かなり映画を観ている映画ファンの中にも、自主映画は苦手だという人がいる。
それは、きっと制作する側が自己満足で作っていたり、製作費がないのが見え見えで、観ていて迫力がないという意識が映画ファンの中にあるからなんだと思う。
でも、その意見は正しい部分もあるけれど、すべてではありません。
なんでそんなふうに思うか?というと、最近、物凄いエネルギーのある自主映画を目撃したからなんです。
東京フィルムメックスでグランプリに輝いた
内田伸輝監督作品
ふゆの獣
という映画なんです。
ラストのクレジットを観ても、スタッフは3人ぐらいで本当に少人数で撮影しているのが解りますし、製作費もそんなにかかっているようには思えません。
まさに、ザ・自主映画といった感じなんだけれど、これが面白いんです。
主演されている役者さんが知り合いで、観に行ったんですが、自主映画特有の難解さは無くて、たとえば、ウディアレン監督の「夫たち、妻たち」、「マンハッタン」、マイク・ニコルズ監督の「クローサー」などを思い出しました。
男と女の群像劇と言ったら、解りやすいと思います。
注目すべきは、この映画の作り方。
シナリオ、脚本が無いんですよ(笑)
伏線やいいセリフがたくさんあったので、シナリオが無いと言っても、きっと監督が現場できっちりと指示しているのではないか?と思っていました。
でも、後から役者さんに聞いてみると、現場は完全にアドリブだったと言うんですよ。
これは、ショックでした(笑)
その場で役者さんが思いついたセリフが良いセリフになってしまうと、はっきり言って、脚本家、シナリオライターの必要がなくなってしまうんです(笑)
簡単なメモだけで、撮影現場が成り立ってしまうと、シナリオ、脚本っていらないじゃないですか?
だから、シナリオライター、脚本家の存在も消えてしまう(笑)
この問題は、昔から言われている事なんです。
北野武監督が「HANABI」で映画祭のグランプリを獲得した時、シナリオライター仲間の間では、映画の面白さよりもシナリオなしの映画が世界で認められてしまった事によるショックのほうが大きかった。
この問題は本当に根が深い。
もっと遡れば、1960年代のフランスで脚本なしの自主映画が世界の映画界に大きな影響を与えた事件が起きました。
ゴダール監督作品
「勝手にしやがれ」
という作品です。
生前、映画評論家の淀川さんは、
「ゴダールのせいで、映画は誰にでもつくれると勘違いされてしまった」
という言葉を残しています。
それは本当にその通りで、ゴダールは撮影所の助監督経験なし、脚本もなし、そしてプロのスタッフ、役者も使わないという方法を徹底に追求し、自主映画を世界的に流行らしたわけなんですよ。
まぁ、すべての自主映画が面白いわけではないので、ちょっと安心していますが(笑)、それでも、たまに面白い自主映画に出会うと不安になります。
そんな時、決まって、脚本家、シナリオライターの存在意義を考えてしまう。
僕はこんなふうに考えています。
たぶん、テレビドラマ、全国系の映画では、脚本家、シナリオライターって絶対に必要なんです。
まず、脚本、シナリオがないと、現場がスムーズに進みません。そして、役者が自然に良いセリフを言うまで待ってる時間もない。
そして、何より商売、ビジネスとして成り立っているか?を検証するために、シナリオ、脚本って必要になって来ると思うんです。
そんな事から、全国系の映画、テレビドラマには設計図としてのシナリオ、脚本が必要になってくるんじゃないでしょうか。
どうだろう?う~ん、難しい問題ですね。
今日は、ちょっと個人的な嘆きのブログになってしまったので(笑)、次週はアカデミックなパニック映画について、書きたいと思います。