、長江中流域の稲作民と出会い、ライフスタイルがかわったのではないか、と考えられます。
かつて、争いを好み、麦を食べていた民族が、平和を愛し米をたべるようになったとか、まさに180度の転換ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E9%82%91%E7%AA%AF%E8%B7%A1%E7%BE%A4

また、一部は徐福とともに日本に向かったとか。
キーポイントになるのは英雄を好み、戦を好む大中華から逃げてきた、ということなのです。
後に残った中華圏の苗族たちは、その後もずっと蚩尤をあがめ、戦いにあけくれているのですから。

https://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/70c86ebe3af38b42d918904a3faf2096
このサイトは邪馬台国の研究をしているのですが、みごとな分析力と推理を展開しています。
魏志倭人伝に書かれていたのは日本のことではないことを理解しているのに研究をしているのだからすごい。
(つまり糸島の金印の関係ですね)
これぐらい優れたひとなら、ホツマツタヱを読ませたら、さらに卓越した見解を示したことでしょう。
ただ、残念なことに、このブログ主は2014年に鬼籍に入ってしまっているので、お話をすることはできないのです。
存命なら、「先にやらなくてはならないのは、半島人の影響を知ることなのです」と言いたいところなのです。