おはようございまーす!
さこぴです
今日もログの話!
最初はログを書きたくない上に
書いてる途中で寝てしまうから
なんとも大変な作業のひとつだったけど
実際に書いてみて
ブログでも気付きを書いているうちに
さらに気づくことが出てきたので
ちょっと面白くなってきたりなんかしちゃってます
単純なんです
①ログを書く目的、きっかけ
私は自分のやったことに対して
「ノーカウント癖」があります
②では自分の行動が正解じゃないかも
と不安になったり、そう判断してしまった時に
なかったことにしたい!
と言う気持ちがはたらくことに気付きました
そして
ログを書いているうちに、
あ、これも私はノーカウントにしてる!
と気付いたことがありました
それは
「やらないと決めてやらなかったこと」です
今回生活ログを取るきっかけになったのは
chatGPTにログ取ってみるといいよー
と提案してもらったからなのですが
その時もログに書くことについて
こういうの書くといいよー
って勧められていたことにも入っていたことでした
事実ログ(今日あったこと)
感情ログ(その時出てきた気持ち)
行動ログ(逃げなかった、止まった、認めたこともカウント)
↑を勧められていて、
そのうちの「行動ログ」の部分
「止まったこと」にあたります
私はこれまでも逃げグセが強くて、
心のエンジンがぶっ壊れてしまっているので
何かをやる前の言い訳がものすごいんです
(堂々ということではない)
やらないための言い訳、正当化を生み出すのが
マジ得意すぎて、
言い訳自動生成マシーンと呼んでくれてもいいぜ!
だから「やらない」ということだけを切り取っては
これは逃げているのでは・・・
と、こういうことに関しては厳しい目で見てしまうことも多いのです
だから、やらないと決めたことに対して
だってやってないし、何も得られてないし
これはノーカウントだよ!
そうやってノーカウントにすることで
やらなかったことへの「×」の解釈をつけて
ずっと頭の中でモヤモヤとし続けていました
では、
なぜ私はそれをノーカウントとしてしまうのか?
それは、何かをやった先に得たいものが得られなかったから
でした
私が得たかったもの
それは
褒められること
認められること
知識が増えること
人との繋がりが増えること
「頑張った」履歴が増えること
承認欲求が満たされること
これが欲しかっただけでした
何かをやることで、承認欲求が満たされ(た気がして)
何もやらないことで、誰からの承認ももらえない(気がして)
承認欲求が満たされないものはノーカウント!
とバッサリ切り捨てては
承認欲求を満たそうとしない自分を責め
何の結果も得られない、何もしていない自分を認められず
認められないものはなかったことにしてしまえー!
とずっと悶々としていたのでした
その、やめたこと、止まったことの出来事についても
ログに残したのはほんの小さなことからでした
・ログ完成前に寝た
・ご飯作れないから子供たちの夜ご飯はすき家
・今日は1日買い物しなかった
そういうことを書いていた
そのうちに、
そう言えば私
「今回はこれをするのをやめよう」
「いつもは最後までいたのを、途中で帰ることにしよう」
「私にはどうやっても無理なので、諦めよう」
と現在進行形でやめたことがあることにも気付き
ちょっと前にも
「きっとやったらいいことしかないけど、損をするつもりでやめよう」
とやらなかったことがあったことも思い出した
そう言えば、あれも、これも・・・
頭の中は悶々と割り切れずにいたけれど
実際の行動としては「止まる」「やめる」を選択して
実際にやらなかったことが何個もあったことに気付きました
そして、
よーーーく考えてみると
悶々としていた理由も
やったら承認欲求が満たされたかもしれないのにー!
やらないから何にも得られなかったじゃんかー!
っていう
もう、ほんと、それだけ
全部全部
母に何としてもこっちを見てもらいたかった気持ち
母に褒められたり認められたりしたかった気持ち
母に否定もされず、攻撃もされずただただ認められたかった気持ち
それが空回りに空回って
それを得られない私はずっとからっぽだ
と勘違いして
何かをやることでそんな空虚な気持ちを埋めようとしたし
母親に貰えなかったものを満たすためには
外にある何かが満たしてくれるんだと勘違いして
色々やめられなかったんだよね
でも、
私、やめることもできていたんだ
やめた時、止まった時に
「きっとこれをやったら、参加したら確実に自分の経験になるし
その結果から得られるものはたくさんあるだろう。
そういう機会が今目の前にある。
今の私は「ただそれをやる」ことはできるかもしれないけど
正直「無理だ」厳しい。キャパオーバーだ。
きっとやった後には「やった」「できた」「よかった」と思う私がいるだろう。
だからやらないことは損になるし、後悔の元になるだろう。
それでも、私は損をしよう。損をしていいからやめよう」
そう思って見送ったことが何個もあった
思考はぐちゃぐちゃになることがある
正解を求めてしまうこともある
焦るし、後悔するし、自分の考えを否定したくもなる
そんな頭の私だとしても、
行動では頭と逆のことをしている
自分がそれを認めようが、認めまいが
「やらなかった」「止まった」んだ
それは、事実なんじゃないかな???
それに、色々やらずに見逃したり
意識してやらないと決めたりしたことがあって
何も増えない、何も得られなかったけど
でも私はあの時から生き続けてるし
存在し続けてる
たとえ、
欲しかったはずの承認欲求が得られなくても
変わらない
自分が認めなくたって
事実は事実として残ってる
事実も存在も、ただ残ってる
それだけなのかなと思えた出来事でもありました。