孫小妹の結婚のことが「秦晋之好 qín jìn zhī hǎo 」
と表現されてたので、調べてみたら成語でした。
「二つの家が婚姻によって親戚となること」という意味らしい。普通ですね(笑)。
「政略結婚」って意味合いが強そうな気がします。
毎度おなじみ百度を訳して載せてみる。
ちなみにここから下は成語のことはほぼ関係ありません。
ただ単に私が春秋時代のことを書いてウハウハしたいだけです。
成語出典
前676年、晋の武公の子・姫詭諸が位を継承して献公となった。
献公の父・武公は晩年に斉の桓公の娘・斉姜を娶ったが、
斉姜と太子の姫詭諸は互いに私情を抱いていた。
姫詭諸が位を継ぐと、庶母の斉姜を娶って夫人とし、伯姫(娘)と申生を生んだ。
伯姫は後に、秦と晋の政略結婚のために秦の穆公夫人となった。
これがいわゆる「秦晋之好」のスタートである。
それから20年の間に、2回「秦晋之好」があった。
秦晋之好の主な意味は「政略結婚、国家間の団結」であったが、
時代が下るにつれ、徐々に「男女の婚姻」を指して使われるようになった。
時代背景
秦の穆公は、将来は中原に出て行きたいと考え、
当時強大な力を持っていた晋の主、献公に政略結婚を持ちかけた。
これを了承した晋の献公は長女を秦の穆公に嫁がせた。
やがて晋の献公は耄碌し、末子を太子に立て、
それまでの太子であった申生を殺してしまった。
ために他の二人の息子・夷吾と重耳はそれぞれ梁と翟へ逃亡した。
夷吾はのちに、姉婿である秦の穆公の援助を受けて晋の君主となった。
しかし夷吾は間もなく秦と険悪になり、秦に対して戦を起こしたものの惨敗。
公子圉を秦の人質に差し出して、ようやく両国の関係を修復した。
秦の穆公は公子圉を籠絡するために、自分の娘・懐嬴を嫁がせた。
この当時、親戚同士の結婚はとても道理にかなったことだったのである。
だが、公子圉は自分の父が病気になったと聞くと、
外国が秦を滅ぼし、晋の君主の地位が
別の者に伝えられるのではないかと恐れ、晋に逃げ帰った。
秦の穆公はただちに重耳を晋の君主とすべきだと判断し、
楚に逃げていた重耳を召還。娘の懐嬴を重耳に改嫁させた。
二年後に夷吾が死に、公子圉が晋の君主になったが、秦との国交はなかった。
重耳は秦の穆公の援助で晋の新しい国君となり、
有名な「春秋五覇」のひとり「晋の文公」の地位に上ったのである。
秦の穆公は、重耳の死後ほどなくして
当時の中原の覇者であった晋を打ち破り、
「春秋五覇」のひとりに数えられることとなった。
百度おしまい
長かった……完全に自己満足だった……
「春秋時代は国が多すぎて誰がどこの人か分からない」とよく言われるので
国ごとで無駄に色分けしてみましたが、本当に無駄でした。
分けないほうがよかった……と後悔しましたが時既に遅し。
色をつけた箇所が多すぎて戻せなくなりました。(操作が不得意だから)
女の子は暖色系の色にしてみました。
実は『三国演義』でも新三とまったく同じ場面で使われてました。
第五十四回 吳國太佛寺看新郎 劉皇叔洞房續佳偶 にて。
吾主吳侯有一妹,美而賢,堪奉箕帚。若兩家共結秦晉之好,則曹賊不敢正視東南也。演義をちゃんと読んでないことがヴァレヴァレですね。
しかしこれからは「政略結婚」のことを「秦晋之好」と表現できる。
私には『春秋左氏伝』の秦の記憶がほとんどないのですが、
穆公が亡くなったあともモリモリ出てきてますね……
秦はやっぱり法律でガチガチの国家になってからが好きです。