秦の医和による「病気になる理由」 | 呉下の凡愚の住処

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(《春秋左氏伝》昭公元年)

 

天に六氣有り、降りて五味を生じ、(五味:金の味は辛く、木の味は酸く、水の味は鹹く、火の味は苦く、土の味は甘い。みな陰陽風雨より生ずる)

發して五色と爲り、(五色:辛の色は白く、酸の色は青く、鹹の色は黒く、苦の色は赤く、甘の色は黄である。発は見る)

徵して五聲と爲る。(五声:白の声は商、青の声は角、黒の声は羽、赤の声は徵、黄の声は宮) 

淫(す)ぐれば六疾を生ず。(以上の滋味声色は本来人を養うものだが、過剰になると害を生ずる) 

 

六氣を陰陽風雨晦明と曰う。

分かれて四時(朝昼夕夜)と爲り、序でて五節(五声。上記)と爲る。

過ぐれば則ち菑(わざわい)を爲す。

陰淫は寒疾し、(寒すぎると冷える)

陽淫は熱疾し、(暑すぎると渇く)

風淫は末疾し、(末は四肢。風が強すぎると四肢の病になる)

雨淫は腹疾し、(雨濕は洩注(下痢?)になる)

晦淫は惑疾し、(晦は夜。寝床で節度が過ぎることをすると心が惑乱する)

明淫は心疾す。(明は昼。考えすぎると心を病む)

 

 

医和(?—?)の発言。

春秋時代の秦の著名な医家。姓は不明、名は「和」。

職業にちなみ「医和」と呼ばれる。

中医学の理論を開拓した先駆者の一人。

 

1. 人物概要

・生涯については詳細不明。 

・医和についての記述は主に『左伝』『国語』『通志』の三書に見られる。

2. 理論の特徴

・天人一体・陰陽相生相蕩説:人体と自然界を一体のものと捉え、

陰陽が相互に作用することで生命が維持されるとする理論を展開。 →疾病の原因:

陰・陽・風・雨・晦・明の不調和が病気を引き起こすと主張

→これが後の風・寒・暑・湿・燥・火の

「六気」による病因説の基礎となった

3. 後世への影響

・医和の理論は、中医学の基盤を築いた重要な一歩とされる。

特に陰陽や六気に関する思想は、漢代以降の医学に大きな影響を与えた。

 

 

話の経緯:

医和と晋平公の治療

周景王四年(前541年)、晋平公が病に倒れ、

秦景公が医和を派遣して診察を行わせた。

この診察は、医和の中医学的視点と

時代背景が交差する重要な話として知られる。

 

病因の診断

医和は晋平公の病の原因を「鬼神の祟り」ではなく、

「女色に溺れること(上記の論の“”)」によるものと指摘。

さらに、「天候や自然現象を調和させることが治療に必要である」という

独自の天気治療論を提唱し、巫術や鬼神による病気説を否定した。

 

 

参考:中文Wikipedia《医和》の項目