自分の名前があまり好きではなかった。
かつや、と最後がア段の音で終わるのがなんかダサい気がする。何となく締まりが悪い。

例えばイ段やオ段、せいじ、とか、しょうご、とかだと最後きっちり締まった気がする。
ウ段、まさつぐ、とかは芸術的な感じ。エ段は特に思いつかないけどかっこよさそう。くにえ、とか。

まあとにかく自分の名前がふにゃふにゃしてるみたいで好きになれなくて、いつも苗字だけ名乗ってた。

ゴールデンウィークのBBQで産休、育休から復帰した社員さんとお話してて、
九ヶ月になるお子さんも連れてきてらして、

——わーかわいいですねえ、何て言う名前なんですか?

って聞いたら、

「きゅうたろうです。」
って言ったあと(そのひとの苗字はオオバさんっていうんだけど)、

「オオバのきゅうたろうで、オバキュー。」
って笑った。

——え、狙ったんですか?

「ちょっとね。」

えーかわいい、と同期の女の子とはしゃいだりしたけどもさ、
最近よくあるDQNネームとは言わないまでも、
それはちょっとひどくないかおい。とすこし思った。

きゅうたろうくんはオバQのTシャツを来て、つぶらな瞳でこっちを見つめていた。
……ところでオバQって、どんなアニメだっけ?


よく名前には付けた人の願いが込められると言われますが、
小さいころ、

——僕の名前にはどんな意味があるの?
と母に聞いたら、

「かっちゃんって、呼びたかったから。」
って言われて、なんだかショックだったのを覚えている。

だけど大きくなってなにかの機会で漢和辞典をめくっていたとき、
ふと気になって自分の名前の漢字を調べてみたら、
「あらゆるものに打ち克つ」
っていう意味もあって、
それ以来、少しだけ自分の名前に誇り(そんな大層なもんでもないけど)を持てるようになった。

親にはその話はしてない。
もしかしたら本当は、そういう意味を踏まえてつけてたかもしれない。
照れくさくて、名前の意味を聞かれたらお茶を濁しとこうって思ってたのかもしれない。
それとも本当に、かっちゃんて呼びたかっただけかもしれない(←たぶんそうだと思う)。

本当は、意味なんてどうでもいい。
「真の理由」なんてどこにもないのだ。

そういう風に考えることで少しでも自分を好きになれるなら、
名前にふさわしい、打たれ強い人になりたいと思えるなら、
きっとそれが正しいのだ。


きゅうたろうくんは、自分の名前をどう思うだろう。
好きだと思うだろうか。こんな名前付けやがってと思うだろうか。

きゅうたろうくんに会った人は彼のことを忘れないだろう。
ああ、オバQの彼ね! と、いつも話題に上る人気者になるかもしれない。

もしかしたらオオバさんはその名前に、ちがう願いも込めていたのかもしれない。

それをきゅうたろうくんが知ることになるかどうかはどうでもよくて、
彼自身がその名前に、少しでも誇り(そんな大層なもんじゃなくても)を持てるかどうかが、
とても大切なことなんじゃないかと思うわけです。
大学生の学力低下が問題になっているようだ。
まあ、そんなこと今に始まったことではないし、僕が高校に入るずっと前から分数の計算が出来ない東大生はテレビで吊るし上げられていた。

国公立大学の行ったアンケートによれば、
特に「論理的に思考し、またそれを表現する力」が低いのだという。
新聞では、数学の成績低下が主な原因ではないかと専門家が書いていた。
例えば、偶数と奇数の和が奇数になることの論証や、二次関数の定義などをやらせても、言葉足らずになってしまうのだという(ex.「1+2=3だから」「細いグラフ」)。

しかし、それは最近僕が感じる自分の能力不足と似たところがある。

高校時代、ずっと数学が苦手だった。
子どもの頃から算数が得意だったにも関わらずだ。
受験数学にあたっては、ほぼテンプレ通りの解答を作って凌いできた。
……今、社会人になってそのツケが来ているように感じる。

論理的に思考し、表現するとはどういうことだろうか?
正確な定義は分からない。そんなものがあるのかも知らない。

筋道を立てて、わかりやすく物事を考えること。
誰もがうなずくしかない明確なプレゼンテーション。
あこがれるなあ。

例えば僕の知っている人で、何につけても喩え話で話す人がいる。
しかしこれは意外とわかりづらい。
比喩は理解を形而の雲上へと押し上げてしまう。
大事なことはむしろ逆で、「何の話をしているのか」の定義をつねに、自己反省的に行わなければならない。

先の例で言えば、「偶数と奇数の和」の話をしたいならば、「偶数」「奇数」の定義をまず行うこと。
偶数→2n
奇数→2n+1(n:自然数)
みたいな感じで。

曖昧な言葉は使わない。
少なくとも自分の中で定義できない言葉を使って話をしない。


具体例を出して説明することも有効だ。
先の二次関数の例ならば、y=x^2+3のグラフを書いてみて特徴を挙げてみるとか、y=-2x^2のグラフと比較してみるとか。
解答用紙にそんなことをぐだぐだ書いてもたぶんマルはもらえないが、
数学の先生がそういうことを丁寧に説明してくれたら、
(まじめな)生徒は身をもって二次関数が何かを理解していくはずだ。

身近で簡単な具体例を引き合いに出す。
そこで初めて、比較や比喩が意味を持ち始める。


まあ、たぶん僕はそのとき机の下でジャンプ読んでたからいけないんでしょうけどね。
今まで僕ははっきり物事を言うことを避けてきて、相手の想像力に任せる部分、いわゆる「余白」に頼って文章を書き、話し、伝えてきた。

むしろ、僕は他人の想像の中で自由に存在していたかったし、ある程度僕に対する解釈を受け手に委ねるという意味で、「余白」を操れるようになりたかった。

(そう言えば、木曜会の新人号に載せた詩の筆名も「余白」だった《李白と掛けて、とか、詩は頁の余白が多いから、とか言ってたけど》。読んだ人が自分を想像してくれたらいいやと思って、伝えたいこともなく、正味言葉の響きしか考えてなかった。あの詩たちは今思えば空っぽだった。
ある人は好きだと言ってくれたけど、たぶん当時の会長はそんなこともすべて見抜いていたんだと思う。もちろん否定はしない、あれらは確かに僕が生んだもので、責任は持ってる。)

今後僕がどう生きるにしても、このモラトリアムから脱するためには、人の中でじゃなく、人の間で、「自分」として確かに存在しなければならない。それは社会で生きていくということだ。

「ふりまわされてちゃダメ。ゆらゆらゆれて、流されてちゃダメ。どんな結末だってきっと後悔する。」
http://t.co/D9IbiQ9

要はこれからは、そういう余白主義的な考えをやめようと思う、ということ。少なくとも、一時。嘘偽りない自分を、はっきり、誰に対してもわかりやすく伝える。
実名(等身大)コミュニケーションの第一歩。



2011.3.25 02:18-02:52 on twitter