日本航空倒産!
いまや1マイルも残っていないが、JALのマイレージクラブからメールがきた。会社は更正法を申請する事態となったが、マイレージサービスはじめさまざまなサービスは継続するので安心して利用してほしいという趣旨の内容だった。
日本航空といえば、テレビのニュースのインタビューなどでも伝えられるように、かつては、日本の象徴であり、アジア各国の人たちも、日本航空で旅行したいといわれる憧れの企業だった。経済情勢の変化があるとはいえ、この会社が倒産することになろうとは思いもしないことだった。
リーマンショック、若者の海外旅行離れ、新型インフルエンザなどが今回の倒産の引き金になったと伝えられるが、だとすれば、全日空もあるいは韓国や中国の航空会社も同じようなことになっているはずで、放漫経営以外何者でもないことは明白だと思う。
それでも政権交代がなければ今でも、表ざたにならず、さらに赤字だけが増えていたことと思う。小沢問題でゆれる政界だが、政権が交代したことの一つの成果だろう。
マイルが危ないと多くのマイルを持つ友人たちは、片っ端からマイルの消化を目指して予約を入れているが、なかなか希望便が取れないという。特にビジネスやファーストといった上級クラスの予約は、1年前の予約開始時でもなければ、まず取れないのだという。しかも1年先のことは、いくら大丈夫といわれても、どうなるのかわからない。
国内に98もの空港を作り、政治銘柄で飛行機を飛ばしたことが、赤字を増幅したといわれるが、ナショナルフラッグキャリアをここまで追い込んだ政治家と官僚の責任は思い。一つの企業の倒産にとどまらず、日本の先行きに大いに不安を覚える一大事だという思いを禁じえない。
日本航空といえば、テレビのニュースのインタビューなどでも伝えられるように、かつては、日本の象徴であり、アジア各国の人たちも、日本航空で旅行したいといわれる憧れの企業だった。経済情勢の変化があるとはいえ、この会社が倒産することになろうとは思いもしないことだった。
リーマンショック、若者の海外旅行離れ、新型インフルエンザなどが今回の倒産の引き金になったと伝えられるが、だとすれば、全日空もあるいは韓国や中国の航空会社も同じようなことになっているはずで、放漫経営以外何者でもないことは明白だと思う。
それでも政権交代がなければ今でも、表ざたにならず、さらに赤字だけが増えていたことと思う。小沢問題でゆれる政界だが、政権が交代したことの一つの成果だろう。
マイルが危ないと多くのマイルを持つ友人たちは、片っ端からマイルの消化を目指して予約を入れているが、なかなか希望便が取れないという。特にビジネスやファーストといった上級クラスの予約は、1年前の予約開始時でもなければ、まず取れないのだという。しかも1年先のことは、いくら大丈夫といわれても、どうなるのかわからない。
国内に98もの空港を作り、政治銘柄で飛行機を飛ばしたことが、赤字を増幅したといわれるが、ナショナルフラッグキャリアをここまで追い込んだ政治家と官僚の責任は思い。一つの企業の倒産にとどまらず、日本の先行きに大いに不安を覚える一大事だという思いを禁じえない。
二千円札
平成おじさんこと小渕氏が首相のとき、沖縄サミットを記念して作ったのが二千円札。最近とんと見なくなったことと思う。この二千円札、最近よく手にして、実際によく使うようになった。三千円なら二千円札と千円札の組み合わせで支払うと、実に便利。ただ、お店はあれっという顔をする。この前コンビニで出したら、5千円と間違えてお釣りをくれようとして、こちらで、これは二千円だよといったら、日本人ではない従業員が偽札かとでも言わんばかりにお札をまじまじと。
韓国では、10万ウオン札ができたり、高額紙幣が作られることはあっても、中間の桁のお札が新設されるのは珍しかったこともあるのかもしれないが、こんなに普及しないお札も珍しい。このところ自らよく使うようになって、昨日も仲間内の飲み会で、この紙幣を出したら、しばらくはこの話題で話が盛り上がった。わざわざ交換してくれと、千円札を差し出す人もいた。冗談で二千円札普及協会の会長を名乗った(会員ゼロ)が、しばらく本気で二千円札ばかり使ってやろうと、思い始めた。ところで、二千円札には誰が描かれているか覚えていますか?
韓国では、10万ウオン札ができたり、高額紙幣が作られることはあっても、中間の桁のお札が新設されるのは珍しかったこともあるのかもしれないが、こんなに普及しないお札も珍しい。このところ自らよく使うようになって、昨日も仲間内の飲み会で、この紙幣を出したら、しばらくはこの話題で話が盛り上がった。わざわざ交換してくれと、千円札を差し出す人もいた。冗談で二千円札普及協会の会長を名乗った(会員ゼロ)が、しばらく本気で二千円札ばかり使ってやろうと、思い始めた。ところで、二千円札には誰が描かれているか覚えていますか?
あれから20年
戦争で東西あるいは南北に分断された国家は、ドイツと南北朝鮮。
日本もその危機にあったが、いろんな偶然が重なってそれを免れた。 分断された国家がいかに悲惨な状況に追い込まれたか。現地に行ってみるとよく分かると同時に、日本の幸運が身にしみる。
つい一週間前にも訪れた韓国だが、一昨年の秋に訪れた際に、イムジン川をはさんだ南北朝鮮の緩衝地帯を訪れた。破壊された橋、橋のたもとにうずたかく積まれた家族への思いがこもった千羽鶴、そして警備をする兵士。その一つ一つが緊張感にあふれていた。(写真1,2)。
もう一つ分断された国、ドイツは、両国が壁一つ隔てただけという状況がいっそうの緊張感を感じさせた。
1989年9月に当時の西ベルリンから東ベルリンに入り、その空気の違いに驚き、ブランデンブルグ門の周りを黒い排気ガスを出して走り回るトラバンタに目を奪われた。当時のトラバンタはかつての日本のパブリカを思わせる小さな車で、ボディーは紙でできているといわれたほどのシンプルな車だった。それでも、当時の東ドイツでは、子どもが生まれるとすぐ、その子どもの名前でトラバンタの購入予約をしたという。納車まで30年かかったというからあながち冗談だけではなかったのだろう。
西ベルリンと東ベルリンの間の検問所はカメラを向けるのもはばかられる重苦しい雰囲気が漂っていた。実際、銃と間違われると撃たれるのでカメラはしまっておいた方がいいというアドバイスも受けていた。バスも自家用車も車のタイヤの裏側まで厳密に調べられていて、検問を通過するのに数時間ということもざらだった。もちろん西側の週刊誌や新聞などは見つかれば没収と同時にきついお説教が待っていた。
私は、当時の東ベルリンの日本大使館に勤務する友人が迎えに来てくれたので、そこまで調べられることもなく西側の雑誌も持ったまま、わずかな時間で通過できたが、25マルクを強制両替されて、壁の向こうとこちらのあまりの空気の違い、同じ民族といえど分断された国の緊張感をいやというほど味わった。
ベルリンはもともと一つの都市なので、地下鉄は西から東を通って再び西に走っているが、西ベルリンエリアを通過して東に入ったとたんすべての駅を通過、一か所だけ停車するが真っ暗な中でもちろんドアは開かず、再び西のエリアに入ると何事もなく客扱いをして、車内は賑わいを取り戻す。東西分断という厳しさを身にしみて感じたものだった。
強制両替の25マルクは、同じマルクでも価値は全然違う。西ベルリンでは、ただの紙切れになってしまう。そのため、日本円にして1800円(当時)くらいだったが、東にいるうちに使い切ろうと、案内してくれた友人とビアガーデンに行った。そのビアガーデンでは公務員のサービス??員がいたが、呼びかけにもこたえないほどのそっけなさ。ビールはカウンターにセルフサービスで買いに行くのだが、まずは友人が買ってくれて、費用だけは私が払った。二人分で3マルクだった。
ビールそのものはさすがドイツでおいしく、「もう一杯飲もう」と友人に言うと、「今度はジョッキを差し出すだけだから行ってみて」ということで、私が二つのジョッキを持ってカウンターへ。当然料金も3マルクだろうとそのまま差し出すと、1マルクが戻ってきた。首をかしげながら席に戻ってみると友人が笑っている。「ここは東側の共産圏のエリアなんだよ。だから、ビールジョッキといえども国家のもので、最初の1杯は、そのジョッキのデポジットが入っているのだ」と解説してくれた。飲み終えて、店を出る時にジョッキを戻すと、ちゃんと1マルク戻ってきた。当時のレートで1杯70円ほどだからビールのジョッキ一杯の値段としては破格だが、さらに1マルクが戻ってきて、共産圏の仕組みの一端を見た思いがした。もちろん最後まで店員が近づくこともなく、サービスなどとは無縁の世界だった。
サービスといえば、デパートには、靴下の修理人がいたし、そこで売られる電化製品はすぐ壊れるのだという。それぞれに修理を生業とする人がいるので、壊れた方がいいのだそうだ。そうはいっても、サービスマンという概念はなく、トラバントはいたるところで乗り捨てられている。個別の修理はできても、部品を在庫するというようなサービスはないのだという。よく分からなくなったが、それが東側の制度ということを身にしみて感じたものだった。
東ベルリンの駅や街角では、西側の人間と分かるのか、さまざまな人が好奇の目で見るばかりか、ドルとの交換を言い寄ってきた。友人は「絶対に応じてはいけない」言い、下手に応じると「検挙されて出られなくなる」といつになく強い口調で言われ、それが脅しではないことは十分理解できた。
夜、西ベルリンのホテルで書いた日本の友人に送った絵葉書には、東ドイツというか、西側とのあまりの違いをつづるとともに、何か雰囲気がおかしい、こんな格差を受け入れられないだろうし、ドルをほしがる人たちの数の異常な多さと、ものすごい閉塞感は、壁を乗り越えようとしているパワーなのではないかと確かに書いていた。
それから1ヵ月半、ハプニングだったといわれるが、11月9日に壁が崩壊し、一気に西と東が一体化してしまった。おそらく私が感じたパワーが、わずかな手違いでも見逃さず、大きなうねりになって崩壊につながったのだろうと、直前の空気に触れたものとしては、思わず納得したものだった。20年経っても西ドイツには重荷になっているという統合だが、少なくとも人の心は変わったのだろう、緊張は解けたのだろうと思っている。
いま、ベルリンの空港にはルフトハンザが我がもの顔で飛んでいるが、当時の西ベルリンのテーゲル空港には、英、仏、米の航空会社しか入れず、そこでも戦争の影を感じたものだった。パリからエールフランスでベルリン、ベルリンから英国航空でロンドンと回ったが、そんな航空券を買う日本人もさすがに少なかったのだろう、発売されたばかりのパスポートサイズのビデオカメラはどこの空港でも厳重にチェックされた。
帰国後1ヵ月半で起こったこの世紀の出来事に、私が少し前にベルリンにいたことを知っている上司や仲間は、ジャーナリストの端くれなら、なぜもう少しそこにいなかったのだ。誰もが簡単に入れるところではないところにいながら、まして、雰囲気がおかしいと絵葉書まで送っていながらなぜ、しばらく現地にいなかったのだと冷やかした。現実には、そんな長期休暇が取れるはずはないが、個人的に今でも悔やまれるシチュエーションではあった。あれから20年。早いものだ。
日本もその危機にあったが、いろんな偶然が重なってそれを免れた。 分断された国家がいかに悲惨な状況に追い込まれたか。現地に行ってみるとよく分かると同時に、日本の幸運が身にしみる。
つい一週間前にも訪れた韓国だが、一昨年の秋に訪れた際に、イムジン川をはさんだ南北朝鮮の緩衝地帯を訪れた。破壊された橋、橋のたもとにうずたかく積まれた家族への思いがこもった千羽鶴、そして警備をする兵士。その一つ一つが緊張感にあふれていた。(写真1,2)。
もう一つ分断された国、ドイツは、両国が壁一つ隔てただけという状況がいっそうの緊張感を感じさせた。
1989年9月に当時の西ベルリンから東ベルリンに入り、その空気の違いに驚き、ブランデンブルグ門の周りを黒い排気ガスを出して走り回るトラバンタに目を奪われた。当時のトラバンタはかつての日本のパブリカを思わせる小さな車で、ボディーは紙でできているといわれたほどのシンプルな車だった。それでも、当時の東ドイツでは、子どもが生まれるとすぐ、その子どもの名前でトラバンタの購入予約をしたという。納車まで30年かかったというからあながち冗談だけではなかったのだろう。
西ベルリンと東ベルリンの間の検問所はカメラを向けるのもはばかられる重苦しい雰囲気が漂っていた。実際、銃と間違われると撃たれるのでカメラはしまっておいた方がいいというアドバイスも受けていた。バスも自家用車も車のタイヤの裏側まで厳密に調べられていて、検問を通過するのに数時間ということもざらだった。もちろん西側の週刊誌や新聞などは見つかれば没収と同時にきついお説教が待っていた。
私は、当時の東ベルリンの日本大使館に勤務する友人が迎えに来てくれたので、そこまで調べられることもなく西側の雑誌も持ったまま、わずかな時間で通過できたが、25マルクを強制両替されて、壁の向こうとこちらのあまりの空気の違い、同じ民族といえど分断された国の緊張感をいやというほど味わった。
ベルリンはもともと一つの都市なので、地下鉄は西から東を通って再び西に走っているが、西ベルリンエリアを通過して東に入ったとたんすべての駅を通過、一か所だけ停車するが真っ暗な中でもちろんドアは開かず、再び西のエリアに入ると何事もなく客扱いをして、車内は賑わいを取り戻す。東西分断という厳しさを身にしみて感じたものだった。
強制両替の25マルクは、同じマルクでも価値は全然違う。西ベルリンでは、ただの紙切れになってしまう。そのため、日本円にして1800円(当時)くらいだったが、東にいるうちに使い切ろうと、案内してくれた友人とビアガーデンに行った。そのビアガーデンでは公務員のサービス??員がいたが、呼びかけにもこたえないほどのそっけなさ。ビールはカウンターにセルフサービスで買いに行くのだが、まずは友人が買ってくれて、費用だけは私が払った。二人分で3マルクだった。
ビールそのものはさすがドイツでおいしく、「もう一杯飲もう」と友人に言うと、「今度はジョッキを差し出すだけだから行ってみて」ということで、私が二つのジョッキを持ってカウンターへ。当然料金も3マルクだろうとそのまま差し出すと、1マルクが戻ってきた。首をかしげながら席に戻ってみると友人が笑っている。「ここは東側の共産圏のエリアなんだよ。だから、ビールジョッキといえども国家のもので、最初の1杯は、そのジョッキのデポジットが入っているのだ」と解説してくれた。飲み終えて、店を出る時にジョッキを戻すと、ちゃんと1マルク戻ってきた。当時のレートで1杯70円ほどだからビールのジョッキ一杯の値段としては破格だが、さらに1マルクが戻ってきて、共産圏の仕組みの一端を見た思いがした。もちろん最後まで店員が近づくこともなく、サービスなどとは無縁の世界だった。
サービスといえば、デパートには、靴下の修理人がいたし、そこで売られる電化製品はすぐ壊れるのだという。それぞれに修理を生業とする人がいるので、壊れた方がいいのだそうだ。そうはいっても、サービスマンという概念はなく、トラバントはいたるところで乗り捨てられている。個別の修理はできても、部品を在庫するというようなサービスはないのだという。よく分からなくなったが、それが東側の制度ということを身にしみて感じたものだった。
東ベルリンの駅や街角では、西側の人間と分かるのか、さまざまな人が好奇の目で見るばかりか、ドルとの交換を言い寄ってきた。友人は「絶対に応じてはいけない」言い、下手に応じると「検挙されて出られなくなる」といつになく強い口調で言われ、それが脅しではないことは十分理解できた。
夜、西ベルリンのホテルで書いた日本の友人に送った絵葉書には、東ドイツというか、西側とのあまりの違いをつづるとともに、何か雰囲気がおかしい、こんな格差を受け入れられないだろうし、ドルをほしがる人たちの数の異常な多さと、ものすごい閉塞感は、壁を乗り越えようとしているパワーなのではないかと確かに書いていた。
それから1ヵ月半、ハプニングだったといわれるが、11月9日に壁が崩壊し、一気に西と東が一体化してしまった。おそらく私が感じたパワーが、わずかな手違いでも見逃さず、大きなうねりになって崩壊につながったのだろうと、直前の空気に触れたものとしては、思わず納得したものだった。20年経っても西ドイツには重荷になっているという統合だが、少なくとも人の心は変わったのだろう、緊張は解けたのだろうと思っている。
いま、ベルリンの空港にはルフトハンザが我がもの顔で飛んでいるが、当時の西ベルリンのテーゲル空港には、英、仏、米の航空会社しか入れず、そこでも戦争の影を感じたものだった。パリからエールフランスでベルリン、ベルリンから英国航空でロンドンと回ったが、そんな航空券を買う日本人もさすがに少なかったのだろう、発売されたばかりのパスポートサイズのビデオカメラはどこの空港でも厳重にチェックされた。
帰国後1ヵ月半で起こったこの世紀の出来事に、私が少し前にベルリンにいたことを知っている上司や仲間は、ジャーナリストの端くれなら、なぜもう少しそこにいなかったのだ。誰もが簡単に入れるところではないところにいながら、まして、雰囲気がおかしいと絵葉書まで送っていながらなぜ、しばらく現地にいなかったのだと冷やかした。現実には、そんな長期休暇が取れるはずはないが、個人的に今でも悔やまれるシチュエーションではあった。あれから20年。早いものだ。