退院はもう少し数値がよくなってから、
ということだったが
年末年始に二泊三日の外泊許可をもらった。

今までなら絶対出してもらえないような病状だったが
恐らく最後になるであろう年越しを
家族で過ごせるように、
との医師の図らいだった。

愛犬は喜んで跳ね、
ニカ月ぶりの孫は倍に成長していた。

盆と正月は毎年愛知に行っていたが、今年は義父が奈良に来てくれた。


息子と妻に先立たれ
米寿を過ぎた義父は
義理の息子に
「俺が変わってやりたい」
とうつむいた。

孫が大きすぎて、基礎体力のないTは膝の上に載せてあやすのが精一杯だった。
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小さい頃の次女によく似ている。
家族はTに似ていると言うが、
自分ではよくわからない。

ほったらかしに伸び放題だった髪を
庭で長女に切ってもらった。

冬の青空が気持ち良かった。

長女はあまり話さなかった。
「さんざんこの仕事に反対やったけど、サッパリしてもらって嬉しいやろ。」
と笑った。



2013年を迎え、長女が年越しそばを作ってくれた。
ここ数年は、三女とそばを食べながら年を越してきた。

外泊を終え、病院に戻ると
また熱が出た。

「Tさん、男前になりましたねぇ」
と、看護師に言われ
「長女に切ってもらったんですわ」
とTは嬉しそうに笑った。



左眼がかゆくて擦ったら
白眼の毛細血管が破れて出血した。

眼の中は真っ赤になり、涙袋の上に血豆のようなものができた。
眼の周りが殴られたみたいに青紫に内出血していた。

長女が家を出た時もこんな顔だった。

Tは、これまでも長女と話しているときに、
あの時の長女の顔を思い出すことがあった。

見覚えのあるTの内出血を見て
長女は「気持ち悪~」とからかった。

「悪行を積むとこうなるんだ」
とTがおどけて言ってみたら、

「別に何も悪いことしてないやん。」
と、長女は笑った。

長女にとって
あんな出来事は既にただの昔話だったが
「もう気にしなくていいよ。」
と、長女は父に言えなかった。


成人病センターには眼科がないため、近くの眼科に妻とタクシーで行った。

検査の結果、
幸い眼底出血はしていなかった。

帰りのタクシーをロイヤルホストで降りた。
順番待ちをしていたので、Tの体調を心配した妻が
「病院に戻ろう」と言ったが、
Tは聞き入れなかった。

ハンバーガーとポテトをペロリと食べた。
妻は半分くらい残した。

ロイヤルホストから病院まで歩かなければいけないが、
タクシーに乗るほどの距離ではない。

歩くのもヨロヨロするようになってきていた。
Tの手を握って、妻が支えて歩いた。

「手を繋いで歩く老夫婦」
とは程遠いような夫婦だったが
期せずして手を繋いで歩くことになったのは、
運命の皮肉なのか。

「あれが最後の外食だった」
と、後に妻は回顧する。

外食と言えばファミレスばかりだったTは、
最後の外食もファミレスだった。

暫く熱が下がるのを待ったが
そんな兆しもないので、早々に退院することになった。

白血病になってからは、本当に進行が早いのだと言う。

残りの時間が三月までとして
それまでにやるべきことをやっておかなくては。

Tはそう考えていた。
クリスマス前、
骨髄異形成症候群から
急性骨髄性白血病に移行した、
と告げられた。

前にも記したが
骨髄異形成症候群から急性骨髄性白血病に移行した場合
健康な身体から白血病を発症するより治りにくい。

一般的なイメージで
急性骨髄性白血病などという病気は
まず非現実的な病気だし、
移植→死という連想さえ持つだろう。

そんな病気より治りにくいというのだ。

「思ったより(進行が)早かったですね。」
Tは医師に哀しそうに言った。

再度移植をする体力が残っていないTにとって、
これは末期宣告だった。

「こういうことだろ。」

ショックで言葉も出ない妻に向かって
Tは手のひらを天に向け、肩をすくめて
お手上げ、とばかりにおどけて見せた。

妻が帰ったあと、三女が仕事終わりに駆けつけた。

ベッドに座ってぼんやりしていたTは、
「母さんに聞いたか。」
と、三女を見て力なく言った。

三女は泣いた。

Tも泣いた。


Tが家族に涙を見せたのはこの時だけだ。

Tの涙は、三女しか知らない。

うつむいて泣いていた顔を上げ、

「あと三ヶ月で結婚するのは無理だな?」

と言って、少し笑った。

短くて一ヶ月、長くて三ヶ月の余命、と言われていた。

真面目な話が苦手な、Tの精一杯のジョークだったが
娘の幸せを見届けてやれない悔しさは、
三女に痛いほど伝わった。

残された時間をどう過ごすか。

入院し、様々な抗癌剤治療で病気と闘って一年。

白血病細胞の増加を遅らせながら、
輸血を主に置いて1~3ヶ月。

Tがどちらを選択するか、誰が見ても明らかだった。


もう、家に帰ろう。

憔悴した家族の誰も、
異論を唱えなかった。


医師には、あらゆる延命治療をしないで欲しいと頼んだ。

自分がどういう風に死ぬのか気になった。

感染症か、内臓出血か、脳内出血か。


痛いのや苦しいのは、
もう十分味わった筈だが
死ぬ時はもっと苦しいのだろうか。

病気になってからずっと、
妻や娘たちと別れ際にぎゅっと握手をする。

これが最後かもしれない、
と毎回思う。

Tが生きている温かさが、
それぞれの手に残る。

ある日、妻が突然、認知症の母を連れてきた。

母の認知症はかなり進んでいて
自分が息子を産んだのかさえ、
記憶が曖昧になることもあった。

もちろん病気のことは以前から何度も説明している。
母は鉛工場の鉛毒が原因かとずっと泣いていたが
帰りの車の中ではすっかり忘れてしまう。

忘れてしまえるということは、
この状況では幸せなことなのかもしれない。

Tは、母を連れてきた妻に怒った。

自分の弱っている姿を見せたくなかったのか。

なぜあんなに怒ったのか
その理由はT以外誰も知らない。

病気の事を忘れてしまっているTの母が、
「親より先に死んだらあかんよ」
とTの瞳をじっと見つめて言った。

Tは、小さく
「あー、はいはい。」
と応えた。

Tが母に会ったのは、これが最後だ。

退院してから、自分が母を見舞いたかったのか。

何もかも忘れてしまう母には
せめて元気な自分を覚えていて欲しかったのか。

今となっては、誰にもわからない。
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11月、長女夫婦がオランダ旅行に行った。
Tがまだ安定していた頃に計画したものだったので、
入院が決まったことで中止にしようとした。

Tも妻も、行って来い、と背中を押した。

この病気のために、やりたいことを諦めて欲しくなかった。
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退屈な入院中、遠いヨーロッパからの画像付きの便りは
Tにとっても楽しみだった。


三女は、病室で昼飯を食べて行ったりする。
食事を制限されているTの目の前で、美味しそうなものを食べる。

末っ子の無邪気な性格に、何度も気持ちが救われた。

三女とは、一番よく話をした。

「仕事はどうだ?」と、病室でも電話でもTは尋ねた。
社会に出て二年目の三女は、いつも会社や営業の愚痴を言う。

「お前の会社はいい方だ。世の中には、もっと辛い環境で働いている人がたくさんいる。」

自分以外の家族は皆、手に職をつけている三女にとって
いつでも職場を変わることができる父の言葉は
ただの理想論に思えた。

会社のために、時にやりたくないこともしなければならい辛さなど、
父にはわからない。

そう思ってTの言葉を聞き流していた三女だったが
長年社会に揉まれて働いてきた筈の父が
なぜこんなに仕事に対して誠実なのか、だんだん不思議に思えてきた。

あるとき、Tの職場とのやりとりのメールを見る機会があった。

そこには
復職したいというTの強い気持ちと
職場で起こっている問題を常に気にかけ、
何も出来ないもどかしさと申し訳なさが綴られていた。

今日、死ぬかもしれないという状況の中で
突然発症したことでやり残してしまった仕事のことをいつも考えてきた。

頑固で信念を曲げないTは、決して世渡り上手ではなかった。

臨床の現場が疎かにされれば、利益重視の上司とぶつかってきた。
そのために煙たがられ、居場所が無くなることもあったが
そんなTを理解し、慕ってくれる仲間たちもたくさんいた。

最後の職場は、目標を持てなかったり、社会に馴染めない若者たちを
理学療法士という道に導く仕事だった。

たくさんの若者と向き合ってきたからこそ
教育者として、社会に出て間もない三女に伝えたいことがあった。

三女は愚痴を言わなくなった。

少しでも明るい話ができるよう一生懸命仕事をした。

父のように、辛いときも負けない人でありたい。

真面目にやれば、結果が出る。
配置一年目の営業成績が全国5位になった。
明るい報告が増えたことと、初めて仕事で父に認めてもらえたことが嬉しかった。


いつまでも移植前の細胞が居座るので
もともとの細胞をやっつけるため分子標的治療を始めたが
これによって新しい造血細胞もダメージを受けているようだった。

白血球が作れず、原因不明の熱が続く。
赤血球も血小板も連日輸血しなければならなかった。

これが12月まで続いた。
季節は、いつの間にか秋から冬に変わっていたが
病室では冬の寒さがわからなかった。

妻は相変わらず足繁くやってくる。
随分薄いコートを着て、寒い寒いとぼやいてる。

そう言えば、もうすぐ妻の誕生日だ。

Tは妻にプレゼントを贈るような男ではなかった。

最後に何かをプレゼントしたのがいつだったか、
Tも妻も覚えていなかっただろう。

「形見になるようなコートを選んで欲しい」

自分で買いに行けないので、三人の娘に頼んだ。
ヘソクリがいくらか残っていたはずだった。
大した金額ではなかったが、妻のいつもの上着よりは
いくらかいいものが買えるだろうと思った。

こんなことなら、自転車を買わないでおくんだった。
生涯現役のつもりだったTにとって、こんなに早い時期でのリタイヤは誤算だった。


長い入院生活の中で、Tは正気を保ち続けた。

もう随分前から、いつ脳内出血で死んでもおかしくないと言われてきた。

死と隣り合わせの生活が
もうすぐ二年になる。

一回8万円の血小板輸血を毎日。
俺が死ねば金がかからないのに、と思えてくる。


Tが弱音も吐かず、辛い治療に耐えているから、
家族もまたそんなTの姿に支えられてきた。

背後にある大型の空気清浄機の音だけが響く個室のベッドで
1人ぼんやりしていることが増えても
Tは壊れなかった。


目論んでいた年明けの復職も叶わなさそうだった。

年越しも、恐らく病室だろう。

愛知県の義理の父が淋しがるから、
家族はそっちで年越しをするように、と頼んだ。