シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて~その92〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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郷原が5月21日の記事で、巨人軍の上原投手の引退の話をアップしています。
https://nobuogohara.com/

私は、これを見てどっと疲れが出た自分をを感じました。
夜明け前の闇はいつまで続くのでしょうか。
おそらく、今は待つしか無いのでしょう。

無論、私は野球などやらないし、ルールだってあいまいにしか解りません。
小学生の頃、私の住む地域に草野球のチームができて、私もユニフォームまで支給されていました。
しかし、練習試合の朝、その、ユニフォームを着てでかけようとすると、母から「おまえは身体が弱いから試合に行ってはいけない」と諭され、無念の涙をのみました。
(ぼ、ぼくはからだがよわいし、あ、あたまもよわいので・・・)

ユニフォームさえあるのに、なぜ、ベンチにはいることすら許されなかったのでしょうか?
当時、私は粗暴で、すぐ怒る気の短い奴だと思われていました。
しかし、実際には、筋の通らない話に「はいそうですか」と従うほど「お目出度い」奴ではなかった、というだけです。

その頃は、黙々と従うことが美徳であり、「カラスは白い」と云われて「カラスは白くないよ!」とあからさまに言うのは反社会的でさえあったのです。
こうして、昭和の時代、社会は、80%の従順で「有能」な人材を作ってきました。
しかし結果的に、その「有能な人材」は複雑な国際関係を単純なモデルとして考えることしかできない「低能」な慣性人間だったのです。

学校教育の世界ではさらに酷く、定められた時間のなかで人格を完成しない奴は「発達障害」と判断するという大間違いを延々と続けていまるのですから。

体育会系は一段と酷く、尻(けつ)バットなんてのがありまして、プレーヤー全員がひとりづつ、監督にバットで殴られては大声で、「ありがとうございましたー!」と叫ぶ、慣性人間養成メソッドとでも呼ぶのでしょうか、そんな理不尽が現在に至るまで続いているのです。
これでは「アインシュタインは偉人だ!」と思い込んでしまっても不思議はありません。

練習試合の一件で、私は母を恨み、それ以来、野球が嫌いになりました。

郷原は、上原投手と現在の自分を重ねていると考えられます。

坂田三吉端歩(はしふ)も突いたというような状況なのかもしれません。
将棋で、無駄な手を打つのは悪手なのですが、陣容を完成した瞬間は、相手の出方を見るのが有効ですから、一手、無駄な事をするのをそう表現したのかもしれません。
「端歩」を突くことによって、戦局に影響を与えず、自分の待ち時間を消費することができるのでしょう。
もっとも、これが実際の坂田三吉がやったか、あるいは戯曲「王将」の作者が考えたことか分かりませんが。

おそらく今、郷原は、準備は完了し、誰かの合図を待っている、つまり状況が変わるのをひたすらに待つしかないのでしょう。
これは、行動派の郷原にとっては辛い事だと思われます。

そして私もまた、待つしか無いのです。


では本題に入りましょう。
前回もお話した徐福に関する考察です。

大規模水田稲作が普及した必然が徐福の介在無しには考えにくい、という雰囲気は理解いただけたと思いますが、そのエビデンスはどうでしょうか?
なにしろ、紀元前200年頃の話ですので、「証拠」といっても考古学による解釈を重ねるしかないので、「さっさと証拠を出せよ!」といわれても、無理です。
「じゃ、いーかげんな事言ってるだけじゃん」と言われると、そうでもないのです。

正確に論証してゆくには、あらゆる方面で研究を進めるしかありませんが、列島内に一切の証拠の無い邪馬台国とは異なり各地に散っていった徐福の団員の分布については、DNAをビッグデータで分析すれば良く、困難なことは無いと考えられます。
ただ、先にシナリオを考えておかなければ、周囲の雑音で嫌気がさしてしまうでしょう。
今日は、実際の渡来ルートについて大胆な仮説を用意しました。

前提として、私はホツマツタヱの研究者なので、ホツマツタヱの記述から調査を進めようと考えています。

ホツマツタヱの記述には徐福に関し、3人の名前が挙げられます。

1.カナヤマヒコ

2.コロビンキミ

3.フナタマ

カナヤマヒコについては、以前にも話しましたが、「金山鎮の男」という程度の意味で金山彦と呼んだのでしょうか。
徐福は徐阜(じょふ)または徐福村のオリジネルで斉(せい)の国の人、斉は始皇帝の秦に滅ぼされたためか、恨みはあっても、皇帝にさからうことはできません。

コロビンキミはウケステメの夫。
15アヤにココリヒメが語るアカガタ(赤県(=中華全土)の日本語読みか?)の話に出て来ます。
24アヤで、ウケステメはミネコシを献上した徳により美濃を授かりました。
朝倉氏はその考察の中で、カナヤマヒコと同一人物としていますが、私は別人と考えています。
http://hotsuma.anyone.jp/mikai/newtheory/%E5%BE%90%E7%A6%8F%E3%81%AF%E6%88%91%E3%81%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%AB%E6%AC%A0%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BA%BA%E7%89%A9/
このコロビンキミが徐福と同時に来訪した、正確に言うと、数千人の少年少女を連れて来たという、壮大なディアスポラはこのコロビンキミがデザインしたと考えているのです。

フナタマは27アヤに出てきますが、キフネノカミと呼ばれており、貴船神社の大本(=上、かみ、上流)と考えられますが、今日、ミツハメもミヅハも、あるいは罔象女神(みずはのめのかみ)も、貴船神社の神名には出てきません。
代わりに、ホツマツタヱには、概念だけで、名前の無い高龗(たかおかみ)、闇龗(くらおかみ)が祀られています。
この神がタツを表す(ホツマツタヱにはヤマサカミの原型となる自然神タツタヒメというのがあります)ところから、トヨタマヒメとの関連が出ているように見えますが、さて、どうでしょうか。

たった一行なのですが、「キフネノカミハフナタマカ」とだけあり、「〜カ」と詠嘆を伴っており、相当な尊敬の念が伝わってきます。

この貴船神社は鞍馬寺の川筋違いに位置し、「〜その57〜」で解説した26アヤに登場したミヅハノミヤに比定されます。
27アヤには、トヨタマヒメの事で、ヒメハオモムロミヅハミヤとありますので、通常の生産性のあるミヤとはことなり、墓としての霊廟であり、フナタマの一族は、外国の埋葬習慣があったことがわかります。
トヨタマヒメはハテスミの一族なわけですから、鹿児島周辺に勢力を持っていただけでなく、フナタマ、さらにはシガの一族もということになっているのです。
いかがでしょうか、古事記に云う、海人族というのは「当たらずとも遠からじ」ではないでしょうか。

「キフネ」は「来船」かもしれません。
「黄色い船」では北杜夫になってしまいますね。(大好きです)
後に解説しますが、私は、このフナタマは外洋航海術をマスターしていた船団長だと言っているのです。
徐福が来訪したのが紀元前220年頃ですので、ホツマツタヱでいうと、イサナギの時代か、もうすこし前ということになります。

ここまで、日本の話をかきましたので、次に、中華の話をしましょう。

前提として、現在、徐福の故地とされる江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮にある徐阜という村(を含む各地の候補地)は徐福を町興しのネタにし、かなり以前から観光化をした結果公園に石像群を配置し土産物も用意し、シナリオもつくりあげた、というのが現状かもしれません。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/24/35445124/img_50?1496582637

2度めに始皇帝と会見した琅琊【ランギェ】から船出したというのは信じて良いと(つまり、どうでも良いことだから)考えます。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/24/35445124/img_51?1496582637
現代の中華ではこんな航路が考えられているようです。

■ 補給の問題

この図の問題点は、沿岸を時間を掛けて進み、朝鮮半島で補給をしながら行くということに尽きます。
当時、半島は低開発で、都市部でも港湾でも、数千人の入植者の補給は無理と考えられます。
つまり、極力、補給を避けて、一刻も早く、最終目的地で生産を開始し、自給自足に入らねばならないということです。
まあ、おそらくは船団は壊滅すると考えられます。

無論、分散すれば生存は可能にはなりますが、それでは大量に入植するという初期の目的は達せられないでしょう。
済州島【チェジュド】でさえ、数千人を余分に養うだけの生産と商業は無いでしょう。
それは列島内にたどりついても、同様で、持参した食糧等の資源は有限で、開墾から入らねばならないというのが絶対条件なのです。
備蓄食糧は多いほど生存の可能性が高まります。

もしかして、皇帝に対するフェイントの意味で、1隻だけこのルートで送ったかもしれません。
足跡(あしあと)を残すのは意味があります。
最終的に、チェジュで待て、と命じて送り出すのです。
プロジェクトが成功した暁には、必ず迎えに行くぞ、と約束したのではないでしょうか。

■ 海流の問題

東シナ海(东海)【トンハイ】についてはあちこちに良く解説しているページがあり、大いに参考になります。
http://www.baiven.com/baike/220/259047.html
黄海沿岸流は黄河の淡水と黄海の海水が混ざり、水温は低く、流速も緩慢です。
それでも、逆行するよりは順行するほうが良く、琅琊から長江の河口までは簡単にたどりつけるでしょう。
そんなわけで、上海でも潮待ちしたほうが良い場合もありそうです。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/24/35445124/img_52?1496582637
問題はその先です。
長江河口から海南島【ハイナンタウ】までは闽浙沿岸流【ミンチェィエンナンリウ】※の影響を受け、夏と冬では流れの方向が逆になります。
これも、不用意に沿岸流に任せて台湾海峡を通りすぎてしまうと、黒潮の分流のアシストは無くなってしまうので、海南島まで流されてしまいます。
阿倍仲麻呂は唐の時代の人ですが、日本に帰ろうとして、漂流し、安南(現在のベトナム)まで行ってしまいました。
運良く、安南は当時、唐の支配下にあったので都まで帰り着くことができましたが日本に帰ることは断念したようです。

东海の中程には冷水塊が多数存在し、潮目を判断しずらくし、海霧を発生させ、視界を乱します。
それゆえ、GPSやレーダー無しに中央部を突破しようなどとは考えないほうがよいでしょう。


では、私のシナリオを提示しましょう。
プレイヤーは先に述べた3人です。(始皇帝は含みません、ここではエキストラということで)

始皇 あ、コノヤロ、仮にも皇帝をモブ扱いしやがって、許せんな!

俗オヤジ へ、こう見えてもな、わしは21世紀のクソジジイじゃぃ、文句があるなら、この時代まで来てみやがれってんだ!

来訪者 ごめんよっ!

俗オヤジ げ、ホントに来やがったか・・・

来訪者 やつがれはコロビンキミと申す某小国の王でおじゃりまする。

俗オヤジ あーよかった、始皇かと思ったじゃないかぁ!おめぇの出番はまだ後だ、その辺でスタンバイしてろってんだ。

コロビ へい、わかりやしたぁ、監督ぅ。


オヤジ シーン01、始皇帝が徐福に会うところからだ、アクション!

始皇 わたしが皇帝である、これ、その方は私が滅ぼした斉(せい)の方士(ほうし)徐福か?

徐福 へえ、左様で。

始皇 聞くところによれば、その方、仙術に長けておるそうだな。

徐福 へえ、左様で。

始皇 では、問う、不老長寿の秘法はいかに?

徐福 ぁ、やっぱりそれかぁ、その、あいにくと必要な仙薬を切らしておりまして。

始皇 なに、仙薬は切れておると? して、それはいずこに?

徐福 へぇ、それは・・・東海の果て、蓬莱の島に・・・その・・・

始皇 ふむ、ではその方に命ずる、船をやるから、これより取ってまいれ。

徐福 ぃ、いきなりかよぉ、しょーがねーな・・・ぶつぶつ

始皇 はよ行けや。

徐福 へぇ・・・ぅぇえ、災難だぁぁ

---間---

オヤ シーン02、琅琊の海岸コロビンキミの登場、アクション!

コロ あのー、この辺に徐福とかいう方士はおりませんでしょうか?

徐福 へ?徐福はおいらだが?

コロ あー、良かった良かった、さっそく見つかったか。

徐福 なんでぇ、こんな面倒なときに、おいら、忙しいんだ、手短にたのむぜぃ。

コロ あのー、船が欲しいんですがぁ。

徐福 船?船なんぞあるが、そんなもの、腹の足しにはならんぞ。

コロ あっしは遥か、南の果てのコロビンキミてぇケチな野郎で、ぃえ、その、いにしえの昔、あっしの先祖が東海の果てから来まして、あっしも、その東の地に行きたいと、その。

徐福 東に行きてぇってのか?

コロ へぇ、その。

徐福 こりゃ、おもしれぇやつだ、子細を話してみるがぇえ。

フナタマ あー、俺は台湾からきた船乗りでフナタマってもんだが、おめぇら、面白れぇ話、してるじゃねぇか、そこいいらで一杯やらんか、奢るぜ!!

オヤ カット! OKだ。


オヤ 次、シーン03、居酒屋、アックション!

フナ なるほど、それで東にいかなきゃならねぇってわけだな。

徐福 でもよ、おいら始皇のいうことなんざ聞きたくねえだよ。

コロ そりゃ、そうだ、なにしろ斉は始皇に滅ぼされちまったんだもんな。

徐福 そそ、べつに秦(しん)にゃ恨みはねぇけどよ、始皇は許せんのよ。

コロ ふむ、あっしに策略が有りもうす、ひとつここは、あっしに任しちゃくれまいかね。

フナ どうするんでぃ?

コロ あっしも、小国といえども、一国の主、戦略はまかしてくりゃれ。船をなゴニョゴニョ・・・

フナ なに?船を大量に??そいつぁいいや。

徐福 ふむふむ、次世代を数千人引き連れて移住?そんなシベリア組みてぇなことができるのかぇ?

コロ でーじょぶだぁね、あっしは戦は嫌ぇだが、知恵は並はずれてるからね。

フナ ふむ、じゃ、なにかい、でっけぇクジラが出てきて進めねぇって言うんだな。

コロ そそ、そいで退治するからって言って、兵隊ごといただいちまうって寸法さぁ。

徐福 乗った!こりゃいいや!

オヤ カット! いいよ、どんどん行くぜ、次はシーン04、琅琊の浜辺、始皇との再会からだぜ、アクション!


ヱ さてさて、講釈師、見てきたようなナントヤラ・・・話は長くなりますので、この続きは・・・

ト 三蔵法師とその一行はぁ・・・じゃない・・・


ではまじめな解説に戻りたいと思います。

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-23-6b/andro_gosse/folder/1128972/24/35445124/img_53?1496582637

まず琅琊をでたら沿岸を離れずに北風に乗って南下します。
前述のとおり、上海でひとやすみ、はありです。

台湾海峡は最短130kmしかありませんが、海峡に入ってはなりません。
当時の台湾に関する記述はほとんど無く、海賊の根城だったという説もあるので、フナタマのコネでもあれば寄港する価値はあるかもしれませんが、不確定要素は排除しておくのが良いと思われます。

確実に沿岸流を利用するには福州【フーチョウ】で最後の補給をするのがよいでしょう。
そして、風を待ち、西風が強くなったら一気に出港し、真東(まひがし)に進むのです。黒潮の潮目を見つけたら最短コースで突入し、帆を下ろし、流れに任せるのです。
ここで、注意しなくてはいけないのは、間違えて台湾暖流に乗ってしまうと北へもどされてしまうので、流れに直角に、真東にすすまねばならないことです。
日中の視界の利くときにはワッチが重要で、常に僚船の位置を確認しておく必要がありますが、当時の船団というのは意志の伝達はどうやっていたのでしょうか?
与那国、八重山など、南西の島嶼部(とうしょぶ)を抜けるときに脱落した僚船は海流に任せるしかなく、放置するしかありませんが、位置を覚えていて、プロジェクトが成功した暁には(実際に成功したのですから)合流させるか本隊の援助を与えるかしたでしょう。

さて、黒潮の本流は吐噶喇列島(とかられっとう)の辺りで大きくカーブして屋久島、種子島の南をかすめて四国沖を抜けて行くのです。
紀伊半島の南端、串本から突き出した潮岬(しおのみさき)を見落としてはなりません。
ここが最良の黒潮離脱ポイントなのです。
ワッチが不備、あるいは夜の時間帯にここを通りすぎると悲惨です。
実際、ここを通りすぎて八丈島で上陸した一団もいたようで、その痕跡が残っていることが知られています。
ただ、リカバーが不可能というわけではありません。
「失敗した」と認識した場合、直ちに黒潮を離脱し、真北(まきた)に進路をとれば列島のどこかに漂着できるのです。
〜その91〜」で紹介した系統図で、最初、八丈は江戸時代の遠島の地だから変なグループにいるのか、と思ったのですが、じつは八丈は東海沿岸と無縁でないことを物語っていたのです。

夜明けの暗さはまだ続きそうなので、このネタ、もう少し続けてみましょう。


※闽浙沿岸流【ミンチェィエンナンリウ】:長江以南の中国東岸の沿岸流で、浙江【チェチャン】、福建【フーチェン】のあたりに居た闽族(みんぞく)に由来し、「闽」は門構えに虫の簡体字、音は門から、虫は侮蔑的な意味をふくんでいるかもしれません。