世界は儒教を基盤とするか? | andrewさんのブログ

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私、もちろん儒教の徒ではありません。



村山さんの時に阪神大震災、菅さんの時に東日本大震災


災異説(Wikipedia=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%BD%E7%95%B0%E8%AA%AC )は…、あるの?、と思ってしまうところです。


The Voice of Russia のエブゲーニー バザーノフ(Евгений Бажанов)がСтанет ли мир конфуцианским?(世界は儒教を基盤とするか?)という署名記事を書いています。


以下、転載


儒教の伝統を持つ国々は最近数十年間で、急激な社会・経済的発展を成し遂げた。はじめに日本、そして韓国、シンガポール、台湾、最後に中国とベトナムが続いた。


鄧小平は、改革の初期の段階で、中国の目標を儒教の用語「小康」によって定めた。台湾は、まさにこのようなスローガンの下で発展戦略を構築し、成功を収めた。シンガポールも、「儒教資本主義」という思考体系のもとで成果をあげた。結果として、儒教は最終的に、他のあらゆるイデオロギーを排除し、長期的展望における人類発展の「導きの星」となっている。


儒教を21世紀の人類の生活基盤として提案する人は、儒教のみが文明的な調和や安定した経済発展を実際に構築できる!と叫んでいる。もちろん儒教の成功を否定してはならない。儒教の伝統が、中国が市場改革の道に進み、外国へ扉を開くことを促進した。実際のところ、中国政府の戦略は、西側の経済的およびテクノクラシー的なメソッドと、中国の精神的価値観が統合されたものだ。


だが、別の見方もできる。1つ目に、儒教は当時、中国を非常に厳しい専制主義に導き、「低級な文明」を持つ国から経済的な遅れをとらせ、中国を事実上腐敗させた。


また国家および社会構造としての儒教システムは、改革に関するあらゆる試みを抑圧し、封建的専制政治から資本主義への移行を妨害し、中国と他の民族との交流発展や、中国に新鮮な思想が入るのを妨げた。中国では時の経過と共に、学術や文化の発展が止まり、社会・政治的思考は退化し、経済は足踏み状態となった。その結果、中国は21世紀、外国の大資本家たちの簡単な獲物となり、半植民地状態に陥った。


中国社会で19世紀末から20世紀初頭に儒教が大々的に批判されたのも偶然ではない。ロシアでボリシェビキが勝利したのに続き、中国に共産主義思想の種が撒かれはじめた。中国の共産主義者たちは、積極的に、儒教による停滞を克服しなければならないと語りはじめた。政権を握った毛沢東は、異常なほど儒教を敵視した。儒教思想が、再び中国人の生活に戻ったのは、毛沢東の死後のことだった。


また2つ目に、儒教の文化的多元論に対する寛容性を賞賛し、同時にその素晴らしさと普遍性について述べてはならない。


中国文化(精神的)と西側の文化(物質的)を比べるのは条理にかなっていないように思われる。2つの文化は独立しており、それぞれ独自の価値と特性を持っている。それらは互いに代わりをつとめることはできない。だが、文化協力や交流をしながら豊かになることは可能だ。中国の社会・経済的な進歩と段階的な民主化は、対立しているわけではない。


3つ目に、もちろん儒教は良い思想を持っているものの、果たしてそれは、キリスト教やイスラム教、仏教、そのほかの宗教と異なっているのだろうか?マルクス・レーニン主義は、理論として、繁栄する人道的な社会を構築するための指針を、儒教よりもたくさん掲げた。だが、儒教もマルクス・レーニン主義も、理論と実践は異なっていた。


そのため中国国民は、発展の道を見つけるまで、恐ろしい大変革の時代を生き抜かなければならなかった。だが中国は、そのはっきりとした道をまだ見つけてはない。そして、過去に執着するならば、恐らくその道を見つけることはできないだろう。

以上、転載終わり


詳しくはこちら、The Voice of Russia (http://rus.ruvr.ru/2012_10_24/Stanet-li-mir-konfucianskim/


日本は「禅」がうまく中和してくれているので、中韓とはかなり違うのですが…。