シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて~その93〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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郷原がちょっととわかりにくい行動に出ました。
2019年6月4日の記事です。
https://nobuogohara.com/

1月23日、日産の現社長、西川(さいかわ)氏を刑事告発した人がいて、4月26日、東京地検は、西川社長を不起訴にしたのです。
そこで、この人は、検察審査会に申し立てをしたということなんです。

ゴーンとケリーを金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で起訴するにあたって、日産自動車を企業として起訴していたのですが、その起訴根拠として、西川社長による犯罪の存在が前提となっているのです。
有報の提出義務者である西川社長には刑事処分が無かった(誰が考えてもおかしいですね)ので、この人が西川社長を告発した、ということだったのです。

この検察審査会への申し立てに、なんと、郷原が参加した、ということなのですね。
つまり、これまで郷原は部外者であったのですが、今回、事件の核心に触れた、ということなのです。(これまで、特捜検察の無法を世に知らしめる立場しかなかったのです)
検察審査会が起訴相当と判断すると、検察官役の弁護士には郷原が選任される可能性が高くなります。
彼はプロの検察官のセンスで事件の全容を解明することでしょう。
もし、そうなら、郷原は新体制の下(もと)では、重要な地位を約束されていると考えてよいでしょう。
しかし、これまでと同様、「待ち」に入っていた郷原は前回「〜その92〜」で書いたように「端歩を突いた」のであり、今回もまた「待ち」で、反対側の端歩を突いただけ、というのも考えられ、事態の進展は無いということなのでしょうか。
ポーズかもしれませんが、我等が上皇陛下は自由を満喫しているように報道されております。

私は逆に、何やら胸騒ぎが収まらず、今まさに大団円を渇仰しております。
でも、まあ、待ちは待ちで、焦りは禁物です。


■ では、本題に入って、再びホツマツタヱの話です。

徐福が日本に来ていたのは事実としても、巷で言われるような神武だったりスサノオだったりすることはなさそうです。(時代が違うので)
徐福に関わる伝説として、農具、陶器、機織りなど、技術百般をもたらしたということになっているので、時代は、意外に新しく、ニニキネの頃だった可能性も否定はできませんが、その場合は、アマキミであるニニキネとの接触が無かっただけで、すでに徐福の一団は平和裏に全国展開をし、技術百般は伝達済みであったと考えないと辻褄が合わなくなります。
平たく考えれば、やはりイサナギの頃、あるいはそれより少し以前とするのが合理的です。

カナヤマヒコは徐福の一団の一人と考えられますが、その娘ウリフヒメ(ナカコ)はアマテルの后(きさき)の一人に収まり、その兄弟であるアマクニタマの子であるアメワカヒコはアチスキタカヒコネと瓜二つだったといいます。
〜その23〜」の鳥の殯(とりのもがり)で触れていますが、縁者(えんじゃ)が見て瓜二つだったというのは尋常ではないと思われます。

タカヒコネは、ステシノとアチスキの名(詳細は不明、日本語でしょうか?)を持ち、クシキネとタケコ(宗像三姉妹のひとり)の子であり、(タケコはソサノヲの子かもしれないし)すっきりした系図にならないので、良く似た風貌をうまく説明できていなかったのです。
クラキネに着目すると繋がるような気もしますがまだまだ研究不足でした。
今回考えたのは、血筋(ちすじ)としてオーストロネシア人の血統を強く引いているとすると(風貌の特徴が目立つので)合理的なのではないか、と考えたのです。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/24/35445124/img_54?1496582637
こんな具合に分布しているとか。

しかし、カナヤマヒコが表(おもて)の徐福(金山鎮のオリジネル、現代でも大中華では外国人は総経理にはなれません)だとすると斉(せい)の人が、すでにオーストロネシア人の血を強く引いていることになり疑問が出てしまいます。(ありえないことではないのですが・・・)
ここまで書いて、ふと、あ、徐福は女の子も大量に連れて来ていたんだ!と気を取り直して考えました。
〜その24〜」で書いたように、タガ亜族は女性のイミ名を明かさない傾向がある、というのもあり、どこで混血が起こったかが特定しづらいようです。

そもそも、もっと遥か昔にオーストロネシア人の血が混ざっていて、それがアメワカヒコとアチスキタカヒコネの二人に偶然発露したのかもしれないのですから。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/24/35445124/img_55?1496582637
By "Sus" Cruz - originally posted to Flickr as Plumeria Girl, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3884576
まあ、こんなの出てきたら、フツーに口説いちゃうかも。

ト おじーちゃん、女はさっき食べたばかりでしょ。

ヱ かわりに、オートミール粥でも煮てやれよ、ハチミツ効かしてな。

俗オヤジ まあ、私は一団のうちの誰かがスンダランドのほうから来たと考えているのですが、ね。

ヱ スンダランドには文明のカケラなんて、ねーんじゃね?

俗オヤジ わしはスンダランドに文明があったと言ってるのではなく、経由地として、スンダランドは海路と陸路の変成器を成していたのではないか、と考えているのだよ。

聖兄 ふむふむ、なかなか、おもしろい、でも、変成器なんて、ねーんじゃね?

ト オジオイだねー、ほっほっほ。

俗オヤジ ・・・グスッ、わーん、もー来ねーよー!


イサナギの時代に戻って考察しますと、「〜その9〜」で紹介したイサナミの殯の後、イサナギが各地を巡り、ヤソマカツヒを構成するべく、胤(たね)をつけてまわるのですが、実はこの時、イサナギは廻るべき場所のリスト(つまり、これから「藩屏」にすべき家のリスト、「〜その56〜」で一部修正して解説しています)を持っているのではないか、と考えられるのです。
そう、じつはそれこそが徐福の足跡で、列島に根付いて経済的足場を築いている姫の拠点を歴訪したのではないかと考えたわけです。

書紀の神代上にこんな一文があります。

故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門、然此二門、潮既太急。故、還向於橘之小門而拂濯也。

そこで、ケガレを除くために、粟門(あわと)と速吸名門(はやすいのみなと)に行きましたが、この二門(=2箇所)は流れが急なので、橘之小門(たちばなのおと)に戻って禊をしました。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/24/35445124/img_56?1496582637

これは最近になって気づいたののですが、この二門はホツマツタヱには出ていませんが、それぞれの姫は幼過ぎて胤をつけることができなかった、ということでしょう。
数年後、ソサノヲがアカツチの娘であるハヤスフヒメを見て嫁に欲しいと思ったというので、次世代のソサノヲの時代にならないと年頃にならなかったわけですかね。
あいにく、ハヤスフヒメはハヤコの陰謀により暗殺されてしまいます。(28アヤにありますが、とばっちりですね)

まあ、いろいろありますが、徐福の一団の裔(すえ)はイサナギの代(だい)から、長く続く藩屏(はんびょう)として栄えたということになります。
ソサノヲはイツモの当主ではありますが、アマキミにはなっていないので、出雲族はヤソマカツヒを構成することはありません。