自分に違和感のあるシーンに遭遇すると、つい
批評や批判めいたことが頭の中を駆け巡る
ことがあるでしょう
できれば、穏やかないい感情に満たされ続けて
いたいものだと思います。
一喜一憂することは刺激体験として、良い
場合もあるでしょう。
しかし、一たび興奮した状態を鎮めるために、
どれほどのエネルギーや考え方、ものごとの
受けとめ方のコントロールが難しいかを思い
出せばよくわかると思います。
いつも瞬間瞬間を穏やかに愉しんでいることに
価値があるかがよく理解できるものです
自分に対して向けられたことに違和感を感じる
と抵抗もしたくなりますが、受けとめ方で変わる
共鳴できることなら一緒に愉しむこともできます
目の当たりにすることが全て受け入れられると
感情がぶれなくなります
動揺が無いと何事も静観できるので落着いた
時間が流れます
ひとつ一つのシーンのいい部分や人の本来の
良さに焦点を向けて観ると悪い人などいない
ように感じることはできます。
どのシーンにも、一見批判したくなるような
行動の中に「自然の愛」で在るように受取る
ことができます。
自然というよりも宇宙というほうがわかり易い
人もいるかもしれませんが・・・
愉しむつもりのオリンピックのTV観戦が、
批評の対象になっているとすればもったいない
コトですよね。
自分もまだ至らないことが多いので批評を
していることがよくあります。ふと我に還ると
一気に楽になれます。
興奮状態によっては、一歩間違い始めて
危険な状態になると気が病みます。
興奮した悪い感情は、自分でも醜いもので
後悔してきたことが度々あります
在るゆるせない言動に対して、正してやらな
ければ気づけないと考え、善意で忠告しても
興奮が高まるのは自分で、相手は意図を
酌めず逆上さえされることもある。
更に自分の興奮度は高まる。この状態の
どこかに間違いがあるのは必然です。
穏やかにクリアーできることが必ず在るハズ
ですから、そこを観たいですね
それに気づかないと、次に合法?のはずの
法的手段に出ることになるかもしれません
裁判も人が作った法に基づいて裁くのだから、
お互いの感情は長い間興奮状態が続きます。
真の解決に至るまでには、大きなエネルギー
を使うことにならないと気づけないでしょう
ほかにも代償やキズ跡も残るでしょう
本当に大事なことに気づけないことも大いに
あります。一つの現象を善悪の一方に判定
することが正しいとは限らないでしょう
折角のありがたいメッセージかもしれないのに。
しかも代償が、ストレスを長期に抱え不快な
日々を送り、ステップアップもしないから、
同じ遭遇がまたあるかもしれません
病気も同じです。自分は悪くないのに何故
病むのか?・・と
病むのは、批判のようなことが始まりだった
可能性は高い・・・・?
元は善意と思ってやったことが、引き起こした
コトかもしれないのに・・・
自分を責めると悪循環になる可能性もあり
ますから、受け取り方次第ではないか・・と
静観できる感情の基に、注意してみること
を大切にしたいものだと思います