国力の充実をめざす日本と国際社会 | 6年担任のための歴史学習

6年担任のための歴史学習

教科書だけでは分からない小学生のための歴史を解説しています。
もちろん、どなたでも閲覧ください。

 

 さて、明治・大正と進みます。

ここでは、日清戦争・日露戦争が勃発します。なぜ、戦争が起こり、何が目的だったのか。

日本はどうしたかったのか、私たちの遠くない祖先がどう考えていたのか。学んでいきましょう。

 

 

 近代産業の発達

 

 明治政府は、隣国である朝鮮と近代的な国交を結ぼうとし、外務大臣を派遣しますが、朝鮮はこれを拒絶しました。中華思想に染まった朝鮮は、西洋化した日本を快く思っていなかったのです。むしろ翌年には、朝鮮国内で排日の気運が高まっていました。また、「日本は夷狄(野蛮)に化けた。獣と同じである。日本人と交わったものは死刑に処す」という布告まで出しました。この状況に、政府内で、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助を中心に征韓(朝鮮を武力で開国させようという考え)を唱える声が上がりました。

 しかし、大久保利通や木戸孝允らは対外戦争はまずいと判断し、まずは国内をしっかり治めること。そして、国際関係において樺太の領有問題や琉球の帰属問題の方を優先すべきと考え反対しました。征韓が受け入れられず、西郷や板垣、江藤といった重鎮が政府から去ります。退くことになった板垣退助は、後藤象二郎や江藤新平らと「愛国公党」を結成し、政府の専制政治を批判し、国会の開設を要求する「自由民権運動」を巻き起こします。

 

 明治5年以降、朝鮮に何度も国交を結ぶ要求をしていた日本は、明治8年朝鮮半島の江華島沖に軍艦を派遣しました。しかし、軍艦が朝鮮に砲撃されます。日本は直ちに反撃し、朝鮮の砲台を破壊し、江華島を占拠しました。日本は朝鮮に対し、賠償を求めない代わりに、開国を要求し、日朝修好条規を締結させました。この条約には、日本の領事裁判権を認めるなどの項目があり、日本が欧米列強と結んだ不平等条約を朝鮮に押し付けたものとなりました。当時の国際感覚では、弱肉強食の普通の外交だったようです。

 

 また、国内でも士族の不満による乱がありました。

明治9年に廃刀令が出されました。江戸時代を通じて長らく刀は武士の命で、これを取り上げられる事は士族の誇りを著しく傷つけるものでした。さらに同年、秩禄処分がなされ、収入の道を絶たれたことで、士族の不満が爆発し、その年に立て続けに大きな反乱が起きました。翌明治10年に、最大の反乱、西南戦争が九州で起こりました。西郷隆盛を総大将とする元薩摩藩の士族たちを中心とした反乱でした。西郷は乗り気ではなかったようですが、部下たちに担ぎあげられる形で反乱軍のリーダーとなりました。反乱軍は、政府軍に鎮圧され、西郷は自決し、戦争は終わりました。

ここで、「明治維新」の終わりとみなす歴史家が多いようです。一つの時代が終わりました。

 

 

 自由民権運動のおこり

 

 明治9年、明治天皇は、元老院議長に各国の憲法を研究して日本の憲法を起草するよう命じました。この時点では、日本はまだ立憲君主国とは言えず、政治の実権は維新の立役者となった一部の重鎮たちが握っていました。

 しかし、明治元年の「五箇条の御誓文」の中で、明治天皇は「万機公論に決すべし」として、議会制民主主義の方向性を提示しています。板垣退助らは、民撰議員設立建白書を提出し、国民が選んだ議員による国会の開設を要求しました。これがきっかけとなって自由民権運動が起こり、全国に広がっていきました。

 

 

 大日本帝国憲法の発布

 

 明治22年、伊藤博文が中心となって、大日本帝国憲法が公布されました。これは明治天皇が憲法作成を命じてから、実に13年の歳月をかけて作られたものでした。伊藤は、内閣の制度を作り、初代内閣総理大臣となりました。憲法作成と同じごろ「君が代」が作られました。国際的な儀式や祭典には、国家の演奏が欠かせなかったからです。君が代の歌詞は、平安時代に編まれた古今和歌集のよみ人知らずの歌から取られました。歌のもともとの意味は、大切な人の長寿を願うものでしたが、後代になって、天皇の御代(すなわち日本国)が長く栄えることを願う歌となりました。

 

 

 

 不平等な条約を改正する

 

 近代国家の仲間入りを果たした日本でしたが、江戸幕府が結んだ不平等条約から抜け出す事は容易ではありませんでした。政府は何度も改正を試みて、各国と交渉を重ね、明治27年ようやく領事裁判権の撤廃に成功しました。日米修好通商条約から36年でした。しかし、関税自主権がないとう条項の完全撤廃はまだ認められませんでした。

 不平等条約改正のために、当時の日本人は少々情けない振る舞いもしました。日本が西洋のような近代国家になったと目に見える形で示せば認めてもらえてるだろうと考えて、鹿鳴館外交と呼ばれるものを行いました。欧米からの来賓をもてなすために、鹿鳴館が建てられ、ヨーロッパ風の舞踏会や晩餐会が開かれました。政府高官や彼らの夫人がモーニングやドレスを着て、下手くそなバイオリンやピアノの演奏バックに、フォークとナイフで食事をし、外国人相手にダンスを踊ったのです。そんな日本人の滑稽な振る舞いを見た欧米人は、腹の中で嘲笑っていたそうです。

 

 

 中国・ロシアと戦う

 

 明治27年に日清戦争が起こりますが、これは突如勃発した戦争ではありませんでした。国際社会は未だ、激烈な弱肉強食の世界で、アフリカ・南アメリカ・中東・インド・東南アジアと地球上のほとんどを植民地とした欧米列強は、開拓の最前線として中国大陸に狙いを定めていました。西ヨーロッパの国々に乗り遅れていたロシアが南下政策をとり、満州から朝鮮半島そして日本を虎視眈々と狙っていました。そのため日本は自国の防波堤として、朝鮮の近代化を望みました。朝鮮半島が日本のように富国強兵に成功すれば、ロシアの南下を共に防ぐことができる。日本が朝鮮を開国させた1番の理由はそれでした。

 しかし、現実の朝鮮は清の従属国であり、独立国家の体をなしておらず、近代国家には程遠い存在でした。それでも、開国以降日本の支援を受けて、革命を進めてはいましたが、明治15年改革に反対する保守派が大規模な暴動を起こし、日本公使館を襲って、日本人軍事顧問や公使館員を殺害しました。日本は兵を派遣しましたが、清もまた派兵します。反乱軍を鎮圧した清は、袁世凱(えんせいがい)を事実上の朝鮮国王代理として、実権を握りました。これにより、朝鮮国内では親日勢力(改革派)が後退し、清への従属度合いを強めていきます。

 そんな中、ベトナムの領有をめぐって、清とフランスの間で戦争が起こったため、朝鮮半島に駐留していた清軍の多くが内地へ戻りました。親日勢力は、清がフランスに敗れたことを好機と見て、日本公使館の支援を受けてクーデターを起こしますが、清軍に鎮圧されました。この事変で、日本と清の間で軍事的緊張が高まったものの、両国が朝鮮から兵を引き揚げることを約束する条約を交わしました。この条約には、「将来朝鮮に出兵する場合は、相互通知を必要と定める。派兵後は、速やかに撤退し、駐留しない。」と言う条項がありました。

 9年後の明治27年、朝鮮政府に対して大規模な農民反乱が起きると、朝鮮政府から要請を受けた清が軍隊を送りました。そこで日本も、条約により朝鮮に派兵します。両国の軍が来たことで、乱は収束しました。乱が鎮まった後、朝鮮政府は日本と清に、撤兵を求めますが、どちらも受け入れず、一触即発の緊迫した状況の中、ついに両国の軍隊が衝突し、両国が宣戦布告しました。この戦いで、日本軍は各地の戦闘で清軍を圧倒しました。日本軍は、清国軍を朝鮮国内から駆逐し、清国内に攻め入って遼東半島を占領します。さらに、清国の北洋艦隊を破り、日清戦争に勝利しました。これにより、「清は、朝鮮半島の完全な独立を認めること」という条約が結ばれました。また、賠償金と遼東半島と台湾の割譲が決まりました。これにより、日本国民の多くが、「戦争に勝てば金になる」という誤った認識を持ってしまいました。

 

(日清戦争前の東アジアを描いた風刺画 日本・ロシア・中国の三国の、朝鮮を巡っての関係が描かれている。)

 

 この2年後に、朝鮮は大韓帝国(韓国)と改めました。この時、迎恩門(清からの使者を迎える門)が取り壊され、清からの独立を記念して独立門が建てられました。今日多くの韓国人が、この門は大東亜戦争が終わって、日本から独立した記念に建てられたものと誤って教育されています。

 しかし、条約が結ばれた6日後、ロシアとフランスとドイツが日本に対して、遼東半島の返還を要求しました。これは三国干渉と呼ばれ、「極東の平和を乱すから」というのが理由でしたが、それは建前に過ぎず、実際は満州の利権を狙っていたロシアがフランスとドイツに働きかけて、行ったものでした。フランス・ドイツにはこの干渉に参加することによって清に恩を売って、その見返りを得ようと言う目論見がありました。三国は、その見返りとして租借権(兵力もおく)や鉱山採掘権を得ました。「極東の平和を乱す」というのが口実に過ぎないことが分かります。

 この後、イギリス・日本・アメリカも清に一部の領土を他国に割譲しないように約束させました。日清戦争に負けた清は、列強と日本にむさぼられ続けたのです。その恨みが今もあるのかもしれません。

 その最中に、列強を排斥しようとする秘密組織が清に生まれます。この組織が信じていた神は、孫悟空や諸葛孔明で、団員たちは修行を積めば、刀や銃弾でさえも跳ね返す不死身の体になれると信じ、近代兵器で武装した列強の軍隊に徒手空挙で挑みましたが、勝てるはずもなく、各国の軍隊によってたちまちのうちに鎮圧されました。この乱で、柴五郎という人物が活躍しました。柴は、英語・フランス語・中国語に精通しており、他国軍と協力し、司令官として公使館を守りました。これにイギリス公使が感銘し、勲章を授与されます。この活躍が、日英同盟につながりました。

 

 ここで日清戦争後の朝鮮半島に話を戻します。朝鮮は、長年にわたり清の属国扱いを受けていました。清から使者が来ると、朝鮮国王は迎恩門で三跪九叩頭という礼をしなければなりませんでした。これは、使者の前に跪き、頭を地面に3度打ちつけるという屈辱的な礼でした。(額から近出るほど叩きつけるらしい)

 そんな清を日本が打ち破ったことで、朝鮮国内では親日派が台頭しますが、日本が三国干渉に屈したのを見ると、今度は親ロシア派が力を持ちます。その親ロシア派の代表が、朝鮮の王の妻でした。王妃は実権を握り、独裁的な政治を行い、民衆は苦しみます。この王妃がロシアと接近したことで、日本人公使の主導の元、反王妃の朝鮮人と日本人が王妃を殺害しました。(朝鮮国内の裁判では、王の父が首謀者という判決が出ているが)この事件以降、王はロシア公使館で政治を行い、ロシアの言いなりとなっていました。また、ロシアは、事実上満州を占領し始めており、南下政策を進めていました。

 

 したがって、日本はロシアとの戦いに備え、イギリスと同盟を結びます。清に利権を持ち、ロシアの満州支配や南下政策に危機感を抱いていたイギリスと利害が一致したのです。これにより、ロシアは満州を清に返すという条約を結びますが、翌年破棄します。これをきっかけに、外交交渉も受け入れられず、戦争は避けられないものとなりました。しかし、世界の列強は日本が破れるだろうと見ていました。国家予算、兵力も桁違いで劣っていました。

 ただ、日英同盟が日本を救いました。これには、「もしどちらかが、2つの国と戦争になった場合、一方は同盟国に味方をし、参戦する。」となっていました。これは非常に重要で、実は、ロシアは清と露清密約を交わしており、そこには「日本が、ロシア・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は、陸海軍で相互に援助する。」という条文がありました。つまり、日露戦争が始まれば、清はロシアのために日本を攻撃することになっていたのです。

 しかし、そうなれば日英同盟によりイギリスが参戦することになるので清は動けませんでした。とはいえ、日本が不利なことに変わりはなく、資金不足が1番の問題でした。これに対し日銀副総裁の高橋是清は、自らロンドンに出向き、「この戦争は、自衛のためやむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の天皇の下で一致団結し、最後の1人まで戦い抜く所存である。」と訴えます。さらに、中立問題に関しては「アメリカの南北戦争中に、中立国が公債を引き受けた事例がある。」という前例を出して、イギリスを納得させ、外債発行の見込みを得ました。

 

(日清戦争後の東アジアの関係を描いた風刺画 刀を持っているのは日本で、ロシアに立ち向かっている。) 

 

 日露戦争は、日清戦争とは比べものにならないくらい、激しい戦いとなりました。日本は、進路を進めるロシア軍を退却させます。奉天会戦では、日本軍25万人ロシア軍37万人という大決戦でしたが、秋山好古少将の陽動作戦に怯えたロシアの司令官が、余力を残したまま、撤退するという失態を犯します。

 それでもロシアは当時世界最強といわれたバルチック艦隊を向かわせていたので、強気でした。この艦隊にやられれば、日本は大陸との輸送船が遮断され、戦争継続は不可能になると見られました。水兵は、毎日猛訓練をし、見事バルチック艦隊を撃滅しました。これが、日本海海戦と言われるものです。名参謀の秋山真之(好古の弟)の作戦、司令官の東郷平八郎の決断力、そして将兵たちの奮闘により完全な勝利をあげました。また、小栗忠順が作った横須賀造船所で作られた高速の駆逐艦や水雷船が大活躍しました。

 

 この勝利は、世界の植民地の人々に驚きと喜びを与えました。16歳の時に、日本の勝利を聞いた後のインドのネルー首相は、「自分たちだって、決意と努力次第ではやれないはずがないと思うようになった。そのことが、今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げさせることになったのだ。」と語っています。

 しかし、日本側の要求をロシアはことごとく拒否し、最終的に「賠償金なし」「樺太の南半分を日本に割譲」という妥協案で講和を結びました。しかし、朝鮮半島における優越権を認めさせ、極東地域における日本の勢力は拡大しました。

 なお、ロシア人捕虜の扱いについて。松山の収容所には、多数の医師や看護師が常駐し、捕虜には十分な広さの部屋があてがわれ、食事は洋食が出されました。ロシアの兵や下士官にとっては本国でも味わえないような快適さだったという証言があります。これは後に、ソ連が日本人捕虜に課した過酷な強制労働とは逆の扱いでした。

 

 

 日露戦争後の日本と世界のようす

 

 教科書には、「日露戦争後、日本は韓国に対する支配を強め1910年に韓国を併合して朝鮮を植民地にしました。朝鮮の人々の中には、日本が行った土地調査により、土地を失う人もたくさんいました。そのため、仕事を求めて日本国内に移り住む人がいました。また、朝鮮の学校では、日本語や日本の歴史の授業が行われるなど、朝鮮独自の教育を行うことが難しくなりました。1919年3月、朝鮮の独立を目指す人々の間で大きな抵抗運動が起こりました。日本は、この運動を抑えましたが、その後も独立運動は続けられました。」とあります。これは、随分と自虐的に書かれていて、中立とは言えません。小学生に日本は悪いんだ!と植え付けているように感じます。

 

 日本は、併合にあたって、慎重でした。なぜなら、併合することによって必要になる莫大な費用が工面できないからです。また、日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行うつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富でもなかっただけに、併合によるメリットは少なかったのです。大韓帝国の初代統監となった伊藤博文自身が、併合には反対の立場をとっていました。

 しかし、伊藤が朝鮮人テロリストによって暗殺され状況は一変します。国内で併合論が高まると同時に、大韓帝国政府からも併合の提案がなされました。大韓帝国内の大規模な政治結社であった一進会もまた、日韓合邦を進める声明文を出しました。韓国併合は、武力を用いて行われたものではなく、両政府の合意のもとでなされたのです。(重要)

 

 韓国は併合時代に日本から様々なものを奪われたと主張していますが、日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を投入して近代化に大きく貢献しています。列強が植民地に多額の資本を投じて近代化を促進させた例はほとんどありません。近代化の例をいくつか挙げると、併合前まで100校ほどしかなかった小学校を4270校に増やし、全国の児童に義務教育を施し(上流階級の両班だけだった)、10%程度であった国民の識字率を60%までに引き上げています。ハングルを必修科目とし、ハングルの教科書を東京で印刷・製本し、普及させたのも日本です。(普段話す言葉は朝鮮語だが、両班は漢文を使っていたため、文字にしていなかった)また全土がほぼハゲ山だったところに、約6億もの木を植え、当時世界最大の水力発電所を作り、鉄道網を敷き、海岸を整備し、電気を通し、工場を建てました。新たに農地を開拓し、水路を作り、耕地面積を倍にしました。それにより、米の収穫量を増やし、30年足らずで人口を約2倍に増やしたのです。また、当時24歳だった平均寿命を42歳にまで伸びました。さらに、厳しい身分制度(白丁(ぺくちょん)と呼ばれる最も身分の低い者には、過酷な禁止事項が多くあった)や奴隷制度(人口の3割が奴隷)おぞましい刑罰等を廃止しました。

 

言葉は悪いですが、ここまで恩を仇で返す国も中々ないでしょう。

 

(引用:今こそ韓国に謝ろう そして、「さらば」と言おう)百田尚樹)

 

 世界では、ヨーロッパを主な戦場とした第一次世界大戦が起こります。

当時、列強諸国は、それぞれ海外進出の思惑を持って動いていました。植民地獲得競争に出遅れていたドイツは、イタリアと同盟を組んで海軍を増強していました。ドイツの動きを脅威と見たイギリスはフランスとロシアに接近し三国協商を結びます。ここで、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟vsイギリス・フランス・ロシアの三国協商という対立構造が明確になります。

 2つの陣営は、他の国々を巻き込みながら、新たな侵略をバルカン半島へ進めていました。緊張が高まる中、オーストリアの帝位継承夫妻がセルビア人テロリストに暗殺されます。オーストリアは、セルビアに宣戦布告します。翌々日、ロシアがセルビアを支援するために総動員令を出すと、ドイツがロシアに宣戦布告、次いでフランスにも宣戦布告しました。これを受け、イギリスがドイツに宣戦布告します。

 ヨーロッパから遠く離れた日本もイギリスと同盟を結んでいる関係で、ドイツに宣戦布告し、ドイツの租借地であった山東半島などを攻めました。第一次世界大戦は、4年以上続き、戦車・飛行機・潜水艦・毒ガスなどの新兵器が多数使われ、最終的に両陣営合わせて戦死者約一千万人、戦傷者約二千万人、行方不明者約8百万人という悲惨極まりない犠牲者を出しました。

 

⚠︎教科書には、「日本もこの戦争に加わり、中国などに勢力を伸ばそうとしました。そのため中国では日本への抵抗運動が起こりました。また、中国に進出していた欧米諸国は、日本の中国における勢力拡大の動きに警戒を強めました。」と書かれており、勝手に中国を荒らしたような書き方がされています。

 

 話を日本に戻します。明治の時代に君臨したのが明治天皇です。

 明治天皇は内閣の会議に必ず隣席しながらも、一言も言葉を挟む事は無いお方でした。また、積極的に全国を巡幸されました。当時は、鉄道も車もなく、馬車と輿の旅は大変過酷なものでしたが、腰の中でずっと正座されていたそうです。日常生活では贅沢や華美を嫌い、質素な生活をされ、軍服や靴が痛んでも修理を命ずるのみでした。「国民と同じように生活したい」という信念がおありでした。明治天皇は、戦争を嫌い、日清戦争にも日露戦争にも反対の立場でした。日露戦争の華々しい戦果が伝えられても、喜びの表情を1つ浮かべる事はなかったといいます。勝利の後も、これにより日本が驕慢になることなくまた、相手国を侮蔑する事は無いようにと述べてられています。他国と比べることは、ナンセンスかもしれませんが、このような厳格ある方が日本の元首だと思うと誇りを感じます。

 

 産業の発展と人々の暮らし

 

 第一次世界大戦で、ヨーロッパ諸国への軍需品の注文が急増し、それにつれて中工業が発展しました。日本は空前の好景気を迎えました。

 

 大正12年、関東大震災が起こります。

 東京や横浜、関東一帯で起こり、死者・行方不明者は10万人を超えました。これは、日露戦争の戦死者数を上回ります。なお、この震災直後、流言飛語やデマが原因で、日本人自警団(警察が機能しきれていなかったため存在していた)が多数の朝鮮人虐殺したと言われていますが、この話には虚偽が含まれています。

 震災のどさくさにまぎれ、一部の朝鮮人が、殺人・暴行・放火・略奪を行ったとあります。警察記録もあり、新聞記事になった事件も非常に多くあります。(ただし、記事の中には一部デマもあった。)また、水源近くで毒を持っていた不審者が、問い詰められて「これは塩だ」と強弁したので、本人に飲ませると毒物であり死亡したという事例もあるようです。これにより、 日本人自警団による朝鮮人の殺傷が相次いだため、政府は、朝鮮人犯罪の真偽織り交ぜた伝聞の記事等を全て禁止しました。

 毒物の事件は、その45日程度経過して、調査や精査をした上で司法省が発表した内容で、精度は高いと思われます。 当然、その現場近くにいた人々が口伝えで「朝鮮人が水源近くで毒物を入れようとしていた」ことは広まり、そうした攻撃から地域を守ろうと自警団が目を光らせ、自衛を行ったのでしょう。中には震災に乗じたテロリストグループが、天皇陛下の暗殺を企てていました。司法省の記録には、自警団に殺された朝鮮人犠牲者は、232人とあります。韓国政府は数十万人の朝鮮人が虐殺されたと言っていますが、これは虚偽です。震災当時、日本全国に朝鮮人は8万617人でした。しかも、震災の翌年には12万238人の朝鮮人が日本に渡航しているのです。あまりの多さに渡航制限がかけられたほどですが、多くの同胞が虐殺されたところへそれほど大勢が渡ってくるでしょうか。

⚠︎教科書にも、誤った噂で多くの朝鮮の人々が殺されたと書いています。

 

 激動の明治・大正時代でした。

正しい歴史をどう学ぶかは、大変重要なことだと思います。誰もが、自分が学んだ歴史が正しいと思うでしょう。

しかし、全てを鵜呑みにしてはいけませんね。その歴史が、資料やデータを元に述べられているのか、立証している人の裏に怪しい法人がいないか。私は、百田尚樹氏の歴史を学んで、目から鱗でした。教科書では、祖先が悪く書かれている。本当に私たちの先祖は、こんなことをしたのだろうか。日本人にも、もちろん悪い人はいるが、そんな残虐なことをするだろうか。その、一方で現在の日本人や祖先を誉めてくれる外国人がたくさんいること。日本人に助けられた恩をもって、親日でいてくれる国がいる。どちらが本当なのだろうと疑問に思い、歴史をしっかり学びたくなりました。自虐思想に染まらず、愛国心を恥ずかしがらずに堂々と持てる我が国であってほしいなと思います。