十三(とさ)の砂山(津軽民謡) | 標葉工房電脳帖

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1)「十三(とさ)の砂山」
【歌詞】
 十三の砂山ナーヤーエー 米ならよかろナー
 西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ
 弁財衆にゃナーヤーエー 弁財衆にゃ西のナー
 西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ 

【背景】
 この唄は、旧の旧十三村で古くから歌われた盆唄だ。
「十三」は、旧青森県北津軽郡市浦村十三である(現五所川原市で最近の市町村合併には脳みそがついてゆけない!)。この地は、十三湊を根拠地として、かつて安東水軍が鎌倉時代から室町時代にかけて、交易を全国的に展開していたという。室町時代には十三湊は、全国の三津七湊の一つに数えられ、大変繁栄していた。
この都市は、興国の大津波で壊滅したとの伝承があるが、この津波の有無は科学的に確認されていない。
最近の調査では都市があったことが判明しているが、この発掘調査は未完であるし、また、安東水軍の存在も確定されてはいない。偽書とされている東日流外三郡誌の主要な舞台でもある。


 弁財衆とは、近世では弁財船に乗っている船頭衆の意味だが、日本海を北行した北前船も弁財船と呼ばれていた。

 この弁財衆は、もともと「弁済使」からきていると考えられている。平安時代以後、国衙領や一部荘園などに設けられた役職で、貢納された租米を計算し処理する役で、九州地方に多かったようだ。

 「砂が米なら、ただで砂山の米を積んでやろう」という歌詞に、米を取立てられる側の苦しみを、コミカルにさらっと言っているのが、なんとも良い雰囲気を醸し出している。

2)弁  済  使  (資料)

 弁済使は平安時代の荘園の中の役職である。これが、江戸期には「弁指」(べんざし)に変わり、この名を使っていたようだ。これが江戸中期になると、「小庄屋」に変わる。大庄屋のもとに大庄屋の補佐役としての弁指は、1村~数村を管轄し、権利も大庄屋と変わらないものを持っていたそうで、この役には村内の有力者を任命した。

3)安東水軍(富山和子「水の文化史」文藝春秋、1980より)

(津軽の)十三は鎌倉室町時代、安東水軍として勇名を馳せた安東氏の本拠地であった。安東氏は源氏に追われた安部貞任の子が起こしたといわれ、瀬戸内海、熊野地方はもとより、揚子江を遡って中国との交易を行い、インド、フィリピンへも航海している。

「その造船法は韓国及び唐に学び、遠く南蛮にも学びて得たる安東水軍なり。三本帆柱、六十艫の巨船は、日本幕軍たりとも得たるためしなし。安東水軍は、興国年間以前、その威勢は塩飽(しあく)水軍、村上水軍の八幡(ばはん)も及ぶ事なし」(「安東船覚書」正保二年、1645年)というほどで、壇ノ浦の合戦では平氏を応援して軍を送り、合戦がすでに終わっていたので、宮崎から平氏の落人を救出して連れ帰っている。

 また文永七年(1270年)の蒙古水軍がやって来た際には鎌倉幕府の要請を受けていち早く壱岐対馬へ軍船十艘を派遣し、対馬の島民を救出し、移住させている。更に、中央政府から追われた者を常に受け入れながら、十三の地に一大王国を築いていたのが安東氏であった。

4)弁財船について(富山和子「水の文化史」文藝春秋、1980より)

 弁財船(べざいせん)と言い、歴史的には弁財船が北前船の前だ。藩から請けた藩米を輸送するための船だ。弁財船というのは、船の形態を言うのと、藩の財政やお米を弁ずるという両方の意味で使われている。

 古い時代に貢米など租税を積み取りに来た、弁済使の名が転用されたという。ただし船舶史の研究者は、弁財型は瀬戸内で発達した船型で、そちらで使われていた他の船型と違って「押し(みおし)」と言われる水切り舳があるのが特色なので舳在(へざい)と呼んだのが、梵語の弁財天に似た音なので弁財、弁才と当て字するようになったのだと言う。

 いずれにせよ北陸から北海道にかけての日本海側では、上方から来た船を弁財船、その船乗りたちを弁財衆と呼んだ。津軽の十三湊(とさみなと)の民謡が「十三(とさ)の砂山米ならよかろう、西の弁財衆にみな積ましょ」と歌うのはよく知られている。