武士による政治の安定 | 6年担任のための歴史学習

6年担任のための歴史学習

教科書だけでは分からない小学生のための歴史を解説しています。
もちろん、どなたでも閲覧ください。

 

 

 先ほど、この章を書き終えたのに、投稿できず消えてしまいました、、、辛い、、、途中で保存しておかないといけませんね。もう一度書きます(涙)

ここは、記憶にしっかり残さなあかんから、神様が再度勉強しなさいとおっしゃっていると捉えます。

 

さあ!!!徳川の時代ですね!!!(無駄なテンション)

みなさん、大河ドラマはどの主人公が好きですか?私は、篤姫が1番印象に残っています。

セリフがカッコ良く、煌びやかで好きでした。上様は、堺雅人が演じていましたね。知的障害だったのかな?

教科書には、将軍一人ひとりは詳しく書いていませんが、紹介はしていきたいと思います。詳しく知りたい方は、是非日本国紀をお読みください。

 

 

 大名行列のようす

 

 大名行列をコメディ化した映画がよくありますね。プライドや見栄でどんどん派手になっていったようですね。現代でいうエキストラもいたようです。

幕府は、参勤交代を大名に命じ、藩主の正妻と後継となる男子を江戸に居住させます。(人質)ですから、大名たちは江戸に屋敷を作らなければなりませんでした。また、藩主自身も隔年で江戸に住まわなければならず、かなりの出費となりました。

また、行列の前を横切ることは許されず、無礼討ちされることもありました。しかし、飛脚(手紙を運ぶ者)と産婆は列を乱さない限り、大名行列の前を横切ることが許されました。

 

 

 

 

 江戸幕府による大名支配

 

 江戸幕府を開いた徳川家康は、息子の秀忠に将軍職を譲りますが、政治の実権はしっかり握っていました。

家康は、武家諸法度を制定し、二百人前後の大名たちを管理下に置きます。大名とは、1万石以上の領地を持つ者のことです。(当時は、一人の人間が1年で食べる米の量が一石とされており、1万石は1万人の人間を養える国力があると見做される。)

 

3代将軍となった家光は、祖父の家康に倣い、巧みに大名の力を削ぎました。

 

 

 

 江戸時代の身分制と人々のくらし

 

 皇室や公家は別格の身分とし、幕府は武士に特権のある身分制度を定めました。当時の目安として、武士7%、農民75〜83%、町人10〜17%、穢多非人2%でした。皮産業を生業とした穢多、刑罰などによって賎民(せんみん)に落とされた人々を非人と呼びました。その身分は、完全な形で消えることはなく、現代においても社会問題として残っています。

 

 教科書には、武士のみが苗字を名乗れたとありますが、公式には名乗れなかったというだけで、農民や町民にも苗字はあったようです。また、当時は、大名も武士も長男は親の跡を継げますが、次男以下は他家に養子に入るしかありませんでした。それが、できない場合は兄の家で一生居候のような暮らしをするか(正式な結婚はできない)、老人となって町人と同じように自分で稼いで暮らすしかありませんでした。自由ではありますが、当然ながら公的保障はありませんし、厳しい社会であったことは間違いありません。女性の場合も同様で、男子の後継がいない場合は、長女が婿を取るか、次女以下は他家に嫁ぐか、男子と同じように部屋住みとして一生独身で暮らしました。次男以下の人たちは、現代に生まれてよかったですね。(汗)今では、次男以下の方が女性にモテるのではないでしょうか。

 

 

 キリスト教の禁止と貿易の取りしまり

 

 徳川幕府は、キリスト教を禁じ、海外貿易も制限するようになりました。また、日本人の海外渡航も禁じ、国外にいる日本人の帰国も禁止します。そのため、漁師が漂流して外国に流れ着いた場合、再び祖国の地を踏むことがゆるされなくなりました。厳しいですね。鎖国の始まりです。

 この、鎖国に至った理由は、「島原・天草一揆」です。九州で、4万人近くの農民と浪人となった武士たちが一揆を起こします。しかし、幕府12万人の軍によって鎮圧されます。この一揆に加わった農民の中に多数のキリスト教信者がいたことから、幕府はキリスト教を弾圧し、同時にオランダと中国以外の外国船の入国を禁じます。ここから、外国船からの文化や科学技術を取り入れず、世界情勢に無関心の平和的孤立状態が200年続きます。

 

 この時、イギリス、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパは、ほとんどの有色人種の国々を植民地にしていました。日本は、地理的条件に恵まれていたことと、武力を有していたことで鎖国できていたようです。

 

 

 

 江戸時代の外国との交流

 

 教科書には、コラムで琉球王国アイヌのことが書いています。

琉球王国のついては、「薩摩藩にせめられ、政治を監督されるとともに、毎年年貢を取りたてられるようになりました。薩摩藩は将軍や琉球王国が変わるごとに、江戸へ使節を遅らせたり、琉球王国に中国との貿易を続けさせて、その利益を手に入れたりしました。」とあります。

しかし、有本香氏によると、「琉球王国は、薩摩藩と同時に明王朝の冊封も同時に受けて、王国を保っていた。」とあります。教科書の書き方に悪意を感じますね。また、琉球王国の文化や言葉は日本の文化圏にあると大いに言えます。

 

 アイヌについて教科書では、「江戸時代、アイヌの人々と交易する権利を持っていた松前藩は、アイヌの人々が持ってくるサケ・昆布・毛皮などをわずかな米や武器と取り替えました。不正な取引に対する不満が高まり、シャクシャインを中心に多くのアイヌの人々が立ち上がりました。」とあります。

国土交通省によると、松前藩が不平等交易を行っていたのは事実のようです。しかし、きっかけはアイヌ民族同士の狩りや漁をする範囲の争いでした。一方が、松前藩に武器等の援助を頼みに行きますが、断られます。そして、その帰りに亡くなります。病死だったようですが、アイヌの人々には松前藩による毒殺だと伝わりました。(普通に考えると、また一方のアイヌ民族に殺されたのかなと思いますが、、、)

 

 2019年にアイヌ新法というものが制定されました。これは、アイヌ民族が先住民族だと制定されたものです。しかし、これには科学的根拠がありません。また、北海道の友人に「アイヌの人々に差別があるのか。」と聞いてみましたが、「聞いたことない。」と言っていました。

さらに、最近の遺伝子分析によって、アイヌの人々は北海道にいた縄文人とカムチャッカ半島や樺太から入ってきた、オホーツク人との混血だとわかっています。さらに、江戸時代初期から、アイヌの人々と内地の日本人との混血が進んでいったこともわかっています。

 

 

 

 

 

 

 話を徳川幕府に戻します。

3代将軍家光が亡くなると、長男である家綱が4代将軍となりました。家綱は、温厚な人柄で絵画や釣りを好み、政治は老中に任せていました。「左様せい」と言うのが口癖で、左様せい様と言うあだ名がつけられていたようです。

5代将軍綱吉は、「生類哀れみの令」で有名な将軍です。この令によって、犬や猫などの動物を殺した者は、死罪を命じられました。さらには、釣りをしただけで流罪になったり、鳥が巣をかけた木を切ったら処罰されたりしました。この法によって多くの人が罪人となりました。動物を大切にしたい気持ちはわかりますが、ぶっ飛んでいますね(汗)