「梁職貢図」…2 | andrewさんのブログ

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いま、私が見ているドラマ「百済の王 クウンチョゴワン」。


百済の近肖古王の話です。


七支刀を日本に贈ったとされる、日本にもなじみの深い人物です。


百済を建国したのが「召西奴」。


「召西奴」は高句麗を建国した「朱蒙」の妃。


このあたりは「神話」、「伝説」です。


その高句麗が建国したのがBC37年、百済はBC18年です。


「梁職貢図」で倭国の属国であったとされる新羅はBC57年。


高句麗や百済より古いのです。


「北史」新羅伝に「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人」

(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」とあります。


また、『梁書』新羅伝には「新羅者、其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、不與馬韓同。又辰韓王常用馬韓人作之、世相係、辰韓不得自立為王、明其流移之人故也、恒為馬韓所制。辰韓始有六國、稍分為十二、新羅則其一也。其國在百濟東南五千餘里。其地東濱大海、南北與句驪、百濟接。魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。其國小、不能自通使聘。普通二年、王姓募名秦、始遣使隨百濟奉獻方物」
(新羅、その先祖は元の辰韓の苗裔である。辰韓は秦韓ともいう、双方の隔たりは大きい。伝承では、秦代に苦役を避けた逃亡民が馬韓にやって来たので馬韓は東界を分割し、ここに彼らを居住させたゆえに、この名を秦韓という。その言語、名称には中国人と相似があり、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と言う。皆を徒と呼び合い、馬韓とは同じではない。また、辰韓王は常に馬韓人を用いて擁立し、代々に継承され、辰韓は自ら王を立てることはできない。明らかにそれは流民のゆえで、恒久的に馬韓が領土を制している。辰韓は初め六国だったが十二に細分した、新羅はその一国である。新羅は百済の東南に五千余里。東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済と接している。三国魏の時代は新盧と言い、宋代では新羅、あるいは斯羅と称した。小国なので、自ら通使を派遣すせることができなかった。普通二年(521年)、王姓を秦の名から募り、初めての使者は百済の遣使に随伴して方物を献じた)とあります。


どちらも中国・秦との関係が伺えます。


「梁職貢図」は魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也 或属韓或属倭國 王不能自通使聘 ?通二年 其王姓募名秦始使随百濟奉表獻方物 其國有城號曰健年 其俗與髙麗相類 無文字 刻木為範 言語待百濟 而後通焉

(魏の時代は新羅と云われ、宋の時代は斯羅と云われていたが、実際は一つの国である。或いは韓に属し、或いは倭国に属し、王は自ら通使を(梁などに)送ることが出来なかった。普通二年に、姓は募名は秦というその国の王が百済に随って表=目上に奉る文書=を奉り貢物を捧げるようになった。その国には城があり、健年と呼ばれていた。習俗は高麗に似ており、文字はなく、木を刻んで範としていた=村境・国境などを示していた。言語は百済を待ち、通訳してもらう。


その新羅の第4代脱解尼師今(昔脱解)には 倭国東北一千里のところにある多婆那国の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘の女婿となり、のちに王位を譲られた(Wikipediaより)。


とあり、日本(倭)との関わりが記されています。


そして新羅は上記より高句麗や百済と言葉が違うこと、また4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。この頃の新羅は中国文化よりも北方の遊牧騎馬民族(匈奴・鮮卑など)の影響が強かったことを示している(Wikipediaより)。文化も違うようです。



うーん、なかなか興味深いです。