Andreaのペルー通信パート2 -3ページ目

Andreaのペルー通信パート2

リマでアロマテラピーサロンをしております。大好きなペルーの現実を日本に伝えます。コメント大歓迎ですが、ネットエチケット上不適切なものは、承認しませんのでご了承ください。

ブログの更新、大変怠っておりました・・・。

Aromasofiaは、現在ホームページ&サロンも大幅改装中で、ご迷惑をおかけしております。

改装中の間、PORTICOで予約制でハンドトリートメントを承っております。
通常3名様からご予約承っておりますが、今週金曜2月10日午後、お1人様からでもお受けできますので、ご希望の方はメッセージボックスにご連絡くださいませ。

その後にBARRANCOの海辺を散歩して、冷たい白ワインなど・・・ペルーの夏の夕暮れをお楽しみになってはいかがでしょうか。


初めて買ったレコードは何でしたか?

私はたぶん、1970年台初め小学生のときに、天地真理、郷ひろみ、フィンガーファイブのうちのどれかだったと思います。
その後 歌謡曲から、アイドル系洋楽、その後ベストヒットUSA全盛期時代の80年代洋楽を聴きながら、一方で、ボサノバ、ラテン、ジャズなどのリズムに魅かれるものがあり、エレクトーンで弾いていました。

大学入学後、ジャズのビッグバンドサークルに所属しましたが、その時代には聴くのは強制的にジャズのみ。
山下達郎を部室で聴いて怒られた先輩がいました。 そのサークルのコーチが、当時日本で唯一のサルサバンド、オルケスタ・デル・ソルの内田日富氏をはじめとしたそうそうたるメンバーだったことで、その後サルサの道にぐぐぐぐーっと引き込まれました。

ペルーに住んでいる今、そのきっかけは紛れも無くサルサだったのです。
そんなことで初めて買ったレコードからサルサにいきつくまでは、12年くらいかかっています。
サルサマニアの集まるイベントがリマで2カ月に一度ありますが、その主催者の同年代と思われるOMARが最初に買ったレコードがこれ!1976年に発売された、これ!


他人の持っている物や環境を妬む羨むということは、人生においてまったくない私ですが、こればかりはENVIDIA!この曲をラジオなどで聴いて、小学生だと思われる彼が、気にいって、お小遣いで買った初めてのレコードがこれ。羨ましいとしかいいようの無い環境。

ペルーに来てからは人との出会い(別れにも)に、偶然ではなくさらに必然を感じます。
人を介してではなく、新しく出会った人たちとは、本当に濃縮された何かが溢れていて、話せば話すほどその共通点に感動、そして枝分かれしたお互いの知らない世界にもさらに感動・・・を繰り返しています。

彼らとは、話をすることも聞くことも大好き、そしてもれなく音楽がディープに大好きという共通点があります。
OMARはこれを僕のレコードだった!これが僕の音楽だった!!これが僕の世界だった!!!と、年始のfacebookで発表したので、それを見て私まで今年もSALSAだ!RUMBAだ!!と、なんだかわからないけれど豊富に近いものを勝手に感じています。

今年の星を見ると、私はとてもいい年になるそうで嬉しいのですが、この曲を聴いているとなんだか私もそれをビンビン感じます。

みなさまの初めて買ったレコードは何でしたか?
いつもAromasofiaにご来店、ありがとうございます。
現在、工事中のため、ホームページが見られなくなっております。
ご迷惑をおかけしております。

月水金の10時スタートのお客様に限り、指圧、あるいは整体とのセットメニューさらにお得な割引特典をご用意しておりますので、この機会にぜひご利用ください。
お問い合わせは、このブログのメッセージボックスあてにお願いいたします。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

公私ともに忙しくしてうたら、こんなにブログはご無沙汰しておりました。もう今年もあとわずかですね!

年末になると、ペルー日本間も移動が始まります。
私のサロンのロゴを作ってくれたJESUS

 

5歳から日本で育ち、大学を卒業し、こちらで1年ちょっと過ごし、勉強し、働き、そして日本へ帰ることになりました。久しぶりに会ったら顔つきがとてもしっかりしていて驚きました。
本人もいろいろ学ぶことができた、これからは海外を視点に入れて日本で就職活動をする、とのこと。若者よ、頑張ってください!
そして、何と、お世話になったお礼に・・・と、名刺のデザインをプレゼントしてくれました!来年の新居でのサロンオープンから、この素敵な名刺もぜひ使いたいと思いますので、みなさまのご来店お待ちしております。

そして、日本からはラテンおかんちゃんが、おとんの生まれ故郷であるペルーへ、家族全員で引っ越して来ました。送迎を依頼され、空港へ行ったのですが、お二人のお嬢さんたちは、私の心配をよそに、24時間の長旅、夜中もなんのその。お元気!あっぱれ!

人見知りのはずの次女ちゃんは、手を出したらすぐに抱っこされてくれて、荷物の搬入の間中私の腕の中に。長女ちゃんは
 ”飛行機の中でずーっと座っててん! あめちゃんあるで”
おお、ええなあ、関西の子やなあ・・・思わずこちらも関西弁。運転手として同行下私のリマでのコンセルジュも、この子たちすぐにスペイン語話せるようになるだろうね。
関西人とペルー人、そして関西弁とペルーのスペイン語は似てる、という私の独自説をも証明してくれそうです。
おかんちゃんとは、日本語教師仲間でもあるので、いろいろ最新の日本語教育のお話も聞けそうで嬉しいです。

そして、私の15年来のサルサ仲間である日系人の友達も、長年の出稼ぎを終え、日本から帰ってきました。彼は偶然にも指圧の勉強をしたとのことなので、セラピスト仲間も増えて、楽しくなりそうです。もちろん、サルサのほうもね。彼とは、これは私の曲、いや僕の曲、と当時よくふざけて口論になりましたが、それだけ好きな曲がいっしょで、80年代SALSA ROANTICA全盛期をいっしょに過ごした仲間たちの1人。





昔の防衛庁近くのSALSA SUDADAALICE時代が懐かしい・・・。第二の青春でした。
SALSAには流行りすたりが無いのが魅力。しかし、音楽には流行があり、今ペルーではSALSAはあまり流行ってはいません。その分、好きな人たちはマニアックに一部に集い、盛り上がることもできるような気がします。私も隔月行われるSALSA DURA のイベントのイベントには、ひと月前から子守の手配を予約して行っておりますが、ROMANTICAがかかるいい場所も探さなくては・・・。

さて、今日検査のために日系の病院に行って、終わった後に中の食堂でお茶を飲んで、お金を払おうとすると
 ”BODEGUITA、東京の、にいたよね?”
と、中で働くおじさんから聞かれました。(ここからはサルサマニアあるいは仲間内ネタです。失礼。)
なんとなく覚えているその顔。どの頃? PEPEやADRIANといっしょに働いてたよとのこと。懐かしー!!NAPOはどうしてるの?1週間前に会ったよ!昔話はつきませんが、検査後の痛みもあり、再会を約束して(・・・といってもこの食堂に食べに来ればよいだけの話)ひとまず今日はごきげんよう。
ペルー偶然シリーズはまだ続いています。

これから航空券が最も高いクリスマスシーズンを過ぎると、こちらの夏休みに合わせて、沢山の日系人の友達が一時帰国してきます。なかにはこちらにまた住むつもりで戻ってくる友人もいます。日本では良くいっしょに海に行ったり、飲みに行ったりしていました。在住組と帰国組ジョインでの夏休みが楽しみです。


その前に、クリスマスイベント、子供の卒園と、一度では済まないお祭り騒ぎが年末まで続きます。その様子はまた次回・・・。

 



 

ある日の朝、父母会の途中に携帯電話が・・・。
仕事用、プライベート用に番号を分けているのですが、プライベートの方に知らない番号から・・・。
まったく知らない日系人の奥様から翻訳をお願いしたいとのご依頼・・・。

この方の日本名は光江さん。
私の母世代、60代でしょうか。お会いしてお話を聴いてみると、先月行われたうちなんちゅ大会 に合わせて、日本と中国を周るツアーにいらしたとのこと。彼女はペルー生れのペルー育ちで、日本語は挨拶くらいしか知りません。日本に行ったのは初めて。そして、そこで生き別れた実のお兄さんに初めてお会いになった。通訳を通して話をした。そのときのことをお礼の手紙を書くので、その翻訳をお願いしたいとのこと。

そのお兄さんのお名前は善光さん。兄弟姉妹の中で、長男である彼だけが、戦争の時代に、お母さんの独身の妹さんといっしょに日本に残ったそうです。そして、光江さんは、お母さんから、いつも叔母さんたちの話、善光さんの話を聴いていて、ずっと会いたくてたまらなかったそうです。

今度の旅行のことを善光さんに連絡したものの、もしかしたら私になんか会いたくないんじゃないか、迷惑なんじゃないか、と気をもんでいたそうです。
ところが、那覇の滞在していたホテルに、善光さんの娘さんが迎えにきてくれたので、ツアーの日程の一部をキャンセルして、那覇から片道3時間くらいかかる本部という町に、ご家族に会いにいったそうです。
本部は、私がその昔ダイビングダイビングでさんざんお世話になった町です。
聞いてみると、ツアーが那覇空港に到着するときにも、善光の娘さんは空港に出迎えに行ったけれど会えなかったとのことだったそうです。

さて、本部に着いてみたら、お母さんのお姉さんたち、善光さんを育てたお母さんの妹、会いたかったみんなに会えました。そして、迷惑などころか、善光さんのご家族だけでなく、彼の奥さんのご家族や、子供たちのご家族にまで招待され、大変な歓迎を受け、亡くなった光江さんのご両親のお仏壇へと、お供えまでたくさんいただいたそうです。

光江さんは、そのみなさんに、マチュピチュやナスカの絵ペルーの描いてあるとても素敵なカードを11通と、そのときに撮った写真カメラ の焼き増しをそれぞれ11通分ご用意され、11通分の下書きのメモといっしょに私を訪ねていらっしゃいました。

叔母さんと伯母さんなど漢字表記の違いなどもあるので、家族構成などをお聞きしている間に、血縁的にはけして近くない家族まで光江さんを大歓迎してくれたことや、善光さんのお人柄、ご家族の素晴らしさ、優しさ、温かさなどが伝わってきて、話す光江さんもお聴きする私も、涙、涙となりました。

そのお話しの途中でも何度も
 ”神様ありがとうございます。先生に出会えて本当によかった。”
とおっしゃり、”先生”のところだけ日本語。 先生と言うのは止めてください、と申し上げても
 ”先生、ありがとうございます。”
と、何度も何度もお礼をおっしゃっていました。

日本は家で靴を脱ぐということさえも知らなかった光江さん。
今回の旅行で習慣の違いに直面して、失礼があってはいけないので、誰か習慣のわかる日本人に手紙を見てもらいたい、でも知り合いはいない・・・と悩んでいたそうです。

私が日本で日系ペルーの会社で働いたことがあり、ペルーと沖縄の習慣を同時に学んだこと、日系人の方の先祖を大切にする気持ち、同胞で協力する気持ちなどの素晴らしさを尊敬していること、日系の方々との信頼関係のおかげで、今私がリマで何不自由なく暮らしていることなど、私もお伝えしました。

シーサー沖縄シーサーのあとツアーは中国中国に行き、帰ってきてからは疲れと時差ボケからなかなか復活できなかった光江さん、お礼の手紙が遅くなることがとても気になっていたそうです。超特急で私も翻訳を済ませ、お渡ししたら、今度は家系図の翻訳を頼まれました。これがあれば、お名前の漢字もわかったのに、と申し上げたら、光江さんの別のご家族から先ほど手にいれたばかり・・・とのこと。

ペルーでは日本と違い、本人の許可なく電話番号を他人に教える習慣があります。
私の電話番号は、光江さんはお嬢さんからもらったとのこと。でもお嬢さんとも私は面識がありません。どの友人が私の電話を渡したのかまったくわからないのですが、こんな素敵なお話を聴かせていただけたことに感謝します。

光江さんの沖縄のご家族からの返信、私もとても楽しみに待っています。