● シン・ゴジラと大怪獣のあとしまつ その3

※今回の記事は映画に関してのネタバレが含まれます

 

 

 前々回、前回の記事でシン・ゴジラの特徴、大怪獣のあとしまつの特徴をそれぞれ出してみました。

 

 今回は対比しながら深堀っていきます。

 

 

 

 この二つの作品を「特撮作品の世界観は踏襲しないがテーマを踏襲している」作品と「特撮作品の世界観は踏襲しているがテーマを踏襲していない作品」として対比すると非常に面白くなります。

 

 それぞれの性質を理解すると実はそれぞれ浅はかな演出が一切ない作品であることが分かるんですよね。

 

 例えば主人公。

 

 シン・ゴジラの主人公はある意味で冒頭から現実の人間らしさがないとも言えます。

 

 同調圧力の強い組織の中にあって上の意向を無視してでも正しいことを成そうとする気概がある人間などいるでしょうか?

 

 希望的観測で対策が遅れるというようなリアリティが描かれる冒頭部分にあって主人公だけが不自然なほど冷静に、やけに自信を持って進言するというのがある種お約束的なフィクションなのです。

 

 しかし、シン・ゴジラにおいてはその「英雄的人間像」は大事な要素であるので、この他者との違いは分かりやすい方が良いです。

 

 むしろ、主人公という飛び切りのフィクションをお役所仕事的なリアリティでくるむことで差別化を図りつつ違和感をほぼ感じさせないという表現が素晴らしいです。

 

 「英雄的人間像」というフィクションの存在という意味では、大怪獣のあとしまつの主人公も同じような立ち回りをしています。

 

 周囲の人間が善意とエゴの入り混じる思惑を持って足を引っ張り合う中、主人公だけが出来る限りの最善を尽くし、不自然なほど真っ直ぐに自分以外の人間の為に働き続けます。

 

 この主人公像はシン・ゴジラと近いと言えますが、大きな相違点は「その不自然さに理由があること」です

 

 「愚かな人間」のリアリティがとても高いこの作品において、唯一フィクションのように立ち回れる主人公は本当にただの人間ではない「ヒーロー」なのです。

 

 作品中に出てくる人間は、有能だが裏があったり、純粋な思いを持って行動していても一歩足りない部分があったり、完全な人間は一人としておらず、その上足りない部分を補う助け合いもままならない。

 

 結果怪獣も倒せないし、その処理すら出来ないのです。

 

 しかし、それが人間なのではないかとも思います。

 

 最近で言えばコロナに関してもそうで、映画の公開前の昨年末あたりにあった説明のつかない感染者数の減少という報道と、その報道を受けての世間の気の緩みから再び感染者数の増加という流れがありましたね。

 

 制作時期的にはこの流れを脚本に入れ込む時間があったのかは疑問なのですが、その流れをトレースしたかのような事が作品中に起こっているのです。

 

 解像度の高い人間描写の作品において、唯一人間らしくない行動ができる主人公は最初からかどうかは分からないにせよ人間では無かった。

 

 全く救いのない話ですね。

 

 シン・ゴジラの主人公はあくまで人間であり、そこに集まった人間の英知と勇気を持って怪獣を倒す「人間の可能性」というテーマであるのに対し、大怪獣のあとしまつは登場する人間は全て愚かで、生き残るも滅ぶも全て上位の存在次第といった「人間の卑小さ」を描いているのです。

 

 自称特撮好きが怪獣映画の「人間の強さ」に惹かれているというのなら、大怪獣のあとしまつのテーマが自分に合わないといって敬遠するのは分かります。

 

 しかし、どうにも自称批評家の人たちは上っ面の表現しか見ていないような言い回ししかしない事が気にかかります。

 

 「人間」というテーマの対比だけでもこれほど長くなりましたが、もっと他にも「悲劇的な喜劇なのか」「喜劇的な悲劇なのか」であったり、怪獣の出現前後の世界はそれぞれでどう違うかなどの考察をしていけば、どちらの作品ももっと面白くなってくるなと思います。

 

 あとはシン・ウルトラマンがどういう作品なのかが気になるところです…

 

 まだ見れていないですが何とか公開期間中に見に行きたいと思います。