二月に入り
東京に戻り

何だか夫婦揃って忙しい

私が早朝から仕事やったり
夫が朝方帰ってきたり

すれ違い生活で顔を合わさない日も

夫は寝不足MAX

そんな昨日

私の仕事終わりで
夜ご飯を最寄り駅で食べようと約束した筈が

1時間待っても連絡が取れず

事故にでもあったのか?
何処かでぶっ倒れてるのか?

珍しく結構心配になり

その日夫と一緒に仕事していた人に電話すると

「いま旦那さんと飲んでるよ~!
ゴキゲンだよ~!」


…。


へぇ。

「ちょっと代わってもらっていいですか?」

「あ、もしもし?
え?約束?
してたっけ?」


…。


「もう(一生)帰って来なくていいです」

大慌てでタクシーで夫帰宅


「なんか、上手く伝わってなかったみたいでごめんな」


…。


私の勘違いということにしたい様子。


ふん。
そういうことならもうよろしい。


「一万円」←私

「え?」←夫

「くたくたのところ1時間寒い駅で待たされたけど
それはうちの勘違いやった、てことにしてあげるから一万円頂戴。」


私以上にクタクタに疲れているであろう夫を
この緊張感から一刻も早く解放してあげようという私の優しさ。


「わかった!」
と、妻の理不尽な要求を
チキンでポジティブな夫は快諾。


無事に事なきを得た夫婦。


「そいや、明日朝早いし仕込みしてないから弁当作られへんけどいい?」

何事もなかったかのように尋ねると


「全然いいよ!
一万円で。」


…。


コンニャロメ。


そんな夫のばあちゃんから
手描きの文が届く。
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仕事がなければ音楽を聴いて過ごす日々。





退院して一週間、目に見えて父は弱っていきました。

トイレができなくなった時の父を
私は一生忘れないと思います。

頑張ってきた父に
あんな顔はさせたくなかったのに。

仕方ないこととは言え、心残りです。


葬式はできるだけ簡素に
というのが父の遺言でした。

家族葬で、無宗教で、通夜も要らない。
現役で逝かねばならなかった父が
出来るだけ母にお金を残してやりたい、という気持ちでした。

通夜をしないわけにはいかず、
葬式の間が持たないため無宗教も適いませんでしたが、
ここでやりたい、と言っていた小さな会場にお願いしました。

父を知るたくさんの人に、見送りをさせて欲しいと言っていただきましたが、
辞退させていただきました。


重度の貧血状態で、数日間入浴ができなかった父の湯灌をお願いしました。

温かいお湯で、丁寧に洗ってもらい、無精髭を剃ってもらいました。

洗顔してもらうと、顔に艶が戻りました。

この数ヶ月で1番、良い顔色になりました。

私が美容の仕事をしていると知って、
スタッフの方がドライヤーを貸してくださいました。

父の、天然パーマの細い毛を
丁寧にブローしました。

私の天パは父から受け継いだもので
思春期には随分父をうらみました。
父と結婚した母もうらみました。

20代からは、自分の天パが好きになり
今では有り難くさえ思っています。

そんな父の髪を触りながら
泪が止まりませんでした。

いつも身だしなみをきちんとしてきた父らしく
男前な自慢の父に仕上げました。


自分を貫き
全力で病気と闘い抜き

やりたいことをたくさんやって
太く短く生き抜いた父の亡骸は

静謐に
堂々と横たわっていました。


身体じゅう、内出血だらけになっていました。
左目には、結膜下出血の内出血がまだ残ったままでした。

メイクで隠すこともできましたが
父が闘ってきた証なので残しておきました。

最期の顔にこんな痕が残るなんて、何かの因果なのでしょうか。

私との大バトルを死ぬまで後悔していたと末妹に聞いて
ちゃんと「気にしてないよ」と言っておけばよかったと思いました。

あの引越しの日、素直に謝れずにお金だけ渡して来た時は
ちょっと笑ってしまいました。


口下手で不器用で
時には手が付けられない暴れん坊でした。

キャッチボールをしていても
子ども相手に豪速球を投げてくる、
大人気ない父親でした。

休日に遊んでもらうことは滅多にありませんでしたが、
何よりも没頭できる趣味を持つ父を
子どもながらに自慢に思っていました。


夫は通夜の席で、
「結婚の話をしに行く時
どんなラオウやと思って殴られるの覚悟してたけど、
会ってみたらケンシロウやった」
と明るく話しました。

父もまた、私に振り回される夫をいつも心配していました。
「俺ならあんなヤツ絶対嫁にしたくない」
と言っていましたが
私もまた、
「お父さんみたいな人とは絶対結婚しない」
と決めていました。


時には息子がいることを忘れるほど、認知症が進んでいた祖母は
葬儀の間、ずっと息子の名前を呼びながら、顔を撫で続けました。

子どもに先立たれた母の顔は、いつ見ても辛いものです。

認知症の祖母を連れてきたところで。
と、みんなどこかで思っていました。
実際、いつもは息子の病気のことも忘れていました。

でも、来てもらってよかったと思いました。
葬儀の一日、何も忘れることなく
祖母は、母として、息子の最期を見送りました。


病気になる前の私たち家族は、
仲は悪くないけれど
みんな見つめている方向がバラバラだったように思います。

父が発病し、初めて家族が家族としての絆を感じることが出来ました。
家族全員が、
不運だったけど、不幸ではない。
と思っています。

何となく過ぎる10年より、ずっと深く濃い大切な2年でした。

父は、2年間、自暴自棄になることなく、闘い抜きました。

何度も期待しては裏切られました。

私だったら、間違いなく最後まで闘えなかった病気です。


如何に職場で信頼されていたのかということも
初めて知りました。

周りの人が困っている時に、力を貸せる力を持ちたい。

周りにいる人たちを見て、そう思うようになったのですが

何てことはない、父もまたそんな人でした。

死ぬその日にわかってもらえるなんて
最後まで不器用なひとです。

職場に荷物を引き取りに行くと
父の机に、
私が中学の授業で作った本立てが置いてありました。
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「これ、誰が作ったと思います?」
と、嬉しそうに聞いてきたものですよ。

と、職場の方が教えてくれました。

母の体調不良の検査結果が良くなかったときには

「まだ、幸せにしていない」
と友人にこぼしていたそうです。

家での父とは違い
職場では家族の話をよくしていたことも

ぜんぶ
父が居なくなってから初めて知りました。


葬儀の日は、それはもう気持ちよく晴れた冬の空でした。
アモとじっと空を見上げました。
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こんな日は、カヌーやら自転車やら、必ず出かけていました。
雨だろうが寒かろうが、関係ない人でした。


火葬場までの道、父の後ろを愛車のビッグホーンで走りました。

父は自分が見送るつもりでいましたが、
可愛がってくれた御礼にビッグホーンが見送ってくれたのでしょうか。

車屋さんのお兄さんが
ちゃんと父にお線香をあげて
いい人が買ってくれるよう頑張ります!
と、何度も言ってくれました。

きっと父も安心しているでしょう。


本当にしんどい病気でした。
医療関係者の人が、口をそろえて
「この病気は本当にしんどい」と言うほどでした。

誰も、何も責められない病気に対して

父は自分で答えを見つけ
私たちにこう言いました。

「交通事故に遭ったと思え」。

過去を振り返り
地面を見つめて自問自答を繰り返していた母は

この言葉でいくらか気持ちの整理が付いた、
といいます。

闘病中、ずっと懸念されていた脳内出血も感染症も
最後まで起こりませんでした。

造血細胞以外、父は健康そのものであり
他の臓器は何の問題もありませんでした。

血液を造る、
ただそれだけのことができなかったのです。

iPS細胞があと10年早ければ
と、本気で思います。

骨髄異形成症候群という病気が、
一日も早く、「治る病気」になりますように。

こんな思いをする人が、いなくなりますように。
切に願っています。



アプには会えましたか。

吉野の風を感じることはできましたか。

あなたの愛した吉野川に
骨を流してあげられたらいいのに。

住人の方にはとんだ迷惑に違いないけれど
あなたは墓の中で大人しくしていられるような男ではない。


あ、病院に行かなくちゃ。
と思うことがあります。

もう、行かなくてよいのです。



四十九日が終わったら

何処かの夫婦の子どもに生まれ変わって

大切に、いっぱい愛してもらえますように。



父と関わり
父の為に泣いてくださった
全ての方に感謝します。
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1月14日、月曜日。

全く横になることができないまま、朝が来た。

夜中じゅう、布団を膝の上に抱えて
座ったまま布団に顔を埋めてうとうとした。

浅い眠りがやって来ると
身体が傾いて壁やベッドの柵に頭をぶつけそうになる。

ほんの少し当たっただけで、脳内出血の危険がある。

次女は、一晩中孫を見ながら
Tの側で頭をぶつけないよう起きていた。

「もういいから寝なさい」
Tは次女に何度も言った。


今日はずっと意識が朦朧としている。
熱があるからなのか
寝不足だからかわからない。

座ったまま目を閉じて、背中が痛くなって目が醒める。

枕にクッションに毛布に
あらゆるものでTの身体をなるべく優しく支えようとしたが
何をやっても身体が痛い。

恐らく激痛だっただろうが
Tは「ちょっと、痛い。」
と顔をしかめるだけだった。

何かを食べる元気がない。
カロリーメイトのゼリー状のやつを少し口に入れた。

昼過ぎに、長女が仕事から帰って来た。

「お父さん、帰って来たよ。」
長女が声をかけたが、Tは何も言わなかった。

午後、長妹夫婦と姪っ子、姪っ子の赤ちゃんが見舞いに来た。
座ったまま会釈をして、また目を閉じた。
ろくに会話もできないTを見て、長妹は涙を浮かべた。

夕方には、前の職場の後輩が2人やってきた。

変わり果てたTの姿に、2人は泣いた。

「T先生に大学院行けって、背中押してもらって、感謝してます。
まだまだ研究を続けます。
先生、ありがとうございます。」
Tの耳許で、大きな声で彼女は言った。

Tにはもう、目を開ける力が残っていなかった。

小さい声で、
「今までありがと」
と言って

もう一度短く
「ありがと」

と言った。

Tの最後の言葉を、妻と長女と次女は聞いた。

この時は、これが最後の言葉になるなんて、誰も思っていなかった。

寝不足だから、今日はしんどいのだ。
明日は少し元気になるだろう。

そう思っていた。

家族が声をかけても、返事をしなくなった。
痛みにだけ、顔をしかめる。

朝の5時半から排尿していない。
熱は40度を超えていた。

往診の医師に来てもらった。
今日か数日でしょう、と医師は言った。

救急車で病院に搬送しますか。
それともこのまま自宅で最期を迎えますか。

医師は家族に聞いた。

「ヘルパーさんに来てもらってでも、最後まで家に居たい。」
この日の朝、朦朧とした意識の中で、Tは妻に告げていた。

「家で看取ります。」
妻は医師にそう言った。


Tは座って俯いたまま、もう動かない。


Tが昏睡状態であること確認して、身体を横にした。

あんなに痛がっていたのが嘘のように
穏やかに息をしている。

酸素はいつの間にか、最大値の5Lになっていた。

やっと、横になれたね。
よかったね、おとうさん。

涙を流しながら、声を掛け続ける。
聞こえていると、信じたい。

時折あくびをするから、ただ眠っているように見える。


夜、30年来のTの職場の友人と、仲間たちが見舞いに来た。

数日前まで、普通に電話をしていたのに、
と、仲間たちは泣いた。

「T先生が今の職場に引っ張ってくれたお陰で、本当に仕事が楽しいです。
先生、ありがとうございます。大好きです。」
きっと聞こえている筈、と、仲間は耳許で何度も叫んだ。

「たくさんの人が見舞いに来たいと言ったけれど
出来るだけ少人数に絞って来たんです。」
と、仲間たちは妻に伝えた。

仕事のことを、何も話さない夫だった。
家族に煙たがられているように、職場でも浮いてるんだろう、と
娘たちは思っていた。

字は下手だし
声は小さいし
先生なんてできるわけないと小馬鹿にされていた。


夫は
父は

こんなにも人から必要とされていた。

彼が復職だけを切に願って頑張ってきた理由を
家族はやっと知った。

病気がよくなっても、仕事は辞めて、のんびりしよう。
妻はTにいつもそう言っていた。

もっと仕事をさせてあげられたらよかった。

妻は自分を責めた。


Tは眠り続ける。

最後に、行きたいところへ行っているのだろうか。

下関へは、行けたろうか。
父と語り合い、あんなに帰りたかった故郷を感じることはできただろうか。


愛知の義父に挨拶はできたろうか。
病気になる前
「俺が養子になって、豊田で暮らす」
と言って、離れを改築して準備までしていた。

義父を悲しませてしまったことが、Tは辛かったに違いない。


呼吸が変化する。

深く

ゆっくり

だんだん、呼吸のペースが遅くなる。

こんなに早く。

家族の誰もがそう思った。
必死でTを呼ぶ。
愛犬の頭にTの手を載せてやる。

「アモの最期を、看取ってやれないなぁ」
そんなことも、Tの心残りだった。



呼吸が数秒おきになる。

2秒空いて

深く息をする。

それが5秒になる。

7秒になる。


今の呼吸が最後かもしれない、と、家族は何度も思う。


Tが何かを云おうとしたのか

生理現象なのかはわからない。

明らかに呼吸とは違う、

「あ」

と言って

Tは呼吸をやめた。

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