今回はこのブログでもちょこちょこ話題に上がっている認知科学の考え方の1つである臨場感についてのお話です。

 

 皆さんは臨場感というとどういった事を思い浮かべるでしょうか?

 

 映画館で観るド迫力のハリウッド映画?こだわったオーディオ環境で聴くクラシック音楽?はたまた優れたグラフィックのゲーム?

 

 様々あると思います。辞書で引くと

 

 実際その場に身を置いているかのような感じ

 

 と、表されています。

 

 大前提としてその場に居ないのにそう感じるということが重要な訳ですね。

 

 この臨場感は実は何も先に挙げた例のようにリアリティのある映像や音を直接五感に働きかせる必要が無かったりもします。

 

 代表的な例を挙げれば小説を読んで感動するという事が例に挙げられるでしょう。心に響く作品であれば文章しか無いにも関わらず涙を流すことすらあります。

 

 歌においても歌詞に共感してかつ音楽にで心が踊れば情景が頭に湧き上がることも有るでしょう。

 

 さらに生理現象的な話をするなら、梅干しやレモンを見て唾液が出てくるのも一種の臨場感からの現象と言えます。

 

 この様に意外と人間はその脳内だけでも自らが何かに直面しているように感じてしまえるものなのです。

 

 これは過去の記事を読んでもらえれば分かりやすいかと思いますが、ある意味で直接五感に働きかけるのもそうでないものも結局は脳の処理の結果という事に変わりが無いためです。

 

 意外と脳は適当なんです。しかし適当な割に凄い事もやっている。無意識下での情報処理は中々凄くて臨場感が有るとおりに身体を動かしたりします。

 

 少し話がそれますが期待とSNS等での叩く行為についての記事は苫米地英人氏の書籍の一項目を読んでいて考えついた物だったりします。

 

 何について書かれていたかというと気功についてだったりします。

 

 今、気功という単語を見ただけで胡散臭いと思った方が居るとすればそれこそが期待のしすぎです(笑)

 

 兎角日本ではドラゴンボールや武術における気の概念が浸透し過ぎているせいもあって、気というと摩訶不思議な超常現象を起こすものと考えがちです。

 

 実際に使っている側もそういう認識の人も居ないでもないのですが、認知科学の側面から現実的に気功と向き合っている人を前提でいうならば、そういった人たちに対して胡散臭いという印象を抱くのは、要するに気功師の認識以上の事を期待しているが故の事なのです。

 

 意外とアメリカ等、一度気功を代替医療とする研究に取り組んで失敗しその後に補完医療としての価値を見いだした国も多くあります。

 

 ヨーロッパ圏の方が東洋の様にに対しての過大な期待がない分正しい評価に落ち着きやすい所が有るようです。

 

 さて、それた話を徐々に戻します。気功というものは要するにそこにがあるという臨場感を持つ事を利用して、無意識に働きかけたりする技術なわけです。

 

 その時に大切なのは過度な期待は持たずに有ると信じることです。かめはめ波が打てるなんて思わずに「脳の錯覚ってこんな感じかー」位の感覚で充分なのです。

 

 そう考えるだけで意外と世の中は感覚として不思議な事は良く有る事が分かります。先に挙げた梅干しやレモンで唾液が出るのもそうですし、眉間に指を近づけられると触れられていないのに目の間がムズムズするようなものです。

 

 過去の記事でも紹介している抽象化やマインドが変わった事によって見える世界が変わるという事象も、この臨場感をなるべく強く感じてその感覚に委ねる事でより効果を発揮します。

 

 大切なのは地に足をつけつつ、無意識を信じることです。適切に臨場感を感じながら効率的に生きましょう。