● アカデミー賞の平手打ち事件から見えること 暴力の捉え方編
前回の記事で概要を書いた「アカデミー賞平手打ち事件」に関して私なりに感じた「日米の暴力観」について書いていきたいと思います。
※あくまで日本の情報しか得られない状態での見解になります。認識違いなどがある場合は情報の追加という形でご指摘いただけると幸いです。
まず初めに軽くおさらいすると日本ではこの事件に関して同情的な見解を持つ人が比較的多く、公に称賛の声を上げる人も居ます。
対してアメリカでは大多数が暴力に対する否定的な意見であるようです。
日本側の称賛の声も手放しで称えているわけではないものの、日米での評価はかなり隔たりのあるものだなと感じました。
この疑問に関して私なりに考えてみたところ、「日米で暴力に関する解釈が違うのではないか」という解釈が生まれました。
あくまで印象ですが日本の評価においては侮辱=精神的な暴力であり、「精神的な暴力」と「身体的な暴力」を同等に扱っているように思えます。
対してアメリカの評価においては絶対的に「身体的暴力を加えることの方が悪」という概念があるように思えます。
日本では質が違うだけで暴力対暴力の構図であり、先に仕掛けてきたのはクリス・ロック氏の方であるという認識であるためウィル・スミス氏の行動は防御的なものだと解釈され、アメリカではウィル・スミス氏が先に暴力を振るったと解釈されているのです。
こう考えると日米の評価の差は納得できるものになると思います。
この暴力観の違いが正しかったと仮定した場合で話を進めますが、これはあくまで「違いがある」という事であってどちらが正しいかを考えるのは意味がありません。
文化や思想の違いによってどういった加害・被害が生まれやすいかが変わり、それに合わせた正義が生まれるからです。
単純な比較というものは出来ませんが、日米の暴力観の違いを考えた時に「どちらのタイプの暴力が身近にあるか」という事は重要であるように思えます。
日本においては圧倒的に「精神的な暴力」が身近にあると言えます。
あくまで「平均的」な日本人像を考えると、日本では個々の主張よりは全体の調和を重んじる傾向にあり、「波風を立てたくない」と考えたり「自分が我慢すれば済む」となれば我慢してしまう傾向にあります。
こういった性質は、ある意味で日本に表立った暴力事件が起こりにくいという一種の治安の良さに繋がっているところはあるといえるでしょう。
身体的な危機感は少ない日本ですが、では平和でストレスがない社会なのかと言われれば、決してそうではないということは多くの読者の方にはご理解いただけると思います。
パワハラ、セクハラ、モラハラ等の種々のハラスメント、こういったこと自体はアメリカにもあるでしょうが、先に挙げた日本人の「波風を立てたくない」「自分が我慢すれば済む」というスタンスはかなりマイナスに働きます。
ハラスメントに立ち向かわなくては当然状況の改善は見込めないのでストレスは溜まり続けますが、立ち向かうことにも相当のストレスがかかります。
さらに言ってしまえば本来は不当に対して立ち上がるべきだと思っていても行動に移せない自分に対して自己嫌悪に陥るパターンも多いでしょう
行くも地獄、戻るも地獄、これは日本人が不当な事柄に対してに立ち向かう事に慣れていないということも問題ですが、いずれにせよ身体的に安全でも精神的な暴力を身近に感じることが多く、そちらに対しての感度が高いといえると思います。
この精神的な暴力は関知しにくいものでありますが、確実に人を蝕み、精神的な病になってしまったり、自ら死を選ぶという人すら少なくありません。
言い方を変えれば日本人は「目に見えにくい暴力」に晒されているからこそ精神的なものに敏感ということでしょう。
対してアメリカは…という話は次回に回そうと思います。
