お世話になっているブログサイトさんを見ていて初めて知ったことです。
丁原って、『三国志演義』だと“荊州刺史”って設定になってるんですね。
ええー北にいたお前が荊州刺史かい! ってツッコんでしまいました(笑)
ちなみに董卓が少帝弁を廃立しようとしたこのとき(189年)、
実際に(正史で、の意)荊州刺史をやっていたのは
王叡もしくは劉表だとおもいます。
このあたり(189~191年ぐらい)は情報が錯綜していて、
劉表が荊州牧になった時期についても『後漢書』と『三国志』で
微妙に書いてあることが違ったりしまして……
今回も漢籍電●文献に入り浸ってきたのですが、
すべてを見比べて考察するなんてことは私にはできませんでした。
劉表だとしたら“刺史”じゃなくて“牧”なんですけど、
詳しく書くのがめんどくさいので(……)
気になる方は「刺史 牧」などで検索してみてくださいませ。
本題。
丁原は、正史では↑あのとき執金吾として出てきます。
私の中では、丁原=執金吾のイメージがすごく強いです。
むしろ、執金吾という役職=丁原 ぐらいの刷り込まれ具合。
執金吾とは皇宮の周囲の治安を司る官職で、
水害、火災などの非常時の事故に備えていたそうです。
それに加えて、皇帝が旅に出るときは
儀仗(儀式に使う武器)の警備もしていたらしい。
なんでその執金吾・丁原さんが荊州刺史になってるんでしょうね~。
彼は洛陽に召されるまえ、確かに州刺史を担当していました。
でも并州(呂布の出身地として有名な太原郡があるところ)の刺史です。
この并州刺史をやっていたころ、呂布や張遼をスカウトしたんですね。
すごいですよね、丁原って人を見る目がありますね。
ちなみに演義丁原が董卓に向かって
「(帝を廃することなど)ならぬならぬ! 天子は先帝のご嫡子。
それを廃立など、なんと馬鹿げたことを……
貴様、帝位簒奪の志でもあるのではあるまいか?」(意訳)
と言う場面がとても有名ですが、正史にはそんな記述ないです。
でもよくできてますよね。カッコいい場面だとおもいます。
うーん、よりによって荊州刺史になっているとは……
幽州刺史とかだったら違和感をおぼえることもなかったかもですが(……)
荊州ですからね。我々(誰?)の因縁の土地、荊州ですからね。
私、荊州について考えて興奮して眠れなくなり、
気がついたら朝になっていたということがよくあります。たぶん病気ですね。
演義でとは言え、荊州刺史とされた丁原のことは一生忘れないとおもいます。
◆他に書く機会もなさそうなので、孫呉の執金吾
呉にも執金吾が置かれていました。
もっとも有名な執金吾は許晏、かとおもいます。
遼東で挙兵した公孫淵のために呉から九錫持って行ってあげて、
(実は司馬懿と内通していた)公孫淵によって殺されたかわいそうな人です。
ほんとにかわいそうです。もう執金吾とか関係ないじゃん……
最初の三行で内容すべて事足りるのに、蛇足ばっかりですみません^^;
たぶん荊州のせいですね。間違いない。