退院して一週間、目に見えて父は弱っていきました。
トイレができなくなった時の父を
私は一生忘れないと思います。
頑張ってきた父に
あんな顔はさせたくなかったのに。
仕方ないこととは言え、心残りです。
葬式はできるだけ簡素に
というのが父の遺言でした。
家族葬で、無宗教で、通夜も要らない。
現役で逝かねばならなかった父が
出来るだけ母にお金を残してやりたい、という気持ちでした。
通夜をしないわけにはいかず、
葬式の間が持たないため無宗教も適いませんでしたが、
ここでやりたい、と言っていた小さな会場にお願いしました。
父を知るたくさんの人に、見送りをさせて欲しいと言っていただきましたが、
辞退させていただきました。
重度の貧血状態で、数日間入浴ができなかった父の湯灌をお願いしました。
温かいお湯で、丁寧に洗ってもらい、無精髭を剃ってもらいました。
洗顔してもらうと、顔に艶が戻りました。
この数ヶ月で1番、良い顔色になりました。
私が美容の仕事をしていると知って、
スタッフの方がドライヤーを貸してくださいました。
父の、天然パーマの細い毛を
丁寧にブローしました。
私の天パは父から受け継いだもので
思春期には随分父をうらみました。
父と結婚した母もうらみました。
20代からは、自分の天パが好きになり
今では有り難くさえ思っています。
そんな父の髪を触りながら
泪が止まりませんでした。
いつも身だしなみをきちんとしてきた父らしく
男前な自慢の父に仕上げました。
自分を貫き
全力で病気と闘い抜き
やりたいことをたくさんやって
太く短く生き抜いた父の亡骸は
静謐に
堂々と横たわっていました。
身体じゅう、内出血だらけになっていました。
左目には、結膜下出血の内出血がまだ残ったままでした。
メイクで隠すこともできましたが
父が闘ってきた証なので残しておきました。
最期の顔にこんな痕が残るなんて、何かの因果なのでしょうか。
私との大バトルを死ぬまで後悔していたと末妹に聞いて
ちゃんと「気にしてないよ」と言っておけばよかったと思いました。
あの引越しの日、素直に謝れずにお金だけ渡して来た時は
ちょっと笑ってしまいました。
口下手で不器用で
時には手が付けられない暴れん坊でした。
キャッチボールをしていても
子ども相手に豪速球を投げてくる、
大人気ない父親でした。
休日に遊んでもらうことは滅多にありませんでしたが、
何よりも没頭できる趣味を持つ父を
子どもながらに自慢に思っていました。
夫は通夜の席で、
「結婚の話をしに行く時
どんなラオウやと思って殴られるの覚悟してたけど、
会ってみたらケンシロウやった」
と明るく話しました。
父もまた、私に振り回される夫をいつも心配していました。
「俺ならあんなヤツ絶対嫁にしたくない」
と言っていましたが
私もまた、
「お父さんみたいな人とは絶対結婚しない」
と決めていました。
時には息子がいることを忘れるほど、認知症が進んでいた祖母は
葬儀の間、ずっと息子の名前を呼びながら、顔を撫で続けました。
子どもに先立たれた母の顔は、いつ見ても辛いものです。
認知症の祖母を連れてきたところで。
と、みんなどこかで思っていました。
実際、いつもは息子の病気のことも忘れていました。
でも、来てもらってよかったと思いました。
葬儀の一日、何も忘れることなく
祖母は、母として、息子の最期を見送りました。
病気になる前の私たち家族は、
仲は悪くないけれど
みんな見つめている方向がバラバラだったように思います。
父が発病し、初めて家族が家族としての絆を感じることが出来ました。
家族全員が、
不運だったけど、不幸ではない。
と思っています。
何となく過ぎる10年より、ずっと深く濃い大切な2年でした。
父は、2年間、自暴自棄になることなく、闘い抜きました。
何度も期待しては裏切られました。
私だったら、間違いなく最後まで闘えなかった病気です。
如何に職場で信頼されていたのかということも
初めて知りました。
周りの人が困っている時に、力を貸せる力を持ちたい。
周りにいる人たちを見て、そう思うようになったのですが
何てことはない、父もまたそんな人でした。
死ぬその日にわかってもらえるなんて
最後まで不器用なひとです。
職場に荷物を引き取りに行くと
父の机に、
私が中学の授業で作った本立てが置いてありました。
「これ、誰が作ったと思います?」
と、嬉しそうに聞いてきたものですよ。
と、職場の方が教えてくれました。
母の体調不良の検査結果が良くなかったときには
「まだ、幸せにしていない」
と友人にこぼしていたそうです。
家での父とは違い
職場では家族の話をよくしていたことも
ぜんぶ
父が居なくなってから初めて知りました。
葬儀の日は、それはもう気持ちよく晴れた冬の空でした。
アモとじっと空を見上げました。
こんな日は、カヌーやら自転車やら、必ず出かけていました。
雨だろうが寒かろうが、関係ない人でした。
火葬場までの道、父の後ろを愛車のビッグホーンで走りました。
父は自分が見送るつもりでいましたが、
可愛がってくれた御礼にビッグホーンが見送ってくれたのでしょうか。
車屋さんのお兄さんが
ちゃんと父にお線香をあげて
いい人が買ってくれるよう頑張ります!
と、何度も言ってくれました。
きっと父も安心しているでしょう。
本当にしんどい病気でした。
医療関係者の人が、口をそろえて
「この病気は本当にしんどい」と言うほどでした。
誰も、何も責められない病気に対して
父は自分で答えを見つけ
私たちにこう言いました。
「交通事故に遭ったと思え」。
過去を振り返り
地面を見つめて自問自答を繰り返していた母は
この言葉でいくらか気持ちの整理が付いた、
といいます。
闘病中、ずっと懸念されていた脳内出血も感染症も
最後まで起こりませんでした。
造血細胞以外、父は健康そのものであり
他の臓器は何の問題もありませんでした。
血液を造る、
ただそれだけのことができなかったのです。
iPS細胞があと10年早ければ
と、本気で思います。
骨髄異形成症候群という病気が、
一日も早く、「治る病気」になりますように。
こんな思いをする人が、いなくなりますように。
切に願っています。
アプには会えましたか。
吉野の風を感じることはできましたか。
あなたの愛した吉野川に
骨を流してあげられたらいいのに。
住人の方にはとんだ迷惑に違いないけれど
あなたは墓の中で大人しくしていられるような男ではない。
あ、病院に行かなくちゃ。
と思うことがあります。
もう、行かなくてよいのです。
四十九日が終わったら
何処かの夫婦の子どもに生まれ変わって
大切に、いっぱい愛してもらえますように。
父と関わり
父の為に泣いてくださった
全ての方に感謝します。