最後に訪れたのが 2003年。
どれだけ待ちわびていたことか
やっとやっと 帰ってくることができました
9年振り、3度目の
今日は終日 自由行動。出発前 いろいろプランを練っていたのですが、無事に全部回れるでしょうか
先ずはメトロ(地下鉄)に乗って、セーヌ川の中洲にあるパリ発祥の地 シテ島へ。
ノートルダム大聖堂 に向かいます。
「ノートルダム Notre-Dame」 とは 「我々の貴婦人」 と言う意味。
つまり 聖母マリア のことです。
いまさらですが、パリとは
紀元前3世紀頃「リュテティア」と呼ばれ、最初に住み始めた
パリシー人にちなんで「パリ」と名付けられました。
別説では、ブルターニュ地方の古代ケルト王国の首都 「is」 がとても美しい都市であったので、自分たちも 「is」 のような(ような=par)街を作りたいという意味で、「パリ」と名付けた、と。
クリスマス時期には 大聖堂前に大きなクリスマスツリーが現れるのですって。
正面ファサード 中央門 『最後の審判の門』 と 西のバラ窓(1210年頃 直径10m)
でも、ツリーありませんでした。
何かイベントでもあるのか、観覧席が設けてありました。
1163年にパリ司教シュリーの命によって着工し、1330年頃完成。
1302年 フィリップ4世が最初の三部会を開催、
1455年 ジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判、
1572年 アンリ4世とマルグリット王女の政略結婚が行われました。
フランス革命時には彫刻が破壊され、
飼料庫と化すなど荒廃するがままになりますが、
1804年 ナポレオンが戴冠式を行い、ヴィクトル・ユゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』で重要性が見直されたことから大修復がはじまり、1864年に元の姿に戻りました。
とりあえず 入場。
ここの大聖堂のバラ窓も必見です
ぐるりと回ってみると、大きな燭台が床の上に置いてありました。
天上から吊るすのでしょうか。
ガストン・ルルー作 『オペラ座の怪人』 に登場しそうな雰囲気。
すごく 立派な クレシュ・ド・ノエル(クリッペ)が
ストラスブール同様、絵巻物みたいに延々と飾られています。
キリスト教の物語というより、中世の農村風景を再現しているようです。
キリスト生誕シーン。洞窟の中の聖家族。
正教会では キリストが生まれた場所は洞窟と伝承されています。当時のベツレヘムでは洞窟の中で家畜を飼っていたらしいです。
多くのゴシック聖堂がノートル・ダムと呼ばれ、聖母マリアに献堂されました。
パリでは、元来の聖堂は4世紀に聖エチエンヌに献堂されたものでありましたが、パリ司教モーリス・ド・シュリーが聖母マリアに献ずる聖堂に建て替えることを命じ、1163年より建設が開始されました。
パリをはじめとして ノワインヨン、サンリス、ラン、シャルトル、ランス、アミアン、ディジョン、ストラスブール など多くの都市の聖堂がノートル・ダムの名を冠する聖堂へ改築されました。
フランスにおける聖母マリア信仰の影響の大きさを伺い知ることができます。
セーヌ川沿いを歩きながら チュイルリー公園へと向かいます。にシャンソンでも流れてきそうな風景
<世界遺産> パリのセーヌ河岸 Paris,rives de la Seine (1991年登録)
セーヌ川はフランスでロワール川(1020km)に次いで2番目の長さ(全長776km)。
“セーヌ” の名前の由来はケルト神話の泉と癒しの女神 “セクアナ” が語源といわれ、「ゆったりと流れる川」という意味があります。
旧王宮の司令官 「門衛(コンシェルジュ)」 がいた場所で、14世紀にフィリップ美男が建立した王宮の一部。3つの塔と3つの大広間からなります。
革命後は牢獄として使用され、2600人もの貴族、革命家、文学者らが収容された後、断頭台へと送られました。
マリー・アントワネットは 1793年8月2日~10月16日まで過ごしており、その時の独房が残されています。
1900年にオルレアン鉄道の終着駅として建てられた駅舎を 1986年にそのまま利用した美術館。19世紀の印象派作品を所蔵。
2011年10月20日に1年半に及ぶ改装工事が終了し、リニューアルオープンしました。
ルーヴル宮の西側に隣接。1563年にカトリーヌ・ド・メディシスの命で建設されたチュイルリー宮殿とイタリア式庭園がありました。アンリ2世によって養蚕場やオレンジ園(現・オランジュリー美術館)が設置。
1664年、ヴェルサイユ宮殿の設計で知られる庭師ル・ノートルによって整備され、中央に並木道が通る壮大な庭園となりました。
1683年に王宮はヴェルサイユ宮殿に移りますが、1789年のフランス革命の最中に再びチュイルリーに王宮が戻り、ルイ16世が捕らえられた後には国民公会、公安委員会の拠点として使用されました。
1871年パリ・コミューン鎮圧の最中に焼失しましたが、広々とした公園は現在、市民の憩いの場となっています。
今回のパリ観光で是非訪れたかった オランジュリー美術館へ。
前回パリに来た時はまだ改装中、2006年5月にリニューアルオープンしました。
1927年モネの『睡蓮』連作を展示するために整備された美術館。『睡蓮』ほか画商ポール・ギョーム夫妻と実業家ジャン・ヴァルテールのコレクション144点が展示されています。19世紀末から20世紀初頭の印象派からエコール・ド・パリにいたる近代絵画を鑑賞できます。
なんといっても モネの 『睡蓮 Nympheas』(1916~1926) が必見。
200×850(全幅) の大型絵画。モネ最晩年の渾身の大作です。
2つの展示室のうち、東室では朝の光で鑑賞すべき4作品を、西室では夕方の光で鑑賞すべき4作品を展示しています。
19世紀後半のフランスでは異国趣味が流行し、ジャポニスムの影響が一世を風靡しました。
モネもジャポニスムに傾倒し、浮世絵などを収集、ジヴェルニーの庭園には太鼓橋やしだれ柳など浮世絵の世界を再現し、温帯性の睡蓮の品種を日本から取り寄せました。
モネ生涯のライフワークでもあった 『睡蓮』 はそこから誕生したのです。
360度の睡蓮。まさに圧巻
池の中州にでも佇んでいるかのようです。
チュイルリー公園から コンコルド広場を望みます。
クリスマスツリーがありました。
観覧車が見えます。
コンコルド広場 Place de la Concorde
1775年 ルイ15世の騎馬像を飾るためにアンジュ=ジャック・ガブリエルによって整備された広場。
建設当時は「ルイ15世広場」と呼ばれ、1770年には王太子(後のルイ16世)とマリー・アントワネットの結婚式が執り行われました。
フランス革命時には「革命広場」と名を変え、ギロチンが設置され、ルイ16世&マリー・アントワネット国王夫妻、ロベスピエール、ダントンら1343人が処刑されました。
恐怖政治終焉後の1795年「コンコルド(調和)広場」と名を改め、1833年にエジプトから贈られた高さ25mのルクソール神殿のオベリスク『クレオパトラの針』別名『ルクソールオベリスク』が立てられました。
その左右にはバチカンのサン・ピエトロ広場を模した噴水があり、角にはフランス8大都市(マルセイユ、リヨン、ナント、ボルドーなど)を象徴する女神像が設置されています。
入場無料で セルフサービスのカフェがあるという、プティ・パレ美術館を見学コースに入れておいたので、そちらへ向かいます。
1900年 パリ万国博覧会の会場としてブラン・パレと向き合う形で
シャルル・ジロー設計で建設されました。
1902年に美術館となり、現在はパリ市の市立美術館として無料で一般公開されています。
無料ですが見ものはいっぱい古代ギリシアから近代絵画まで約4万5千点を所蔵しています。
エントランス。立派な天井画がありました。
アール・ヌーヴォー風の階段。ロダン作とおぼしき彫刻があります。
是非観たかった絵画。
ダ・ヴィンチは晩年、フランソワ1世の招きでフランスに赴き、その地で客死します。ダ・ヴィンチは亡くなるまでフランソワ1と大変親交を深めていたといいます。
セルフサービスのカフェ。
海外のレストランはメニューの内容とかよく分からないし、チップとかも面倒くさいので、私たちはよくこういう美術館のカフェを利用します。手軽だし、早いし。
中庭。
温かい季節でしたら、もっと色とりどりのお花とか 見られたかもしれません。
一通り 見回ったので、次なる訪問先へ。外に出ます。
こちらは向かいの グラン・パレ.。国立ギャラリーとして企画展を開催しています。
1900年のパリ万博の会場として建てられました。
イオニア様式の円柱が並ぶ正面に数々の彫刻が施されています。
セーヌ川に目を向けると、アレクサンドル3世橋が見えます。
1900年のパリ万博時に架設されました。1893年に締結された露仏同盟にちなみ、ロシア皇帝の名が冠されています。
橋の向こう側は アンヴァリット。ナポレオンの霊廟です。
シャンゼリゼ大通りから セーヌ川方面を望みました。
プティ・パレ、グラン・パレ、アレクサンドル3世橋、アンヴァリットが一望できます。
シャンゼリゼ大通りへ。
真っ白なマルシェ・ド・ノエル(クリスマスマーケット)の屋台が並んでいます。2008年から始まったそうです。
パリのマルシェ・ド・ノエルは パリ副都心のラ・デファンス地区の新凱旋門広場、エッフェル塔前のトロカデロ広場、サン・ジェルマン・デ・プレ地区のサンジェルマン教会前で開催されています。
シャンゼリゼ大通りのマルシェ・ド・ノエル(クリスマスマーケット)
シャンゼリゼ大通り
コンコルド広場からシャルル・ド・ゴール広場を結ぶ全長約2km、幅約70mの“世界一美しい”大通り。
16世紀まで野原と沼地しかなかった場所が、17世紀初頭 王妃マリー・ド・メディシスが<女王の散歩道>という、チュイルリー庭園から続くセーヌ川沿いの散策道を造らせました。
その後、ヴェルサイユ宮殿の造園を手掛けたル・ノートルが大遊歩道へと拡張。
やがて“ギリシア神話の楽園”という意味の「エリゼ」をとって、「エリゼの野(シャンゼリゼ)」と名付けられました。
現在、革命記念日(パリ祭)の軍事パレード、ツール・ド・フランスのゴール、クリスマスイルミネーションなど年間を通じて多くの大イベントが開催されています。
ロワイヤル通りへ。
途中、左手にマキシムがあります。
“ベル・エポック=良き時代” のシンボル的な伝説のレストラン。
小説家のマルセル・プルーストや、プレーボーイで名を馳せたエドワード7世たちが常連だったといいます。
「それは素敵なことだ。誰もが余を知っているのに、誰も余に気付く者はおらぬ」(エドワード7世)
オペレッタ『メリーウィドウ(陽気な未亡人)』や、バレエ『こうもり』、映画『恋の手ほどき』 などにも登場、パリの夜の社交界の華やかさを偲ぶことができます。
突き当りにある マドレーヌ教会に入ります。
パルテノン神殿みたいな外観。
コリント式円柱が52本取り巻く古代ギリシア・ローマ神殿を模したネオクラシック(新古典主義)様式です。
マグダラのマリアを守護聖人とするカトリック教会。
1764年 ブルボン朝ルイ15世の統治下で建設が始まりましたが、フランス革命で中断。1806年 ナポレオンの命でフランス軍戦没将兵顕彰に造営目的が変更されて、ギリシア神殿風の寺院に建て直されることになりました。ナポレオンが失脚し、1814年 ルイ18世によってカトリックの聖堂になるように決定が下され、その後紆余曲折を経て、1842年に教会として完成しました。
教会内部
主祭壇にはマグダラのマリアが。
マグダラのマリアとは、イエスに従い、イエスの死と復活を見届けた女性。小説 『ダヴィンチ・コード』 でもおなじみです。
19世紀の彫刻群が充実している教会です。
歴代のオルガン奏者は著名な演奏家・作曲家で占められ、その一人である ガブリエル・フォーレが『レクイエム』を初演しました。
そろそろ日が暮れてきたので、シャンゼリゼ大通りのイルミネーションを見に戻ろうと思います。
イルミネーションがキラキラ イイ感じになってきました。
途中、ラデュレの本店が。