孫武と江東孫家について孫武サイドから考えてみた | 呉下の凡愚の住処

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春秋戦国の楚国、三国志の孫呉にすべてを捧げて生きています。
現在はあまり更新していませんが、
何も持っていなかった過去の自分が想定読者でした。
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考察ではありません。激しく妄想です。そして激しく長文です。
根拠などまったくありませんので「あっそう」ぐらいに思ってください。


『三国志』および三国志関連の創作物では、
曹操は夏侯嬰の末裔、孫堅は孫武の末裔、劉備は中山靖王・劉勝の末裔……
ということになっています。
曹操が夏侯嬰の末裔、これはいいでしょう。
劉備が中山靖王の末裔、これもいいでしょう。
「いい」は「どうでもいい」の意です(すみません……)。


孫堅が孫武の末裔というのはどうかと思います。
たとえ末裔だとしても直系の子孫ではないでしょう。私はそう思っています。



■導入


私は孫堅も孫武も大好きです。
世間一般の人の120億倍くらいは孫堅、孫武のことを好きな自信があります。
が! 孫家が孫武の子孫かというとそれはないだろ! と言いたい!

どっちも好きだからこそ言いたい! 激しく言いたい!(笑)


このことに孫堅サイドから言及している方はたくさんおられますが、
孫武サイドから言及している人って少ないので、
孫武先生の名誉のためにも書いてみました。


孫武自体実在したかどうか分からない人ですし、
(私はいてほしいと思っていますが……今後詳しく妄想していきたい題材です)
孫武は実在した、と仮定しても、本当にあの『孫子』を書けるほどの人間ならば
絶対にあのまま(春秋の)呉の国には残らないでしょう(笑)。



■『新唐書』内の「富春孫家は孫武の子孫」という主張


『新唐書』宰相世系三下という項があって、
この時の宰相とおぼしき姓の系譜があります。(←ちゃんと読んでない)
そしてこの中の目録に孫氏もあります。
……が、何故か孫氏だけバグって見られません(漢籍電子文献で)。
(孫氏だけ見られないなんて何かの呪いとしか思えない……)
なので仕方なくWikipediaで確認したところ

「憑生武,字長卿,以田、鮑四族謀爲亂,奔呉,爲將軍。三子:馳、明、敵」。孫武には孫馳・孫明・孫敵という三人の息子がおり、次男の孫明は呉の富春郡を賜り後の富春孫家の祖となった。

とのこと。
孫武の字が長卿というのも『新唐書』情報のようです(笑)。
↑これも個人的には笑える話ですよ……孫武の字って(笑)

呉の富春郡を賜り後の富春孫家の祖となった

三国時代の呉皇帝のために書いた感がプンプンします(穿った見方)。
今からこの記述をボロクソにけなします。すまない。


※富春孫家……『四庫全書』によると孫権の一族はここから出てるらしい。

この記事の本題はそこじゃないので、この記事でのみ

「富春孫家」=「江東孫家」と勝手に言い換えます。

江東孫家=孫権の一族。この記事でのみ(大事なことなので二回略)



■筆者の考える妥当な孫武の子孫:孫ピン


戦国時代に孫ピンという人がいますが(ピンは“足切り”の意で名前ではない)、
この人が孫武の100数年後の子孫だと『史記』孫氏呉起列伝には書いてあります。
「ピン生阿ケン之閒,ピン亦孫武之後世子孫也。」
↑表示できない文字が多くて何がなんやらですが……


『史記』を100%信じているわけではないですが、
孫ピンが孫武の直系子孫というのはなんだか納得できるんですよ。
孫武は呉を出たあと、斉のあたりに戻っているといいなあという願望があるので。

 ↑願望すなわち妄想です。偉そうに「妥当」と書いておいて妄想というオチ


つまり孫武の息子たちは、(一家揃って斉に帰ってはおらずとも)
誰一人として呉に留まってはいないんじゃないかなあと思ってます。
孫武からたった100年後の孫ピンですら呉に生まれてないですし。


孫ピンと言えば「ホウ涓この樹の下に死す!」
でお馴染みの兵法家ですね!(なんという適当説明)


孫ピンはその後も斉の国を支え続けたのでしょうか、
残念ながら子孫についての記述はありません。
戦国時代は人の行き来が激しい時代なので、
孫ピンの子孫もどこか他の国に行ったかもしれません。


ここで孫氏の行方は分からなくなった、と私は考えます。
孫武先生の子孫なら功を立てたあとはひっそり暮らしてほしいです(希望的妄想)



■妄想:孫明が富春に封ぜられていたら


さて。
ここから先は希望的妄想レベルが何倍も上がるのでご注意ください。
この項目だけ『史記』『呉越春秋』がすべてです(笑)
イコール信憑性は皆無なのでよろしくお願いします。



先ほどの「孫明が富春孫家の祖となった」説が本当だと仮定すると……
功績ある孫武の息子だから領地を貰えるわけですよね。


さてここで『史記』の呉太白世家を見てみると。

「越王は呉を滅ぼし、呉に忠を尽くさなかった太宰の伯ヒを誅殺した」
とあります(「越王滅呉,誅太宰ヒ,以為不忠,而歸。」)。

伯ヒを誅殺したのは、范蠡が進言したからに間違いないと思うんですね。
そもそも句践は夫差のことも許してやろうとしてましたから。
『史記』越王句踐世家「句踐不忍,欲許之。」
それに対して范蠡が説教したので句践も思い直したわけです。


で、范蠡ならば孫武の評判をよく知っていただろうし、
もしもこのとき孫武が国に残っていたらこれも誅殺したでしょう。
もちろん孫武の息子が国に残っていたらそのことも知っていたでしょうし、
功績ある孫武の息子なんて間違いなく誅殺したでしょう。


もし孫明が富春に封ぜられていたところまで事実だったとしても、
呉が滅ぼされたときに孫明は死んだだろうと思うんですよね。


そもそも孫武先生なら(以下妄想)呉がいずれ滅ぶのは見えていただろうし、
そんな国に息子を置いてきたりしないだろうと思いたい。
たとえ息子が富春に封ぜられそうになっても辞退するんじゃないですかね。



■妄想:もしも江東孫家が孫明の子孫だったら


運よく孫明が生きていたとして――
(もっともこの説を採るなら范蠡の存在は消滅しますが)
すると孫明の子孫はずっと富春県にいたことになりますが、
それってすごく難しいことだと思いませんか?
戦国時代も楚漢争覇時代も漢時代も富春孫氏は動かずに済んだのでしょうか?


孫明がそのまま孫堅に連なるとしたら、
この孫家はもう代々代々何百年も富春で役人をしていたことになります。
官職に就いていながら昇進もなく転勤もなく、
中央の記録には絶対残らない役人をしていたことに……
どんだけ空気だよ!! どんだけ特別扱いだよ孫家!!!


孫明が孫堅に連なっていたとしたら、恐ろしく由緒正しい家柄ですよ。
ガチで孫武の子孫ということになりますよ。系譜とか残っててもいいでしょう。
孫家が隠したがっても近所の人たち(笑)が黙ってないでしょう。

しかも姓すら変えない。どんだけ堂々としてるんだよ(笑)
孫武先生の直系子孫が挙兵したら、もはや漢王朝より由緒正しいですよ(笑)
袁術なんぞに服従してやるはずがないですよね。


と言うか春秋時代から三国時代まで、
姓も領地も変えずに代々続いてる直系の子孫なんています?

周王朝ですら滅んだというのに……



■つまり『新唐書』の記述って


「孫明が富春孫家の祖となった」ってのはありえなさすぎると思います。


孫武なんて春秋時代の人ですし、
「もとを辿れば孫武」ということがないとは言いきれないでしょう。
ですが直系という可能性は……ほぼナシだと思います。
まして孫明から代々続いているなんて絶対ない、と断言したいくらいです。


孫権は皇帝になってますし、建業を首都にしている王朝は少なくないですし、
そこの孫家の系譜を正当化しちゃうのとか、事情は分かるんですけどね。



***



まあ、孫堅とか孫策とか孫権とかが
「孫武の子孫です(キリッ)」
って言うのはかわいいものです! 言った者勝ちだと思いますしね!
別に彼らを批判する気持ちはこれっぽっちもないんですが……


でも自称孫武先生の子孫が自ら陣頭に立っちゃイカンですよね。
孫武先生の子孫っぽいエピソードすら存在しない江東孫家……
むしろ曹操が孫武の子孫を名乗ったほうがしっくりくるという始末(笑)
いや、褒めてるんですよ!
と言うか今さら私が江東孫家を批判してどうする。
無理に批判しても途中で血吹いて倒れると思います。阮籍のように(笑)


私だけが楽しい話題ですみませんでした……