火のようにさみしい姉がいて | 感傷的で、あまりに偏狭的な。

感傷的で、あまりに偏狭的な。

ホンヨミストあもるの現在進行形の読書の記録。時々クラシック、時々演劇。

平成26年9月22日(月)、
『火のようにさみしい姉がいて』(inシアターコクーン)を観に行く。



演劇の神様が降りていた奇跡の舞台。

(あらすじ)※プログラムより
とある劇場の楽屋。開演数分前、主演俳優が鏡の前で出番を待っている。
男がさらっている台詞は『オセロー』のようだ。
舞台女優だった妻と台詞を遭わせるうち、現実と演技の境が混沌としてくる。
夫婦は「転地療養」と称して、男の故郷へ旅することにした。
日本海に面した雪国の町に降り立った2人。
男の実家に向かうバス停を尋ねようと理髪店に立ち寄るが、店には人の気配がない。
誰もいない理髪店の鏡の前で、男はふと『オセロー』の一節を口にする。
演技するうち、興奮した男は、シャボン用のカップを誤って割ってしまう。
その瞬間、理髪店の女主人や得体の知れない客たちがわらわらと現れた。
彼らの言動に翻弄される夫婦。
やがて女主人は、男の姉だと名乗り始めて・・・。

作  清水邦夫
演出 蜷川幸雄
出演 中之郷の女 大竹しのぶ
   妻 宮沢りえ
   みをたらし 山崎 一
   スキー帽 平 岳大
   青年 満島真之介
   見習 西尾まり
   ゆ 中山祐一朗
   しんでん 市川夏江
   べにや 立石涼子
   さんざいみさ 新橋耐子
   ◇◆
   男 段田安則

前知識も何もなく、この作品の観劇に臨んだ。
そして見終わった時の感想は・・・

ふ・・・古い!! ←あーあ、言っちゃったー。

私たちが生まれたころ、
こういう少し前衛的でモヤモヤした感じの演劇が流行った時代の作品っぽーい。

と思って、あとでプログラムを読んでみたら、
劇作家・演出家の清水邦夫が自作を上演するため結成した木冬社にて1978年初演、
とあるではないか。
まさにどんぴしゃ。
あもちゃん、天才じゃね?

仕事に悩み、人生を彷徨い、正常と異常の狭間を漂う一人の俳優が、
現実と妄想の間で苦悩する、という話で、
この1人の俳優を段田安則が演じたわけだが、とにかく鬼気迫っていてすごかった。

はっきり言って、脚本は古いし、演出もイマイチだけど、←コラーッ!
段田安則の理解力と演技力、そして何より古さを感じさせない新鮮さが神がかっていた。
どの部分を切り取っても腐敗していないのだ。
惚れた。
ますます惚れた。

私が演劇を好きになり、定期的に観に行くようになったきっかけは、
藪原検校』の段田安則の演技に魅せられたから、だったわけだが、
あれから7年経った今も、色あせることなく、ますます光り輝く段田安則。
惚れた。
(でも「わたしの男リスト」には載っていないんだけどね。そろそろ載せてもいいかしら。)

現実ギリギリの際を歩き、時々深い闇へ転がり落ちて、
またその闇から這い上がって現実を生きる、という生活を続ける日々。
それは俳優という職業と同じなのかもしれない。
リアルな世界と舞台という虚構の世界。
その境界線が曖昧になり、そしていつしかそれぞれの世界をそれぞれが浸食していく。
(こういうところが1970年代っぽいって思うの。
 でもそんな古さを段田安則はフレッシュに演じており、
 段田安則の輝く光でこの作品はもっていたような気がするのだ。ビバ!段田!)

男の精神の消耗はもう限界であった。
そんな疲弊した男の姿に真摯に向き合い、過去と今を自由に飛ぶ段田安則。

その段田安則の妻を演じたのが、宮沢りえちゃん。
女優ミラーの前に立つりえちゃんの足の長さに驚いた私は、
高いヒールでも履いてるんでしょ!?そうだよね!?と思って、
パンツスーツの裾がまくれあがるのをじりじりと待つ。

見えた!!
ほぼペタンコ靴であった・・・
ちょっと、お前さん、あの足の長さ、異常ですぜ。
スタイル良すぎ。

以前の記事でも書いたが、→『母と毒薬。
この日のりえちゃん、さっぱりピーマン。
流れるようにあふれ出す台詞が重点に置かれたこの作品において、
台詞は噛み倒すわ、演技も精彩に欠くわ、艶めきもないわ。
いいとこなし。
残念でした。
でも美しかったです。
りえちゃんが舞台に立ってるのを拝むだけで、小汚いあもちゃんの心が洗われる感じー。
ピカピカ。

男は妻の療養のため、と言い、妻は夫の療養のため、と言い、
とにかく2人は男のふるさとへ療養へ行く。
しかしそこは不思議な町であった・・・

そしてやっぱり黒柳徹子さんの声にそっくりな大竹しのぶが登場。
気持ち悪い役がピッタリ。
『黒い家』以来の凄まじい気持ち悪さと怖さ。
下から顔を見上げる時の白目と黒目の部分のバランスがこわいのーーー。←細か過ぎ?!

男の姉だと名乗る女(大竹しのぶ)。
その女を知らない男(段田安則)。
その異空間に入り込む妻(宮沢りえ)。

時空のゆがみと記憶の欠落、そして虚構の補填。
男の心の闇は、舞台上で形を変えながら繰り広げられていた。

近所の男から語られる幼い頃の自分と今の自分。
姉と男。
妻と男。
虚構と現実。
ふるさとと東京。
自分と何か。
いつも何かと対峙する自分。
しかしそれは真反対のものでもなく、時には隣り合い、また溶け合う。
夢か現実か。
全て自分の中のもの。

知らない女が、お前の姉だ、と名乗る。
そして小さな位牌を持って、お前と自分の子供が死んだのだ、と言う。
近親相姦。
しかし全く記憶がない。
お前は誰だ。
私は誰だ。
不確かなことばかり。
少し目を閉じれば、全く記憶にない過去の情景が次々と押し寄せる。
ふわふわとした不安定な時間を過ごすことに我慢できなくなり、
家に早く帰ろう、と妻の手を取り、ふるさとを後にしようとする男。

そんな男に、しっかりしてよ、とばかりに、
結婚を機に引退した元舞台女優だった妻が言う。

「私の方が俳優としては才能があった。」

2人は結婚してからも、
妻は元女優として男の練習に付き合い、男を支えてきた。
俳優として才能あふれる男を愛し、支えてきたことに後悔はないが、
でも女優という仕事への情熱は失ってはいなかった。
そんな生活の中で、どこか密かにそういう思いを抱えていたことがうかがえる。

男を尊敬し、その才能を愛してくれた妻から放たれた言葉。
自分が支えにしていた唯一のものがなくなった。
先ほどまで演じていた「オセロー」のように、妻を信じられなくなったのだ。
そして「オセロー」のように、妻を手にかけた。

ぐったりとする妻を見て、ハッと我に返る男。
起き上がらない妻。
それが現実。
妻を手にかけた「オセロー」は虚構。
妻を手にかけた自分は現実。
最後まで虚構と現実の狭間で揺れる男が、そこにずっと立ち尽くしていたのだった。

・・・・
幕が下りてもしばらくずっと緊迫した空気が張りつめていた。
今思いだしても病気が移りそうなほど・・・。

どうでもいいが、「オセロー」の内容を知っててよかった。
知らなくても楽しめると思うが、知っているとその分作品に奥行きが出てくる。

段田安則の演技、また見たいなあ。
そして配られたチラシを見て、あまりの喜びに飛び上がった。

ケラさん演出の舞台に、
段田安則とわたしの男つっつん(堤真一)、そしてりえちゃんが出るというのだ。
絶対、観に行くぞー!!!!




りえちゃんと私。
虚構と現実。




カレーと空腹。
どちらも現実。