江戸の社会と文化・学問 | 6年担任のための歴史学習

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江戸時代は、文化もそうですが学問が本当に発展しましたね。

江戸の庶民が数学好きだったとは、面白いですね。

 

 

 江戸の町のようす

 

 江戸時代初期まで、日本は金銀の世界有数の産出国でした。その豊かな財力で、江戸の町の整備にとどまらず、全国の街道と河川などの公共工事が盛んに行われました。しかし、火事による江戸城の再建や町の復興などによる支出のせいで、中期以降財源が苦しくなります。そこで、幕府は貨幣の金銀含有量を減らす改鋳(改訂した貨幣を改めて流通させること)を行います。これにより、貨幣の価値は変わらないまま多くの貨幣が出回ったため、インフレ(一定期間、物価の水準が上昇し続けること)にはなったものの、景気は良くなりました。金融緩和政策ですね。

この好景気を背景にして、様々な娯楽や文化が生まれました。やはり、心にゆとりがないと良い文化は生まれませんね。

 

また、参勤交代でに伴って、街道が整えられましたが、東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中は幕府が直轄し、整備しました。面白い話があります↓

 

 

 

 

また、上下水道が整備されます。ヨーロッパと比べて、上下水道は格段に整備が進んでいたようですね。

香水文化があるのも、その匂いを消すためだとか。

 

 

 

 

また、外食産業も繁栄し、江戸時代後期には料理店のガイド本も多数出版されたそうです。料理店の番付けが書かれたものもあったそうです。

 

 盛んになった産業

 

 元福岡藩主の宮崎安貞による「農業全書」には、経験と見聞を基にした科学的検知から、農業の仕事や作物の栽培法が書かれています。また、干拓(水中に堤防を作り、その堤防内の水を抜いて、土地を干し上げること)などの事業によって、農地が拡大しました。農機具の発達や肥料の改良により、農作物の収穫量が飛躍的に向上しました。土地ごとの特産物も多く作られ、貨幣経済が進みました。

 

 元は囲碁の家元であった渋川晴海は、誤差が生じていた当時の暦を見直し、天体を観測して新しい暦を作りました。

数学も発展し、6代将軍徳川家宣に仕えた関孝和は、世界で最も早く行列式の概念を提案しました。また、エイトケンΔ(デルタ)2乗加速法という計算法を用いて、円周率を小数点第16位まで正確に求めています。これは、ヨーロッパで再発見されたのが、1876年ですから200年以上も先取りしたことになります。

 

 江戸時代の庶民は、数学好きで吉田光由が著した「塵劫記」(じんこうき)は、面積の求め方やピタゴラスの定理まで書かれた数学の本ですが、これが江戸時代を通して、ベストセラーかつロングセラーとなっているのです。(関孝和もこれで勉強した)

 算額も面白い例です。算額とは、庶民が自分で考えた数学の問題を額や絵馬に書いて神社仏閣に奉納したものですが、中には現代の専門家を悩ますような難問もあるというのです。代表的な1つが、神奈川県の寒川神社に奉納された算額で、ここにはノーベル化学賞を受賞したイギリスのフレデリックソディが昭和11年に発表した「6球連鎖の定理」と同じものが問題として出されています。この定理は、複雑な数式を用いた難解なものですが、ソディが発表するより100年以上前に日本の和算家が発見したというのは驚きです。江戸時代の庶民が、数学を勉強したのは出世や仕事のためではありません。純粋に知的な楽しみとして取り組んでいたのです。

 

 

 

 江戸時代以前の読み物は、写本(書き写し)でしたが、江戸時代には木版印刷が普及しました。木を彫るんですね。かなりのコストになるので、約8千〜1万という価格です。これが飛ぶように売れます。

浮世絵も木版によって、大量に刷られました。囲碁のレベルも飛躍的に高まります。織田信長や徳川家康が好んだことから、囲碁の家元があったのです。(幻庵より)

 

 力をつける町人

 

 力をつけた町人といえば、三井が有名です。

しかし、大東亜戦争後、解体され全財産を没収されます。また、一族は会社役員から追放されました。港区にあった1200坪の土地と邸宅は国に物納されています。現在、建物は「江戸東京たてもの園」に移築されています。

 

 農民の暮らしについても話していきます。

江戸時代の年貢は、個人ではなく村に対して課され、年貢率は「村高」と呼ばれる村の生産力、村が作り出すための富の総量に換算した数字をもとに決められました。これは、検地によって決まってしまっていました。その一方で、未墾地の開発がこの時代までにはほぼ終わり、その後は商品価値の高い作物を工夫して作るようになっていました。こうして、村の富が増大しても村高には反映されない状況となり、農民には余裕ができていきました。実際には年貢率は30〜40%という状態になっていき、生産性の向上、収益性の高い作物栽培の導入に加え、農産加工品の発達などによる現金収入の増加も村高に反映されなかったため、実質的な年貢率は10〜30%だったと類推されています。この税率なら、重税に苦しんでいたとは言えません。

 

 

 

 国学の広がりと子どもの教育

 

 江戸時代の文化の一つに寺子屋があります。寺子屋は、僧侶や浪人(主家を持たない武士)が寺や自宅で子どもたちを教育する庶民のための施設です。月謝はなく、入学時にわずかばかりの入学金を払い、後は盆と正月の差し入れ位で実質はボランティアに近いものでした。実は、寺子屋は桃山時代には、すでに都市部に寺子屋がありました。当時来日したキリスト教の宣教師が「日本人は女子供まで字が読める」と驚いたのも寺子屋のおかげでした。武士の子弟は、藩に作られた藩校で学んでおり、そこでは寺子屋よりもレベルの高い教育が施されていました。

 

 

 

 蘭学のはじまり

 

 蘭学を教えてくれた人にシーボルトというオランダ人がいます。シーボルトは、帰国の際、たくさんの生き物の標本と日本で収集した文学的民俗学的コレクション5000点以上を持ち帰っています。その中に、伊能忠敬が作成した日本地図もありました。(国防上、極めて重要な資料で、持ち出しが禁じられていたため追放されている)

 

 伊能忠敬は、農民であり商人でもありました。49歳で隠居しますが、驚いたことに50歳の時に千葉から江戸に出て、当時31歳の高橋至時を師匠として、天文学・暦学・数学を学びました。こうして、55歳の時に測量の旅に出て、17年にかけて日本地図をつくりました。当時の平均寿命を超えている年齢から、暦学を学び55歳から71歳まで日本全国を歩いて測量するなど、想像もつかない気力と努力です。さらに、驚くべき事は緯度の誤差が約1000分の1だったということです。海岸線は人が歩けない険しい崖や岩で覆われたところが多いにもかかわらず、忠敬の残した地図には、そうした海岸線も極めて正確に描かれています。まさに、超人的な気の遠くなるような大仕事です。こうした民間人が日本を支えていたのですね。

 

 

 

 徳川家は、綱吉が亡くなり、養子の家宣(家光の孫)が6代目となります。家宣は、生類憐れみの令を廃止します。しかし、3年で亡くなり息子の家継が3歳で将軍になります。

 代わりに新井白石が政治を執り行います。白石は貨幣の金銀含有量を元に戻しました。これによって、幕府の財政が悪化し、同時に市中に出回る貨幣の流通量が減ったため、日本全体がインフレからデフレへ転換し、世の中は不景気となりました。

 新井白石の功績は、皇室に新しい宮家を創設したことです。将来、天皇に跡継ぎがないまま、崩御した時に宮家に皇統を継ぐ男子がいなければ、万世一系は途絶えます。そのことを危惧した新井白石は、いざという時のために、家宣に新たな宮家を作ることを建白します。そして、結果的にこのことが皇室を救うことになりました。閑院宮家が創設されて70年後、跡継ぎの男子がなく閑院宮家が皇室に入り、光格天皇となったからです。令和の今上陛下は、その光格天皇の直系です。

徳川幕府も、万世一系を途絶えさせてはならないとしっかり考えていたのですね。

 

 家継は3年後の6歳で亡くなります。8代将軍として、吉宗(家康のひ孫)が継ぎます。吉宗は、色んな改革を行います。財政再建のために豊作凶作にかかわらず、一定の量に定めた年貢に切り替えました。これにより幕府の収入が安定しましたが、農民にとっては不作や凶作のときには非常に厳しい状況となりました。経済がわかっていなかったのですね。しかし、農業改革を進めたり、優秀な人材を昇進させたり、司法改革も進めました。また、目安箱たるものを作り、庶民の意見を政策に取り入れました。さらに、財政立て直しのために、自らも率先して粗衣粗食とり、贅沢を禁じました。しかし、結果的にデフレを促進させました。

 

 吉宗の後、9代将軍には家重(吉宗の長男)が継ぎます。家重は脳性麻痺であったため、言語が不明瞭でした。ただし、知能は正常だったようです。

 

 家重の後、10代将軍には家治(家重の長男)が継ぎます。家治は、吉宗に似て、幼い頃より聡明で文武に優れた人物であったと言われています。しかし、将軍になってからは政治を家臣に任せ、趣味の将棋に没頭したと言われています。徳川将軍の中では珍しく愛妻家で、正室に男児が生まれなかったことから、やむを得ず側室待ちましたが、2人の側室が男児を産んだ後は、側室のもとへは通わなかったと言われています。

 家治の将軍在位中、田沼意次が仕事をします。意次が、悪化していた幕府の財政を立て直すため、それまでの米中心の経済から商業振興策へと転換を図りました。(鉱山の開発、干拓事業、清との貿易の拡大、国後島・択捉島の探検)また、今までしてこなかった商人から税を徴収した事で、幕府の財政を大いに潤わせ市中の景気も良くなりました。町人・役人の生活もそれまで米を中心としたものから、金銭中心となり近代的な経済社会へと急速に近づいたのです。

 

 家治の後に、11代将軍となったのが家斉(家治の養子)でした。家斉は、将軍在位50年と歴代で最も長く将軍職に当たりましたが、政治を家臣たちに任せ、お奥に入り浸っていたそうです。わかっているだけでも16人の妾を持ち、男子26人女子27人をもうけています。幕府は、家斉の大勢の子と大名家との縁組の際、領地の加増を行うなど、多額の出費をしたために、財政が苦しくなっていきます。

 家斉の代わりに、政務を行ったのは松平定信でした。定信は、経済中心の田沼意次の政策を嫌い、意次がやろうとしていた蝦夷地開拓やロシアとの貿易計画も中止します。一方で、危機に備えるために、穀物の備蓄を命じたり、万一の時に備えて基金の積み立てを命じました。また飢饉で減った農村人口を増やすために、児童手当のようなものを支給していました。国力の基本は人口にあるということをしっかりと認識していました。定信は理想主義者で、町人の文化や生活習慣にまで口を出し、贅沢品を取り締まりました。しかし、このような理想主義は現実社会の人々の暮らしとは乖離したものでした。こんな有名な歌がありますね。「白河の 清きに魚も すみかねて もとの濁りの 田沼こいしき」(白河は、睦奥白河藩主だった定信のこと)

 

 この頃、イギリスでは産業革命が起こりヨーロッパ全体が凄まじい勢いで近代化していました。日本は150年にわたる鎖国政策のせいで、武力や科学技術の分野でヨーロッパ諸国に大きく遅れをとっていたのですが、幕府はその現実と深刻さに気づいていませんでした。

 また、イギリスの植民地だったアメリカの13州が独立を目指して、イギリスと戦って勝利し、アメリカ合衆国が生まれました。

 フランスのパリでは、市民が反乱を起こし、最終的には国王を処罰すると言う大事件が起きました。「人間は平等である」というスローガンは、ヨーロッパで広まり近代化への大きな原動力となりましたが、ヨーロッパ人が唱えた平等はあくまで、白人のキリスト教徒に限られ、有色人種や異教徒対しては、一切の人権を認めず、アフリカ・アメリカ・アジアの植民地で、先住民を虐殺・奴隷化していきます。自由を求めてイギリスと戦ったアメリカも、その後現地のインディアンを大量に虐殺しました。

 中南米ではそれ以前に、スペイン人が行った殺戮によって、先住民が絶滅寸前にまで追い込まれています。世界はヨーロッパ人によって蹂躙されていたのです。

 

徳川家を少し紹介するつもりが長くなってしましました(汗)

でも、面白いですよね?

また、世界の弱肉強食具合が凄まじいですね。今の時代に生まれていて良かったと思うばかりです。