明治の新しい国づくり | 6年担任のための歴史学習

6年担任のための歴史学習

教科書だけでは分からない小学生のための歴史を解説しています。
もちろん、どなたでも閲覧ください。

 

 

 近代になってきましたね。幕末は激動です。教科書では、あまりにもサラッといってしまいます。

短い割には大事なことがたくさんあり、まとめるのが難しいです。

 

 長らく鎖国を続けてきた日本に、とうとう外国船がやってきます。今までのまったりした考えでは、やられてしまうようです。

リアリストで先進性を持った、リーダーが必要です。現代においてもそうですね。

さて、そんなリーダーは現れるのでしょうか。

 

 江戸時代から新しい時代へ

 

 以前から、ロシア船が日本近海に出没し始めていましたが、その30年後にはロシア船・イギリス船・アメリカ船が次々と来航し、幕府に通商を要求するようになりました。家光が、鎖国令を出した頃の日本は、ヨーロッパの国々でも容易に手を出せない国力を持っていましたが、150年という月日は、力関係に大きな変化を与えていました。

 特に、大きかったのが蒸気汽関の発達です。オランダ以外のヨーロッパ船が日本に通商を求めてきたのは、ロシア船が最初でしたが、これは松前藩が拒否しました。しかし、14年後ロシア遣日使節が根室にやってきて、再び通商を求めると、幕府は長崎への入港の許可証を与えて、退去させます。12年後、ロシアは今度は長崎に来航して、通商を求めます。

 しかし、幕府は半年以上も回答を引き伸ばした末、翌年拒否しました。これに怒ったロシアは、樺太や択捉島で略奪や放火を行います。また、日本に来航したのはロシア船だけではなく、室蘭にイギリス船が来航して港の水深を測ったり、長崎にアメリカ船が来航して通商を求めたりしています。

 

 こうして次第に外国から迫られている中、フェートン号事件が起きます。イギリスの軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて、長崎に入港し同国人と思って出迎えたオランダ商館員を拉致しました。長崎奉行はイギリス側に対して、オランダ人を解放するように求めましたが、イギリス側はそれには応じず、水と食料を要求しました。この事件の背景には、オランダとイギリスの敵対関係がありました。(巻き込まれ)

 事件の収拾を目指す奉行は、佐賀藩に対しフェートン号を拿捕、あるいは焼き討ちにするよう命じます。ところが、太平の世になれきっていた佐賀藩は、経費節減のために守備兵力を1割に減らしていました。よって、奉行は近隣の藩に援助を要請しました。イギリス側は、人質を1人を解放し、改めて薪・水・食料を要求すると同時に、拒否すれば港内の和船を焼き払うと恫喝してきました。やむなく食料や水を提供、オランダ商館から豚と牛もイギリス船に送ると、要求を満たしてイギリス船は残る人質を解放して、出港しました。

 翌日になってようやく大村藩から、兵隊が長崎に駆けつけましたが、フェートン号はすでに去った後でした。事件後、長崎奉行は国威をはずかしめたとして、自ら切腹、佐賀藩の家老数人も切腹しました。

 幕府は、イギリスとロシアを危険な国と認識し、それまでの「薪水給与令」(薪と水が不足した異国船に、それらを与えて追い払う)を廃止し、「異国船打ち払い令」を出すに至ります。これは、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第攻撃し、また上陸する外国人は逮捕するというものでした。幕府は、外国船など威嚇すれば、逃げていくだろうと高をくくっていました。しかし、200年近くも前に鎖国令を出した時と違って、ヨーロッパとの国力差が逆転していることを認識していなかったのです。ところが、アヘン戦争で清帝国がイギリスに負けたことを知った幕府は、初めて彼らの強さを認識しました。すると、途端にヨーロッパ列強に怯え、同年それまでの異国船打ち払い令を廃止し、遭難した船に限り給与を認める薪水給与令を再び発令しました。

 

 

 黒船の来航と開国

 黒船は、いきなりやって来たわけではありませんでした。

次々と外国船が日本へやってくる中、イギリス船が八重山諸島を調査・測量するという事件が起きました。オランダ国王が、幕府に対して、開国するよう手紙をよこします。「このまま鎖国を続けていると、アヘン戦争で敗れた清の二の舞になるかもしれない」と、わざわざ忠告してくれたのです。にもかかわらず、幕府は翌年オランダ国王に対して、申し出を断る返事を送りました。

 同年、フランスが那覇に入港して、貿易とキリスト教の布教許可を求めてきました。以後、ほぼ毎年のようにヨーロッパやアメリカの船が来航し、日本に対して通商を求めてくるようになったのです。

 5年後、アメリカの小型帆走船に乗ったジェームス・グリンは長崎に入港し、日本で監禁されていたアメリカ船(蝦夷地で難破した捕鯨船の乗組員)の引き渡しを要求する事件が起きました。グリンは、船員を解放しなければ、アメリカによる軍事介入の可能性があるとほのめかしました。幕府はその脅しに屈した形で、船員全員を釈放します。グリンは帰国後、アメリカ政府に対し、「日本を外交交渉によって開国させること」と「必要であれば武力を見せるべき」との建議を提出しました。これによって、アメリカは日本を武力で脅して開国させる方針を決めたと言われています。

 

 

 オランダ商館長は、1年後にアメリカ艦隊が開国要求のために日本にやってくるという情報を幕府に伝えます。幕府は、その時にどう対応するかを議論したものの結論を出せずじまいでした。1年後、とうとうペリー率いるアメリカの軍艦4隻が浦賀にやってきました。そして、武力行使をほのめかし開国を要求します。この時、幕府は慌てふためくばかりでした。というのも、何の準備も用意していなかったからです。(今の政治家に似ていますね)

 アメリカが、日本に開国を求めた理由は日本が捕鯨船の寄港地として最適だったからです。当時捕鯨は、アメリカの重要な産業の1つでしたが、捕鯨船は1年以上の航海を行うため、大量の薪や水や食料入手できる補給拠点や難破したときのための避難港が必要だったのです。捕鯨の目的はランプの燃料となるクジラの油を取る事でした。当時まだ石油は使われていませんでした。(鯨の愛護団体がアメリカにありますが、どの口が言うてんのじゃ!!と言いたくなります。)また、米清貿易の寄港地が欲しかったという理由もありました。

 ペリーは、日本に来る1年前、日本遠征の基本計画に「日本人は蒸気船を見れば近代国家の軍事力を認識するはず」「中国人に対してしたのと同じように恐怖に訴える方がである」とあります。まさに、舐められていたのです。しかし、これが外交です。この時、アメリカ艦隊はいつでも戦闘開始できる状態でした。ペリーは日本遠征が決まった時から、たくさん本を読み、日本人の性質を徹底的に研究していました。

 

 そして、日本は日米和親条約日米修好通商条約を結んでしまいます。日米修好通商条約は、「アメリカの領事裁判権を認めること」と「関税自主権がないこと」が含まれていました。こんな不利な条件をなぜ呑んだのかと言えば、幕府の無知が大きくあったようです。領事裁判権は、アメリカ人が日本で罪を犯しても、日本人が裁くことができないというものです。これについては、日本側はアメリカ人を裁く手間が省けるとむしろ歓迎していたとも言われています。

 関税自主権については、関税率が輸入品には平均20%輸出品には5%というものでした。輸出品の関税が低かったのは、アメリカが日本の生糸を大量に買いたかったからです。その結果、条約締結以降、国内の生糸価格が高騰します。また、その後列強が難癖をつけて、輸入関税を5%に下げさせたため、外国から安価な綿織物が大量に入ってきて、国内の綿織物産業が大打撃を受ける事態に陥っています。関税の重要性を理解していなかったのです。

 また、開国した途端、日本に来た外国人が銀を金に変えて持ち帰るという事態も起きました。世界では、銀の価格が急落していましたが、幕府は長年の鎖国でそのことを知らず、外国人にその虚をつかれて、大量の金が日本から持ち去られたのでした。こうして、国外に流出した金はわずか半年の間に10万両と言われています。

同じ年、幕府はアメリカと結んだ平等条約とほぼ同じ内容の条約を、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結んでしまいました。

 

 江戸幕府の政治のおとろえ

 

 徳川家は、家斉の子の家慶が12代将軍となっていました。家慶は、政治への関心が薄く、趣味に没頭し、家臣の意見を聞いても「そうせい」というのが口癖だったため影では「そうせい様」と呼ばれていました。しかし、アメリカ艦隊が去った10日後、将軍家慶が亡くなります。

 そして、息子の家定が29歳で跡を継ぎ13代将軍となりました。前将軍の家慶は、14男13女をもうけましたが、成人まで生き残ったのは家定のみでした。そして、家定も幼少から病弱な上に、言葉が不自由でした。体にも麻痺があり、気に入らないことがあると、すぐに泣くような人物でした。江戸幕府を揺るがす大事件の最中に、将軍が死去するという巡り合わせもさることながら、後を継いだ将軍が心身ともに脆弱な人物であったこともまた幕府にとっての大きな不運だったと言えるでしょう。

 

 また、江戸に大地震が起こります。死者は1万人にのぼり、江戸城も大きな被害を受けました。前年から翌年にかけて全国各地で何度も大地震が起きました。もう、日本はボロボロです(涙)

 

 ここで、不幸中の美談を1つ。

ロシアと日露和親条約を締結している頃、この大地震が起きました。ロシア一行が訪れた下田の町は、津波で壊滅状態となり、停泊していたロシアの黒船も壊れ、ロシア一行も行き場を失いました。この時、ともに被災した伊豆の人々とロシアの乗組員は協力して被災者救助に当たります。この後、日本側がロシア側に帰国のための新しい船を造って、寄贈しようということになります。彼は幕府に掛け合い、腕利きの職人や資材を伊豆に集めて、ロシアの乗組員と共に協力し、日本史上初の西洋式帆船を完成させたのです。(☆また、この条約で北方領土が日本領であることが確認されています。)

 それから160年後、日本を訪れたロシアのプーチン大統領に安倍首相が1枚の絵を送りました。両国の先人のの親善と協力の美談とともに、北方領土の帰属を決めた歴史を思い起こそうというメッセージが込められていました。安倍首相は、知識人であるとともに粋なことをしますね。

 

 

 また、この頃、毎年のように不作が続き、大飢饉も起こりました。この大飢饉は6年も続き、その間に日本の人口は全体の4%近い125万人以上減少したと言われています。大坂でも、連日150〜200人の飢餓者が出たといわれている年に、儒学者の大塩平八郎は私財をなげうって、民衆の救済活動を行っていました。しかし、一向に根本的な解決誘を取らない幕府の怠慢と米を買い占める豪商に対して怒りを爆発させ、ついに民衆とともに乱を起こします。しかし、密告者のせいでその日のうちに鎮圧されてしまいました。

 

 

 またまた、徳川家は日米修好通商条約が結ばれた1ヵ月後、将軍家定が34歳で亡くなり、家定の養子で12歳の家茂が14代将軍となりました。家茂は将軍となったものの、政治の実権は大老の井伊直弼が握っていました。直弼は天皇の許しを得ずに、アメリカと通商条約を結んだ人物です。直弼のやり方に不満を持った藩主らが、抗議するためにいきなり江戸城に向かいました。直弼はこれに怒り、謹慎等の処分を下しました。これがきっかけとなり、最終的に8人を死罪、70人以上を遠島や追放しました。松下村塾で多くの俊秀を育てた吉田松陰もこの時処刑されています。そんな井伊直弼は、彦根から江戸城へ向かうところで襲撃され、殺されました。(桜田門外の変

 

 将軍がいる江戸城の前で暗殺が起き、幕府は緊迫しました。早急に幕府の威信を回復させなくてはならないと考え、同時に反幕の矛先を和らげるため、天皇の妹である和宮内親子内親王に嫁がせるという策を出しました。この時、和宮は婚約が決まっていたため、最初は拒絶しますが、幕府は攘夷(外国を撃退して鎖国を通すこと)を実行するからという、実現不可能な約束をして、家茂と和宮の婚儀が行われます。しかしこの婚儀は、尊王攘夷論者から非難を浴び、再び江戸城のすぐそばで、暗殺が起こってしまいます。幕府の権威はさらに失墜してしまします。

 

 尊王攘夷派の武士たちの非難は、京都で「天誅」と称してテロリスト化し、幕府を支持する武士たちの暗殺が横行しました。このテロリスト達の取り締まりに当たった会津藩は、新撰組を組織し、対応に当たりました。また、天皇の主導によって外国と戦争を行おうとする過激派の公家が京都から追放され、彼らを支援していた長州藩も同時に京都から追われました。さらに、新撰組が長州藩の大物武士を何人も殺しました。

 

 またこの頃、生麦事件が起こります。薩摩藩の行列の前を通って、列を混乱させたイギリス人の一行を殺傷する事件が起きました。この生麦事件の報復のために、イギリス艦隊が鹿児島を襲撃し、薩英戦争が起こりました。イギリス軍の攻撃によって、鹿児島市内の1割が焼かれます。しかし、薩摩藩士は善戦し、イギリス軍は撤退します。この戦闘では、イギリス軍の方が多くの死傷者を出しました。最終的には、薩摩藩が幕府から金を借りてイギリスに賠償金を支払って、講和することにはなりましたが、当時西洋の国々は薩摩藩の強さに驚きました。ニューヨーク・タイムズ紙が日本の勇敢さと強さを称え、彼らを侮ってはいけないと書いたほどです。この戦いで、薩摩とイギリスの双方が相手の優秀さを認め合い、以後急速に接近していきます。

 

 一方、同年長州藩の攘夷派は、幕府が朝廷に攘夷決行を約束したことを受けて、馬関海峡を通るアメリカ商船を攻撃しました。逃げていくアメリカ商船を見て、攘夷派の意気は大いに上がり、その後フランス軍艦オランダ軍艦をも攻撃しました。しかし、翌月アメリカ軍艦が報復に来て、長州の軍艦を撃沈し、下関港を攻撃します。さらに、翌年イギリス(9隻)フランス(3隻)オランダ(4隻)アメリカ(1隻)の四国艦隊が、前年の攻撃の報復と航行の安全確保のために、再度下関の砲台を攻撃しました。長州藩は、4日で砲門を占拠され、すべての砲門を奪われます。

 

 西洋諸国との戦闘によって、薩摩藩も長州藩も近代装備の威力を知ります。薩摩藩は、和議を結んだイギリスから近代的な兵器を買い入れ、長州藩もそれまでの攘夷の方針を変更して、イギリスに接近していきます。

 長州藩は、イギリスの要求(新たな砲台建設の禁止)(3百万ドルの賠償金)(馬関海峡を通る外国船に薪水提供)等をほぼ全面的にのまされましたが、彦島租借(領土を一定期間統治されること)に関しては断固拒否しました。この時、長州藩は脱藩の罪で謹慎処分になっていた高杉晋作(吉田松陰の門下生)を赦免して、イギリスとの講和を一任していました。高杉は日本の領土をイギリスに渡せば、第二の香港になると考えたようでした。高杉は2年前に上海に渡航しており、イギリスの租借地で「犬と中国人立ち入り禁止」と書かれた看板を見て、激怒したと言われています。高杉はこの時、24歳だったそうです。

 

 日本中が「攘夷だ」「開国だ」と揺れている時、佐賀藩主、鍋島直正は近代化を見据えていました。15歳の若さで藩主となった直正は、産業振興に力を注ぎ、農民には小作料の支払いを免除して、農村を復興させました。また、人材育成に力を注ぎ、有能な者を積極的に登用しました。そして、鋳造や鍛治の優れた職人を集め、強い鉄を作るために必要な反射炉をつくりました。これは何度も失敗を繰り返し、成功するまでやり抜き、苦労の末、西洋の最新式大砲であるアームストロング砲を日本人だけの手で完成させたのです。佐賀藩と言えば、フェートン号事件の際、イギリス船にあしらわれ、藩の家老が何人も切腹させられたという屈辱的な歴史があります。直正は、西洋に対抗するには近代的な科学技術が不可欠だと考えたのでしょう。さらに、佐賀藩は、日本で初の蒸気船を完成させました。実際の蒸気船の構造を見たこともないのに、本と図面だけで同じものを作りげたのです。

 この時、大きな働きをしたのが「カラクリ儀右衛門」の異名を持つ田中儀右衛門でした。田中は、非常に高度なテクノロジーを用いたからくり人形を作って、全国で興行して人気を博した発明家であり興行師でもありました。しかし、50代の時に佐賀に家を移し、鍋島直正の精錬所に入りました。田中はそこで、蒸気機関車と蒸気船の模型を作り、反射炉や大砲の製造にも大きな役割を果たしました。この田中は、明治になって東京に移り住み、75歳の時に工場兼店舗を構えますが、これが後に東京芝浦電機株式会社を経て、現在の株式会社東芝になりました。

 

 同時代の薩摩藩主、島津斉彬もまた、直正と同じく近代化を目指した人でした。薩摩藩も何度も失敗を繰り返し、苦労の末に西洋式軍艦を建造し、さらに佐賀藩に先駆けて日本初の蒸気船を建造しました。これは、ジョン万次郎の知識を元に作られたものでした。後の薩英戦争で、イギリス軍も苦しめました。(また、島津斉彬が日本の国旗に日の丸を提案したと言われている

 

 宇和島藩主の伊達宗城も蒸気船の建造に成功していますが、これを作ったのは仏壇職人でちょうちん家の前原嘉蔵という男でした。宗城に蒸気船を作れと命じられ、困り果てた末に器用だと言う評判だけで連れてこられた職人だったのです。ところが、その嘉蔵が翻訳されたオランダの本と図面だけを見て不眠不休で蒸気汽関の模型をつくりあげたのです。これらの3つの藩は、最新式の動熱機関を備えた船を、見様見真似で、またたくまに同じものをつくりあげたのでした。しかも、欧米人の協力も援助もなく、それぞれ独自の研究と工夫によって完成させたのです。

 

 

 また、この頃欧米列強は、どさくさに紛れて、関税の低額を要求します。しかし、朝廷の許しがなかったため、「許しが得られなければ、直接朝廷と交渉する。」と告げる列強に対し、それだけは避けたい慶喜は天皇を説得し、条約の許しを取り付けました。このことに、薩摩藩は怒り、討幕の意思を固めます。

 以前から、政権交代を目論んでいた土佐藩の脱藩浪人、坂本龍馬は、今こそ長州藩と薩摩藩が手を握るべきと考えました。しかし、長州藩は薩摩藩と会津藩に多くの藩士を討たれた上に、京都から追い出されたこともあり、両藩には深い恨みを抱いていました。長州藩士のげたの裏には、「討薩賊会奸」(薩摩の賊と会津の奸物を討つ)と書いて恨みを忘れずにいたほどでした。

 しかし、日本ではじめての貿易商社とも言える亀山社中を作った龍馬は、外国との取引を禁じられていた長州藩に、薩摩藩名義で購入した最新式の西洋の武器を売るという奇策を講じて、両藩を近づけます。そして、自らが仲介役となって薩摩藩と長州藩の同盟を成立させました。

 坂本龍馬は、武力による討幕には反対でした。それは、龍馬の師匠である勝海舟の考えでもあり、徳川家では日本は持ちこたえられないと考えており、幕府が政権を朝廷に譲り、国政は徳川家と有力な藩で行うことを目論んでいました。武力倒幕に反対していたのは、それによって内戦に陥り、日本全体が疲弊してしまうことを恐れたからでした。東南アジア各地で西洋の干渉によって内乱が生じ、地域全体が弱体化したときにあっさりと植民地化されていた事実を知っていたのです。

 

(勝海舟)         (坂本龍馬)

 

 しかし、薩摩藩は徳川慶喜が長州の処分を推し進めていたため、不満を持ち武力による討幕を強く望んでいました。西郷隆盛は、幕府を挑発するために江戸市中でテロ活動を行わせ、また、江戸城西の丸を放火しました。そのことで、幕府がついに討伐を決定し、戦に持ち込まれました。薩摩藩中心の新政府軍約5000人に対し旧幕府軍は約1万5000人と言う兵力差でした。

 

 薩摩藩は、実は徳川慶喜との対決の前に、朝廷で会議を開き、慶喜の武装上洛を止めると言う決定を取り付けていました。戦いは、慶喜が戦に長けていなかったため、新政府軍が上々でした。そして、2日目新政府軍は朝敵を討つときの旗印である「錦の御旗」を掲げました。すると、多くの藩が朝敵となることを恐れ、次々に新政府軍に加わりました。それどころか旧政府軍から新政府軍に寝返る藩もありました。平安時代の終わりに平家が実権を握って以来約700年間も政権から離れていた天皇でしたが、その象徴である錦の御旗が上がった途端、旧幕府軍の武士たちを一瞬のうちに慄かせたのです。それでも士気を下げず戦おうとする旧幕府軍の藩もありましたが、慶喜は大阪城を脱出し、江戸へ逃げ帰りました。これで、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍は、徳川慶喜追討令を出し、攻撃目標を江戸と定め、軍を組織しました。

 

 

 これに対して、旧幕府側は新政府軍に従うか、徹底交戦するかで意見が割れますが、慶喜は幕府の海軍責任者であるの勝海舟の「従う」という意見を取り入れます。勝は、日本の国力が大いに損われることを恐れていました。慶喜から全権を任された勝は、総攻撃の二日前、薩摩藩邸に乗り込み、西郷と面談をします。そして、勝は攻撃予定日の前日、ついに西郷を説得し、戦いを回避することに成功しました。有名な「江戸無血開城」です。

 

 豊かな強い国をめざして

 

 明治政府は、岩倉具視使節団を2年間アメリカ・ヨーロッパに送ります。(大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・山口尚芳

 一行は、ドイツの政治家ビスマルクに会っています。ビスマルクは、一行に「あなたたちは国際法の導入を議論しているようだが、弱い国がこれを導入したからといって、権利は守られない。だから、日本は強くなる必要がある。」また「大国は自国に利益があると見れば、国際法を守るが、不利となればそれを破って、武力にものを言わせる。」と語ったそうです。これが、この時代の国際間のルールでした。一行は大きな衝撃を受け、富国強兵の考えが深く刻まれたようでした。(今もそうかもしれませんね。)

 

 使節団が、アメリカに行くのは初めてではなく、10年前にも一行が日米修好通商条約の確認のため公式訪問しています。この時のお話をしますと、総勢173人で、メンバーには小栗忠順、勝海遊、福沢諭吉、ジョン万次郎がいました。一行は、ワシントンの海軍工場に案内され、その巨大さに衝撃を受けます。小栗忠順は、今更ながらに攘夷の愚かさを認識しました。そして、アメリカの技術を取り入れることを心に誓ったのです。この時、小栗は1本のネジを土産に持ち帰っています。このネジは、群馬県にある東善寺に今も大切に保管されています。また、小栗も小判とドル金貨の交換比率を定める交渉で計算の速さと精密さでアメリカ人を驚かせました。

 

 

 この一行の中にいたジョン万次郎と言う人はとても面白い運命をたどった人物です。彼は貧しい漁師の家に生まれ、また幼くして父を亡くしていたため、寺子屋にも通えず読み書きも出来ませんでした。14歳の時、乗り込んだ漁船が難破して、仲間4人と共に無人島に漂着します。そこで幸運にも、アメリカの捕鯨船に助けられますが、当時海外に出た日本人は帰国すれば処刑されてしまうため、船長はハワイに降ろそうとしました。しかし、万次郎は仲間と離れて、ただ1人捕鯨船として船に残ることを希望します。万次郎は船の中で見た世界地図で日本の小ささを知り衝撃を受けていたのです。

 同年、帰国した後、その船長の養子となります。そこから高等教育に通い、数学や造船技術などを学びます。万次郎はその学校を首席で卒業しています。そして、普通10年かかると言われた一等航海士にわずか3年で選任されました。23歳の時、日本に帰ることを決意し、サンフランシスコの金鉱で金の採掘をします。その資金をもとに、上海行きの船に乗り、途中かつてハワイで別れた漁師仲間と再開して、彼らをも帰国の船に乗せます。

 万次郎は仲間とともに琉球に上陸しました。すぐに鹿児島へ送られて、薩摩藩による取り調べを受けますが、藩主島津斉彬が万次郎の語るアメリカの話に真剣に耳を傾けたのでした。黒船来航によって慌てふためいていた幕府は、アメリカの情報を得るために万次郎を江戸に招き、旗本の身分を与えます。しかし、スパイ疑惑を持ち出され、通訳の役目から外されました。もし、万次郎が交渉で重要な役目を負っていたなら、日米修好通商条約の中身は相当変わっていたと思われます。この頃、勝海舟も万次郎からアメリカ文化を学んでいます。坂本龍馬も万次郎の世界観に大きな影響を受けたと言われています。

 

 

 また、小栗の先見性は凄まじく功績はたくさんあるのですが、フランスの助力を得て、製鉄所の建設を計画しました。幕閣からは反対されますが、将軍家茂の承諾を得て、横須賀製鉄所の建設を開始します。これは、単なる製鉄所ではなく、造船所とドック(船の建造や修理のための施設)が一体となったものとして計画されました。その意味で送りは日本海軍の礎を築いた人物と言えるでしょう。この造船所は、7年後の日本海海戦で大変役立ち、東郷平八郎は遺族を招き、感謝の言葉を述べています。

 

 もう一人、日本の偉人として水野忠徳がいます。

水野は、小笠原諸島を守った人物です。江戸幕府は小笠原諸島の存在と位置も把握していましたが、江戸から1000キロも離れているため、管理することができず、長らく無人のまま放置していました。ところが、イギリスの捕鯨船の乗組員2人が住み着き、またアメリカ人ら20数人が移住しました。アメリカとイギリスが諸島の領有権を主張し、両国は領有権で衝突します。この時、小笠原諸島の領有権確保のため現地に赴いてのが水野でした。彼は、島々の測量等の調査を行うと、欧米系の島民に対して、彼らの保護を約束して、日本の領土であることを承認させます。一方、アメリカとイギリスに対して小笠原諸島の領有権が日本にあることを認めさせたのです。この時通訳をしたのは、ジョン万次郎でした。今日、日本の広大な排他的経済水域の約3分の1は小笠原諸島を中心とする海です。水野は領土・領海の持つ価値と重要性を十分に理解していたのです。

 

 

 

 文明開花とくらしの変化

 日本は幕末から凄まじい勢いで、近代化へ突き進んでいましたが、それは明治に入っていっそう加速しました。明治5年に日本初の鉄道が新橋ー横浜間で開通しました。鉄道計画が始まったのは明治2年、測量が始まったのは明治3年、そこからわずか2年半で最初の鉄道開通させたのです。また、同年群馬県富岡で日本初の機械製糸場である富岡製糸場が操業を開始しました。翌年、ウィーン万国博覧会に日本は富岡製糸場のキットを出品し、本場イタリア式製糸に遜色ない優秀品と証明され、見事に第二等進歩賞を受賞しています。

 

 

 

 

長い江戸時代が幕を閉じました。

坂本龍馬や勝海舟など幕末に日本を守るために、尽力した人たちがいたんですね。

また、名は多くに知られなくても懸命に知恵を絞られた先人がいることに敬意を示したいです。