シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて~その41~ |  アンドロゴス生涯学習研究所

 アンドロゴス生涯学習研究所

   生涯学習はじめませんか

最近、ひどく体調が悪いので、言いたいことを提示する機会がなくなるのが恐いので、結論を先に言っておこうと思います。
これだけでは、説得力が無く、いくらでも反論ができてしまうので、順に論証して行きたかったのですが、世相は急を告げていますので、やむを得ません。
ノコシフミ・・・なんちゃってね。

ト  フラグだー!

ヱ  フラグだ、こりゃ死ぬな。


では行きます。

我々日本人を構成してきた原理はトミとタミという2つの階級によるものでした。
トミは教え導くという徳を持っています。
これに対し、タミは守り育むという徳を持っています。
トミの特性というのは「父性」そのものだったのです。
そしてタミは「母性」そのものです。
単純に大きな族が「生きる」と「次世代を生かす」だけを実践してきたのです。
え?何を言ってるの、と思うかもしれませんが、これが歴史の真相です。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/62/34755662/img_198?1496582637

結論からいえば、長い縄文時代、遺伝子ハプログループの示す日本列島の「性質」は、さまざまな過不足の少ない無防備な族に過ぎなかったのです。
彼らは縄文人と呼ばれ、単純な採集生活を行っていたようです。
これは数万年に及ぶ、比較的温暖で湿潤な気候と海によって隔絶された平和な期間が続いたことに起因すると考えられます。

およそ6千年前と思われますが、ヨーロッパの方から「逃げてきた」小規模な族集団がいたと想像してください。
彼らが、日本列島に足を踏み入れると、そこには温和な性質の縄文人住んでおり、平和的に混血しました。
このF1とも云うべき民族が現在の日本人と同じ人種を構成していると考えられます。
彼らは今とさほど変わらない「原日本語」を話していたでしょう。
この時代、広く、列島固有の文字は無かったかもしれません。

さて、ここからがミッシングリンクになっている部分です。
およそ3千年前、偶然か、はたまた歴史の必然か、以前、列島を訪れたグループと同一の民族集団がやってきたのです。
彼等は同じように、ヨーロッパ方面から「逃げて」きたのです。
旅の途中で、さまざまに高度なテクノロジを身につけていたようです。
水稲栽培をはじめとして製鉄技術、養蚕と機織もこの時期にもたらされたのかもしれません。
想像してください、ちょっとしたユートピアが描けると思います。
なにしろ、トミはタミを愛し、彼等の幸せを願っていたのです。
タミは強力に指導され、食料増産のために喜々として働きました。

私は長いこと、この時期は縄文時代だと考えていたのですが、2003年の歴博(国立歴史民俗博物館)のAMS法による炭素14の測定に基づく、「紀元前10世紀からを弥生時代と呼ぶことにしよう。」と云う発表以来、この提言を受け入れることにしました。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/62/34755662/img_199?1496582637
炭素14は大気の上層部で作られます。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/62/34755662/img_200?1496582637
生物は食物連鎖によって炭素で身体を作るのです。

AMS法(加速器質量分析法)というのは、古代の遺物に付着している有機物に含まれる炭素のうち、C14と呼ばれる同位体の含有量の比率から遺物の年代を測定するもので、極めて正確です。
この展開は筋が良いです、なにしろわずか炭素1mgの試料と数10分の時間があれば年代がわかってしまうのですから。
炭素14による年代測定自体は、私が高校生だった頃には既に確立され、それなりに補正値も整備されていたのですが、AMS法ができる前は試料も最低1gも必要だったのです。

この歴博の副館長の藤尾慎一郎氏ですが、じつに良く研究されていらっしゃいます。
本も書いていらっしゃるるようですが、歴博のリポジトリ からPDFで論文が読めますので、興味の有る方はぜひお読みください。

さて、ホツマツタヱの最初の部分はこの時代のことを書いたものです。
私が、ずっと、アメ族とよんでいるのはこの時代にトミを構成していた「族」です。
列島に至った、旅すがらのことを想像してみてください、弥生時代のトミが妙にギリシア的なのが判ると思います。

いずれにしても、こうした鑑定技術は歓迎されるべきものです。
なにしろ、これまで、記紀に綴られていた事跡は、はるか昔の神代の出来事、と考えられていたことが人間の世界で普通に行われている、海外では歴史時代である、わずか3000年前に日本列島で起こったことだったとしたら、考え方は違ってくるでしょう。
ホツマツタヱの信憑性も、否応なしに高まってきてしまうのです。

歴博は、紀元前10世紀の鉄器にも言及しているようで、国内にある鉄器の年代総点検が望まれています。
つまり、中華でいうなら殷の時代に、列島には別の技術で鉄器が作られていた、としたらどうでしょうか?
まあ、鉄器については、異なる分析法も必要で、木炭由来の炭素(つまり生物のサイクルに従った分析結果が得られる)が多い鋳鉄と炭素量の少ない鋼鉄で結果は異なりますし、遺物は文化財であり、破壊検査では試料の提供が得られないこともあります。

実は遺跡のなかでも正しい遺物である海綿鉄(かいめんてつ)と、鉄滓(のろ)、金糞、金屎(かなくそ)などを見誤っている可能性もあるかと思われます。
発掘作業をする人が、この遺跡の時代には製鉄など「無かった」と思っていれば後世の産業廃棄物と誤解してしまうことは大いにありうることです。
全国的に、製鉄遺跡かもしれない地形は多く見出されますが、そこに捨て去られている鉄滓を分析したらどうでしょうか?
捨てられているものですから、いくらでも試料が得られるではありませんか。

どなたか琵琶湖の近くの金糞岳(かなくそだけ)を研究している方はいらっしゃいませんか?
金糞岳(1317m)は伝説で、古代に伊吹山(1377m)と高さ比べをして頭ひとつ分だけ勝ったのですが、怒った伊吹山が金糞岳の首を刎ねたのだとか。
その首が跳んで琵琶湖の竹生島になった、というなかなか趣のある民話ではありませんか。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/62/34755662/img_201?1496582637
金糞岳

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/62/34755662/img_202?1496582637
伊吹山

「琵琶湖周航の歌」にも歌われるように、「古い伝えの竹生島」があるのです。
「瑠璃の花園、珊瑚の宮」というように湖底遺跡もあるとか。
誰も顧みようとはしないのですが、ね。
私は、実は、ヲウミのミヤはここにあるのでは、と思っているのですが。

弥生時代になり、ムラは閉鎖性を増し、外敵からムラを守る要請が出てきます。
環壕集落はそんな頃、多く形成されたのです。
弥生人となる人々がヨーロッパ方面から逃げてきたとすると、外敵を恐れるという性質も理解できます。
こうしてアメ族の指導の下、日本列島は農耕中心の中央集権化へと進んでいったのです。
幾度か大規模な乱はあったようですが、一般のタミは武装しないで済んでいたようです。

では、侵略的な日本人の特性はどこから来たの?と思うでしょうが、それは井口博士の言うように、朝鮮半島からもたらされたものに間違いないでしょう。
ただし、それはトミの一部に持ち込まれた性質にすぎません。
半島では、トミとタミは民族違いで、トミによる一方的支配と収奪が普通だったようです。

我ら日本人にはトミとタミの相関による臣主主義(しんしゅしゅぎ)が根付いており、現在まで数千年、かわりなく過ごしてきました。
つまり、キミの絶対権力などというのはクシミカタマの時代には無かったのです。
アマテルのようなアマカミといえども、なにか決めるときにはカミハカリ(カミ、つまり諸侯の会議)で決めていたのです。
決して占いをして神に聞いているのではないのです。
フトマニ占いは、直感で把握できない現状があるときに用いるアイデアプロセッサであって、理解以上のことを占いで決めるのではありません。
原理がわからないとき、私もよく易を立てますwww

そもそも、「マツリコト」というのは、一般のトミタミの「奉る言葉(たてまつることば)」を聴くので、マツリコトキクと言っていたのです。
やがてそれがマツリコトトル(とる=採用する)となり漢字語「執る」になったと考えられますので、「政(まつりごと)執る」に変化していったのです。
キミは状況を把握するために、まず話を聴くことが必要なのです。
トミも同様、タミが「奉った」事案を真摯に聴くことが重要なのです。
現代の公聴会など、専門家を呼ぶことはしますが、単なる説明会の程度しか役にたっていないのではないでしょうか。

さて、半島からトミがやってきて何をしたのでしょうか?
天皇を操り、嘘と欺瞞で国政を悪い方向に導いたのでしょうか。
現代でも、天武天皇は百済系だ、とか応神天皇は渡来人だ、とか云う説があります。

別段そんなことをしても、元々の日本のシステムでは天皇は誰でも良く、(万世一系は単純に支配者の族としての都合です)実際に国政を執っているトミが正しく機能していればよいのですが、3000年、なんとか過ごしてきた臣主主義も、さすがに近年、破綻が見えてきてしまいました。
少し時をさかのぼって、クシミカタマの時代でも、無茶なミヤコウツシをしようとしたアスカヲキミを諌めるトミはいましたが、たちの良くないトミに押し切られてしまい、正しいトミはアスカヲキミの元を去った、ということがありました。
思えば、殉死の習慣はタケヒト(神武天皇)の崩御とともに始まったとか。
イクメイリヒコ(垂仁天皇)が廃止するまで意味も無くタミを枯らすことを強要していたというのはトミの質が低下したと考えてよいでしょう。
トミは殉死するのは良いか、と問えば、それはキミを愛するあまり追い罷るのは自由ですが。

ひるがえって現代、靖国の呪縛を利用し、トミタミをイクサに駆り立て、311の被害を受けたトミタミを枯れるままに放置したのは紛れもなく、一部のトミだったのです。

なぜ教え導くはずのトミが、かかる非道をなすのでしょうか?
明治以降、政府はタミの教育は熱心に行ったようですが、トミの教育はおろそかになっていきました。
当のトミからすると、キミに仕えることだけが重要で、タミなど、いくらでも湧いてくると思ってしまったようです。

その昔、南北朝の頃、トミは自分のキミに仕えることしか考えられず大規模なイクサをくりかえしていたのでしょう。
私は天皇の責任は希薄だと考えています。
ほとんどの場合、天皇を支える立場のトミがトラブルを引き起こすのです。

ホツマツタヱにもすでに兆候があらわれています。
暗愚なミマキイリヒコ(崇神天皇)を無軌条な信仰に走らせたのは誰だったのでしょうか?
モモソヒメを死に至らしめたのは誰だったのでしょうか?
私は、オオタタネコを疑っています。
ミワノトミと名乗っていますが、なんとも、スッキリしないものを感じるのです。
昭和の時代でも、2.26事件を起こした皇道派は、政府がタミをないがしろにすることが許せなかったのではないでしょうか?

というわけで、混血を恐れる必要はないのです。
トミが正しく行政をおこなえば、何の問題もでないし、専業の政治家も必要ないのが臣主主義のすぐれたところなのです。
現在、手遅れな感じはありますが、一刻も早くトミを再教育し、タミを救済することによって列島を建て直さなくてはなりません。

製鉄については稿をあらためて書きたいと思います。

ト  フラグだー!

ヱ  フラグだー!!