● アカデミー賞の平手打ち事件から見えること 暴力の捉え方編その3

 

 前回、前々回とアカデミー賞平手打ち事件を元に日米の暴力観の違いについて書いてきました。

 

 

 前回の記事までで書いていた日本とアメリカの暴力の距離感の差は日本人にはピンと来ないかもしれませんが、そういう方は映画「ジョンウィック」を見ると納得しやすいかもしれません。

 

 マフィアや殺し屋といった所謂暴力ですべてが決まる「裏社会」が描かれたこの作品の中には、絶対的に殺人がご法度とされる領域として「コンチネンタルホテル」という場が出てきます。

 

 

 無法者の社会にそんな不可侵領域を作ることが可能なのかという事もありますが、無法者であるがゆえに互いが通そうとする筋を一切関知しない不可侵領域を作らないと暴力の行使ばかりになるのです。

 

 安全が保障された場であれば落としどころを見つけられる答えも、暴力でこちらを排除しにくる選択肢がある状況では見いだせないという事です。

 

 この不可侵が破られるとその後の秩序が崩壊してしまうので、禁を破ったものには裏社会全体で報復がなされます。

 

 ジョン・ウィックがコンチネンタルホテルの不可侵を破るのは2作目のことですが、そこに至る理由は映画を見ている人には理解できても作中では一切無視されジョンウィックへの報復が始まります。

 

 アカデミー賞平手打ち事件はジョン・ウィックほど激しく暴力的では無いにせよ、アメリカが現時点の秩序を構築し維持するのに相当の直接的暴力のバックボーンがあることを示していると思います。

 

 理性的なやり取りをする以前の保証が無い世界だからこそ侮辱よりも暴力が重いから糾弾される暴力と無視される暴力があるのです。

 

 「侮辱はお咎めなしなのか」これは私たちが身体的には安全なところに居るから見える問題なのかもしれません。

 

 

 以上のように日本とアメリカの暴力観を私なりに考えてみましたが、まず私の考察が正しいという保証もありませんし、何よりこれは日米の暴力観に優劣があるという話ではないという事はご理解いただきたいです。

 

 それぞれの文化には美点と問題点があり、それらが絡み合いある種の必然性があって現在の形に落ち着いているというだけの話です。

 

 大事なのは絶対的な正義のようなものはないという認識です。

 

 

 ウィル・スミス氏だけ糾弾されるのがおかしいという感覚も正しい、ウィル・スミス氏が破っていはいけないことをしたという立場も正しい、ただそう感じるのにはそれぞれ理由があるということです。