シベリアの夜長を古代史に夢を馳せて~その77〜 |  アンドロゴス生涯学習研究所

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今回は、ヤマトについてのまとめとして、注目して欲しいことを書きます。

ひとつは、クシタマホノアカリ(テルヒコ)に関する、私の分析です。
もうひとつは大和路の交通についてです。

クシタマホノアカリのミヤコウツシについて、21世紀の現代から見た、事業評価といったところでしょうか。
ポイントは、

弥生時代のミヤコの規模は小さく、大和路は盆地の中で平坦、そして豊富な水が得られるということです。
拠点間の距離も短く、小川を水路として利用すれば鴨船で容易に移動することができるのです。
まだ見ていない方は、「〜その74〜」の河川による交通の時代を参照してください。

さて、伝記作家であるクシミカタマはテルヒコに対して侮蔑の感情を抱いているようですが、まあ、当時の人としては当然、そうなるのかもしれませんが、21世紀の視点でみると、それほどのことはないのです。

では、まずテルヒコの行動パターンを見てみましょう。
24アヤ、「〜その73〜」で触れたように、テルヒコの皇子の時代の記述が全く無いので、ヤマトへ行った頃からのみ分析ができます。

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この図の左端を見ると、シラニワヤマにカラスが飛んだというのは、「早枯れ」を意識させるための演出である可能性が高くなります。(まあ、早枯れにはちがいないんですが)
〜その76〜」でコヤネも「ハヤカレ」と言っています。

もしかすると、アメミチ姫は妃として入内したのでなく、テルヒコの死後、クニテル(ニギハヤヒ)によって母として宮内に入ったのかもしれません。

ミヤウツシの翌日にさらなるミヤウツシから理不尽なキミであることを誘導するために「アスカ(明日日)」を連発しています。
〜その72〜」で、すこしだけ触れたときには貨幣経済の有無で変わるだろう、と考えていたのですが、正確に読み込んでみると、まったく異なる視点があることに気付きました。

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これは、テルヒコの新田開発に関するインクリメンタルモデルです。

この図を見ていただくと、ミヤコに対する高度な経営センスが見て取れるでしょう。

すくなくとも、ヤマトにミヤを開いた時点で、経営資源は足りるように設計されていたわけで、普通の人なら、それをもう一回やるとしたら、新たな資本投下が必要になる、と考えるでしょう。

しかし、引越の宴の翌日に「ミヤコを移すゾ!」と宣言しても、すぐに何かが起こるわけではなく、初年度に作った田圃は移転するわけではないので、そこには必要なタミを張り付けておけばよいうのです。
都市計画の役人や宮大工等のテクノクラートはあらたな仕事が入るだけで、特に問題にはなりません。
先に、移転先に蔵を作っておけば最初の収穫物は元のミヤのタミ(残留組)に取り置き、残りを新ミヤの蔵に運べば良いのです。
ヤマトは酷く寒冷で渇水している地域ではなく、良質な種籾と水利を確保しておきさえすれば、初年度から「例年並み」の収穫が期待できるでしょう。
無論、先遣隊は田圃のお膳立ては済ましてあると考えられますし、最初にマウラに占わせた「田水枯れ無し」がここで明確に生きてきました。
また、急激にタミが増えるわけではないので、瑞穂(=身つ穂、租税)の量も変わりません。
もちろん、漸増というのは有ります。
〜その70〜」で書いた24アヤにニハリノタミがムレキタリとあるように、農閑期にはタミの使役は使い放題という感じさえしますね。

基本的に、タミの労働力というのは農繁期の半年あまりに集中するものですから、農閑期に公共事業をやらされるのは、タミにとって経営に参加できる「よろこび」の時なのかもしれません。

テルヒコはこの生産性の漸増分を使った「インクリメンタル開発」を目論んだように見えます。
インクリメンタルモデルは、ひとつの開発サイクルごとに基本仕様の再評価を行い、余剰収益を次の投資にまわし、さらに生産性の漸増を目指すマネジメント技法です。
本当はウォーターフォールモデルも、ひとつのフェーズ毎に評価ループを持つものだったのですが、トンチキな役人(たしかアメリカのミリタリストだったと)が削ってしまったために、日本の企業はいつまでたっても時代遅れな開発プラットフォームしか持つことができないのです。

昔、私が某社の技術部長をしているときに、私の部下の、あまり出来の良くないエンジニアが「部長の仕様書は随所に戻りループがあってウォーターフォールモデルになっていないんで、ムダが多いのですが」と苦言を呈してきたことがありました。
私は、「私がいつ、この要件定義をウォーターフォールモデルだと言ったかね?このシステムはインクリメンタル技法とイテレーションの良いとこどりをしたものだ、ということが理解できないなら君はいらない」と冷たく言い放ったことがあるのを思い出してしまいました。
彼はその後、メンテマンとして出向先で取り込まれて、幸せになったようです。(演繹的な人材)

さて、初期投資分はオシヒトからの贈与と考えれば、ミヤコウツシをしてもしなくても、ソラミツヤマトの生産性に大きな違いはなかったということになります。
なにしろ、ヤマトは平坦で水があり、畑作に転換しても多くの収穫が得られ、経営の自由度が高いハッピーな土地なのですから。

テルヒコはニニキネと違って、自分が知恵を出してイノベーションを創りだすのではなく、ニニキネが試みて成功したのを見届けると直ちにマネをして同等の成果を挙げるという性質のキミなのでしょう。

このインクリメンタルモデルの間隔が3年程度になっているのは、嫁して3年子無きは去るみたいなのから思いついた話で、本文には期間は書かれていません。
それよりも、スガタ姫の問題は、「夫の事業を理解せずに世の風習に惑わされて、間違った諫言をしたこと」ではないでしょうか。
これは「〜その76〜」の、20アヤ最後の部分にあるアスカガワクルワニホリテミソギナスカナでも、24アヤでは、昔クシヒコの諫言を退けたためにミソギをするはめになった、と、夫の行動を悪しざまに言うなど、伊勢の道を標榜するクシミカタマから見ても良い評価は無いでしょう。
ナニカミアリト〜オウナノマツリイツコアル、なんてのは典型的な食い違った夫婦喧嘩のパターンを借りたクシミカタマの意見を表現しているとみたほうが良いと思われます。
私も、最初はスガタ姫は山奥の、月ヶ瀬付近の出自だとおもっていたので、こりゃ、生まれ育ったところからくる感覚の違いか、と思っていましたが、良く調べたら、平地で鴨船が自由に行き交うようなところに宮居があったので、こりゃ、性格の不一致、局(つぼね)を設ければいいんじゃね、と思いました。
しかし、子無しの問題ではなく、やはり、夫に対する理解が無いというのが問題だったのですね。

そんなわけで、クシタマホノアカリの経営センスは21世紀の私から見ても、弥生時代からは「600年は進んでいる」と思えるのです。

ここまでくると、江戸時代の偽書説はまったくのナンセンスであることがわかり、私は今、ホツマツタヱは平安時代の偽書かも、と思い始めています。

次は大和路の交通です。

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これまで何度も書いてきましたが、弥生時代は河川を船で移動していました。
特に奈良盆地は中小の河川で縦横に往来することができたのです。
水路で、船を横付けできる所を「河岸(かし)」と呼びます。
河岸があればその周囲に物資を供給することが出来るようになります。

実際の地形を見てみましょう。

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三代川の北側に道路があるのがわかりますが、鉄道の線路のところで切れています。
良く見ると、鉄道の線路の脇のハケ線の向きが逆になっていることがわかります。
通常、鉄道は高低差の少ないところをねらって引くものです。

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この図は先程の右に位置していますが、三代川の南に道路ができています。

これらの道路は、時代が下り、豊かさが増して、荷車の往来のための必要によって出来た道路です。

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まず、河岸がある側に道路ができるのです。

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アスカガワというのはこんなところですか、ね。

船のオペレーションコストが陸上輸送を上回るか、渇水等により船が使えなくなると、両側に河岸があるところは両側に道路が出来るのです。(サービスエリアの迂回並列延伸)

そして橋を架けるテクノロジコストが両側に道路をつくるより安くなったとき、片側だけの道路は大きく増加すると考えられます。(サービスエリアの直列延伸)

そもそも、一旦、橋を架けると、よほど高さがないと船は通れなくなってしまうし、増水したときのメンテナンスなど、とてつもなくコスティな物なのです。

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嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり

      これは能因法師、昔の教科書からの転載(絵も一部)

こんな高さに橋架けるなんて平安時代まで待たないといけないんじゃね?
まあ、なんにしても、三室山の麓では、両岸で堤が高く、水利はむずかしいでしょう。
もともと、竜田川は水運のみで使われていたのかもしれません。
竜田川の東側は土地が高くなっていて鳥見や白庭では隣の富雄川のほうが利用しやすかったのです。

多数の橋がかかるようになると、いつしか人は船を忘れて行くのです。
現代では両側に道路があるところにも橋がつくられています。

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この竜田川が大和川に合流するところの北側にある竜田川の東西を結んでいるのが、この能因法師(が作ったわけじゃないけど)の橋、現代の観光用ですね。

奈良盆地は数百年(あるいは1000年以上も?)の間、掘ったり、埋めたり、盛り上げられたりしていることは考古学者の手により明らかになっていますが、これらの開発行動は、既に弥生時代にはじまっていた、ということでしょうか。