郡山城といっても福島ではありません、奈良の大和郡山です。
豊臣時代ここは弟の秀長公の居城。
以下、奈良新聞(http://www.nara-np.co.jp/
)より転載
豊臣秀吉の弟、秀長(1540~91年)の居城だった大和郡山市城内町の郡山城跡で、豊臣政権期(16世紀末)の天守の遺構が見つかり、市教育委員会が12日、発表した。5階建て相当(15~20メートル)の高層建築が想定でき、豊臣家を特徴づける金箔瓦も出土、政権の拠点にふさわしい威容が明らかになった。豊臣政権期の城郭はほとんど残っておらず、基準資料になるという。
天守台の発掘は初めて。実在を疑問視する見方もあった天守の存在が裏付けられた。
展望施設の整備に伴い、天守台と南東に隣接する付櫓(つけやぐら)台の一部を調査した。
天守台では、柱の礎石や礎石の下に敷く根石が井桁状に残っていた。東西方向に3列、南北方向に2列が直行する。
東西列の礎石は大型(0・9~1・2メートル)と小型(0・6~0・8メートル)が交互に並び、1列あたり12、13石を据えていた。南北列では、根石が良好に残っていた。50センチ前後の石を円形か方形に並べ、その上に小型の石を敷き詰めるなど、丁寧なつくりだった。石仏や石塔も転用されていた。
礎石列の上に建物の土台となる木材を横向きに置いたと推定され、天守1階は東西17メートル、南北15メートル。南北2室に分かれる身舎(もや)を中心に「武者走り」と呼ばれる幅約4の廊下が巡る。南側に入り口があった。
出土した瓦の様式から、築造は秀長が郡山城に入った天正13(1585)年から豊臣五奉行の一人、増田長盛が除封となる慶長5(1600)年の間とみられる。関ケ原の戦後、郡山城は一時廃城となり、江戸時代に天守は存在しなかったと考えられている。
金箔瓦は付櫓台で1点見つかり、安土城や大坂城と同じ菊花文だった。郡山城での出土は初めて。金箔瓦は豊臣家に関わる城郭で用いられた。
付櫓台では、現在の地表から約2・2メートル下で平行する2面の石垣を確認。石垣の間は約3メートルで、天守への通路とみられる。付櫓台の南面に入り口を描いた絵図があり、地下通路から天守に入る「穴蔵式」とみられる。
調査を担当した市教委生涯学習課の十文字健副主任は「豊臣期の天守の構造が判明した。同時期の城郭研究の基準資料になるのでは」と話している。
現地説明会は19、20日の午前時~午後4時。1時間ごとに説明がある。少雨決行。
以上、転載終わり
今後の研究期待ですね。
で、秀長公、100万石です、大和、紀伊、和泉が領地。もちろん、豊臣家臣団では最高。
毛利、上杉、そして徳川も100万石ですが外様(実質)。
豊臣家臣団では前田の80万石、宇喜田の50万石、そして石田光成の35万石が大きいところ。
そう見ると、いま某国営放送でやっている黒田は14万石。
テレビ的には秀吉に天下を取らせたのは官兵衛のように描かれていますが…
ちなみに福島正則、加藤清正も20万石クラス、前田利家、石田光成の信頼度が分かろうというものです。