この記事は事前の知識がある程度必要になるので必ず、前回の記事またはライブを鑑賞してから読むようにしてください。
皆さんはこの物語を観てどんな感想を持ったでしょうか?言葉とともに自由を奪われる苦しみ、言葉によって傷つけられる苦しみ、新言語秩序が正しいのかそれとも言葉ゾンビが正しいのか、この世界はありえないのかあってもおかしくないのか、実多は、希明はこの後どうなるのか…同じライブを観ていたとしても観る人によって感情移入するポイントや想像する世界は大きく違うのではないかと思います。
このライブには様々な仕掛けがあります。最も目に付きやすい物はアプリケーションによる観客と世界観を強固につなぐ工夫ですが、それだけでなく観る者それぞれの心に違った波紋を投げかける様な構成も眼を見張る物があります。きっとこの作品はそれを通して言葉の力、危うさそれらとどう向き合うのかを一人一人に問いかけているのでしょう。私もその意図に則って自分なりの感じた事を書き留めておきます。
前回の記事にも書いた通りこのライブは人を傷つける言葉を検閲し取り締まる組織、新言語秩序への反抗を示す言葉ゾンビの集会という名目で開催されています。抵抗の一環として新言語秩序のかけた検閲を解除していき言葉の自由を観客に示します。
この公演の正式名称『朗読演奏実験空間 新言語秩序』も一種のリアリティを持たせる効果があるのかもしれません。対抗組織の名前である言葉ゾンビや標語である言葉を取り戻せという文言が使われないのは検閲や取締から逃れるためでしょうか。
何れにせよ観客である我々は言葉の自由を求める者、ボーカルの秋田ひろむ氏は物語に登場する言葉ゾンビの若き英雄希明と重なります。時に強く激しい感情を、また別の曲では心に彩り溢れる情景を、言葉によるメッセージ様々なメッセージで語りかけるのです。
しかし、舞台上で自由に言葉を紡ぎあげる楽曲パートとは裏腹に朗読パートで語られる物語は一貫して実多の視点から語られています。言葉への憎しみ、言葉によって傷つけられた過去、言葉を殺さないといけないという使命感、そして自分では気付いていないもしくは無意識に目を逸らしている矛盾。彼女もまた言葉の大きな力を知っているという点においては弾圧する対象と思想が一致しているのです。
前述の通りこのライブは物語の世界観に近づけた演出がなされていますが、恐らく最も現実と差異が生まれているのがこの構図です。弾圧者に対する抗議集会であるならば、まず間違いなく相手がその行為に至る経緯を深く理解出来る機会は与えられないでしょう。4章で実多を脅す希明の取り巻きが良い例です。相手を完全な悪と見なして攻撃するほうが罪悪感もなく強い行動に出る事が出来る。本来なら有り得ないことの筈なのに正義と悪の二元論になってしまう。その様な集団心理の負の側面を回避する意図があったのではないかと考えています。
観客に対して物語の世界の住人としての臨場感を与えたいのであればまた違った手法になるのではないかなと思います。日常が奪われ、団結し、悪を打ち倒す。そんな劇的な瞬間にライブを通して立ち会ってもらう。その様な構成もまた一つの正しい手法としてあり得るでしょう。しかしそうするときっと伝えたいことの本質が変わってしまうのです。
一種のディストピアとして見るこの世界の特徴の一つは管理者達もまた市民であるというところです。新言語秩序は公権力や巨大な企業ではなく、かつて言葉による苦しみを受けた者たちによって築き上げられた組織です。物語に描かれない背景には一種の利権や打算も有るのでしょうが、実多の様にその理念に関して何らかの経験から強く共感したボランティアが多く参加するという点は他のフィクションとの違いであり、また有る種の現実との類似性も示しています。
そして公権力や巨大企業ではなく市民対市民の構図であるということは、力関係、そして被害者と加害者の関係が簡単にひっくり返ってしまうということでもあります。その危うさは私達の日常でも重々承知しておかないといけないことなのです。
もし仮にこのライブで伝えたい事が言葉の自由の尊さであるなら先程述べた様に弾圧者側の描写は残酷な言葉狩りに絞るのが良い手法でしょう。観客にレジスタンスとしての臨場感を与え、自由を取り戻す感動を共有するのです。
しかし恐らくこのライブで伝えていことはそれだけでは足りないのです。言葉の自由の尊さと共に言葉が人を傷つけるという側面も理解しなくてはいけない。きっとそれだけでもまだ不十分で言葉の力に真剣に向き合えというのが私なりに受け取ったこの作品の意図です。
そのために朗読パートでは実多の心情を生々しい言葉も使って掘り下げ、有る種その世界の住人では得られない情報を提示することで物語よりもこの作品を通して伝えたいメッセージに臨場感を持ってもらおうとしたのだと思います。
この物語の最終章は反旗を翻した言葉ゾンビが新言語秩序を打倒し、言葉を殺してきた実多が自分の言葉を吐き出す瞬間に幕を閉じます。しかし作品からのメッセージに気付き、臨場感が湧いている人ほど「この後実多はどうなってしまうんだろう」であったり「この後の社会はどう変わるのか」といったその先についても思いを巡らせたのではないでしょうか。
私はこの物語の世界は放っておいたら同じ悲劇が繰り返されてしまうのではないかと危惧しています。アプリにある注釈によればそもそも新言語秩序が力を持つきっかけそのものがネット上の炎上に端を発する暴動だったとあるからです。
恐らく、今私達がいる社会で同じ様な事が起きていたなら、自由を勝ち取った言葉ゾンビもまた一義的な教義から言葉の危険性を説く者達を弾圧していくでしょう。劇中でも言葉を取り戻せの理念は一致していたものの、核となる主義主張は異なる集団でした。共有する意志の枷が外れた時、そのまま瓦解していかないのであれば無理に纏め上げるために仮想敵が必要になるからです。
私は実多と希明は真剣に向き合えばお互いを理解できる存在だと思っています。共に言葉の力を理解していますし、その力に全力で向き合うが故の対立だからです。ただこの物語の世界がそれでうまくいくのかと言えばそう安泰でもないとは思います。
社会現象にまで発展してしまっているこの騒乱では余計な外野も多くいるでしょう。リアリティをもって考えるなら以前の記事に書いたような層が確実に出てきてしまうからです。
しかし、そういった意味で物語の最後は象徴的なシーンでもあります。新言語秩序の幹部である実多に対し言葉ゾンビの英雄希明はマイクを渡し群衆の前で自分の言葉を示せと促すのです。
言葉を真に尊重する希明からすればその行為は相手の存在を尊重することでもあります。実多を新言語秩序の象徴としてただ倒す対象とみるのではなく、彼の思う人としての在り方を取り戻させようとしているのです。
私はこの世界の人々がこの後、紆余曲折を経ても言葉の力との正しい向き合い方を得られる社会になれば良いなと思いますし、それ以上に実多がこの先救われて欲しいと切に願っています。
以上が私がこの作品を観て見出した物と抱いた感想です。
最初にも述べた通りこの世界は観客一人一人によって観え方が違い、その先の世界の想像も人によって違うでしょう。一つの作品に見た人の数だけ違った答えがある。
皆さんも答えを出せるかではなく自分なりの言葉の力への向き合い方をして、他の人の意見も取り入れたりしながらこの作品を鑑賞してみてください。きっとさらなる臨場感を持って楽しむことが出来ますよ。