前々回前回とかなり分量が多くなってしまいましたが一旦今回がラストです。

 今回は解説や感想というよりは、どちらかというとこの作品の世界観をより臨場感を持って楽しむための手段の提案という形です。

 その手段とは実際にこの世界に自分が居たらどう行動するかを想像するというものです。そしてその想像をよりリアルにするために、この作品を通して私が感じた疑問を例として挙げるのでまずはそれについて考えてみてください。そこで生まれる考えの差異がこの世界の解釈の多様性に繋がり作品の深みとなります。

 

 ・テンプレート言語について

 作中登場する用語「テンプレート言語」これはアプリの注釈によると他者を傷つけることのない何億通りという状況に合わせた会話のテンプレートのアーカイブだそうです。まず初めにこの何億通りというパターンを聞いて多いと感じるか少ないと感じるかで新言語秩序に対する評価が変わるのではないかと思います。

 

 朗読で用いられてる文章も検閲解除前は殆どが黒塗りですし、楽曲で紡がれる歌詞もおよそテンプレートに収まっているとは思えない自由さを感じます。ライブの性質を考えると自分たちが言葉ゾンビ側だと思えば先入観として少なく感じるのは当然でしょう。

 

 しかし、実際の日常生活に当てはめようと思うと少し印象が変わるのではないでしょうか。友人や家族といったプライベートな会話は別としたとしても、仕事等における会話はテンプレート化しても差し支えないし、それほどパターンは必要無いのではないかとも思えます。

 

 もの凄く余談になりますが「空想科学読本」という本のシリーズでフィクション上の天才No.1は誰かという議題があり、ゴルゴ13が候補として挙がっていました。その理由に多言語をマスターしているというものがあったのですが、それに対する一つの説として、一つの言語につき仕事に必要な単語を数パターンだけ覚えているだけなのではないかという事が言われていました。どちらかというとトンデモ説ではありますが、確かに彼は他人と話すことが殆どないので妙な説得力も有るのでした。

 

 極端な例を挙げてしまいまいましたが、いずれにせよ言論統制は敷かれているとはいえ、何億ものパターンを作るということには相当な労力が掛かったのではないかと私は思いました。そう思ってしまうと新言語秩序が方法は間違っているにせよ言葉とは真摯に向き合っている様にも見えます。しかしこの点については実際にパターンを創出して検証するのは現実的ではありません。それでも多いか少ないかを直感的に感じようと思うだけでも作品の臨場感は上がると思います。

 

 ・自分ならどのように振る舞うのか

 いわゆるロールプレイというやつですね。実際に作品の世界に居ることを想定して自分はどういう振る舞いをするのか考えることは作品の理解にもかなり重要になってくる筈です。私なりにリアリティを感じながら考えると作中登場する2勢力の中にも派閥がありそうだし、自分の生活に入り込まれなければどちらでも良いという層も確実に居る筈だと思います。

 

 例えばですがテンプレート言語の範疇から言葉を選びつつもコミュニティの隠語を作ったり、婉曲することで痛烈な皮肉をするという人を私は思い浮かべました。そしてこの様な手段を用いる人は作中の2勢力にも表立って行動しない層にも一定数居るのではないかと思います。私なら自分が大きく被害を受けるまでは行動しない層の中にいると思います。逸脱しない範囲で両者を評価したり、くさしたり、結果として大きな行動は出来ない人間でいそうな気がしています。

 

 このロールプレイに関しても最初に挙げた言論統制の圧がどれほど大きいかで変わってくるとは思います。今私が想像してる世界は抜け道がありそうな位には圧が弱いので上記のような立場を取るだろうとしていますが、別の要素が入れば大いに変わる可能性があります。

 

 ・は誰の言葉か

 このライブの朗読は希明に促され実多がマイクを受け取ったシーンで終わります。そして最後の楽曲が演奏され終演を迎えます。話の流れからすれば自らの言葉を押し殺し閉じ込めてきた実多の心の奔流と考えるのが自然だとは思います。しかし、歌詞の内容と物語の流れからすると、私は少しそれが不自然に感じました。冒頭からの自らのエピソードの吐露は確かに彼女の半生に沿っている様に聞こえます。しかし言葉を取り戻せと叫ぶ部分等はまだ自らの心の混沌に戸惑うあの瞬間の実多から出る発言だろうかとも思います。

 こうして疑問を持つと作品のラストにまだ様々な可能性が見出だせるのです。

 ひょっとしたら実多だけではなく希明の言葉も混ざっているのかもしれない。朗読のラストとの間には時間の隔たりがあり、自らの心に整理をつけた実多言葉ゾンビの一員として発している言葉かもしれない。はたまた物語はやはり朗読で終わっていて最後の秋田ひろむ氏の視点から見た世界を表しているのかもしれない。等私が思いついただけでも全く違った答えに行き着くのです。

 

 

 以上が私がこの作品を鑑賞して出てきた疑問点から広げた世界観の可能性です。きっと私と近いことを思った方、全く別の点に気付いた方様々居ると思います。そしてその一人一人が思い描く世界が違うことによって生まれる膨大な可能性こそがこの作品の魅力なのだと私は考えています。

 皆さんも是非この作品に向き合って魅力を深めていってください。