広島に生まれて45年が経ち
知っていたようで知らなかった広島市内の味
今まで何も味わうことなく歩いてきたけれど
全国旅で育んだ“本質眼”でもう一度広島市内を見てみたら
広島市内には全国に誇れる“ぶちうま”があった
2017年春から、もう一度広島市内を見つめて行こう思います
本日は広島市南区出汐にある【旧陸軍被服支廠】を観ます
放浪日:2017年11月11日
東城町にある【ヤマモトロックマシン施設群】を歩いた時に
広島に【たてものがたりフェスタ】という
広島県主催のイベントがあったことを知りました
建築ヲタクなあもんにとっては、大興奮な見学会である為
迷うことなく見学会に申し込みをしました
11月11日は“公共建築の日”だったのですね!
そしてこの日は、【あもんの誕生日】でもあります!!!
あもんが建築ヲタクになったのも運命だったのですか?
さて、【たてものがたりフェスタ】にあもんが初参加するの建物は
【旧陸軍被服支廠】としました
【旧陸軍被服支廠】とは、原爆に耐えた建物であって
現在では“被爆の証人”となっている平和遺産です
爆心地からは2.67㎞の所にあります
【旧陸軍被服支廠】は1905年(明治38年)に陸軍被服廠広島出張所として開設され、明治40年に支廠として昇格しました
創設当時は全国に東京、大阪とで3か所だけ存在し、連携を取りながら業務を行っていました
広大な敷地内に13棟の建物が存在していたそうです
現存している4棟の倉庫は1913年(大正2年)に竣工した建物です
“被服廠”とは軍服や軍靴を製造する機関で
その他、取り扱っていた品目は、マント、下着類、帽子、手袋、靴下、背嚢(リュックサック)、飯盒、水筒、布団、毛布、石鹸、小刀、軍人手帳等の雑貨まで含まれていました
大正昭和時代に戦線が拡大すると、武器や戦備の多様化に対応して、防寒服、防暑服、航空隊用被服、落下傘部隊用被服、挺身隊用被服、防毒用被服なども取り扱うようになりました
その後、 被服支廠では軍服の縫製と軍靴の製造が主となり、その他の製品は民間企業に委託され、受発注業務、品質管理、貯蔵、配給業務を主として行っていたそうです
見学会が開催されました
思った以上に多くの人が参加していました
始まりは黙祷からでした
現在建物は、広島県が3棟、国が1棟所有しており、普段は公開されていません
その理由は見学施設としての整備が整っていないからです
内部見学は見学会のみで開催され、ヘルメットが必要です
広島県は古い建物なので、安全に関して気にしているのです
見学会は“被服廠保存の会”の会長の挨拶となりました
実は会長は被爆体験者であって、この場所で被爆された方でした
続いて話は、会長の被爆体験談となったのでした
会長が被爆したのは14歳の時、中学生の学徒動員でした
彼は物資をこの建物の倉庫に入れるのが仕事だったそうです
当時の流れとして、中学生も戦地へ向かっている国だったので
彼も沖縄の戦地へ連れていかれるんじゃないか?と思っていました
小さな体ながらも大人たちと国への抵抗心もあったみたいです
その小さな抵抗は、仕事をストするということだったみたいです
仲間と仕事をストし大人たちをちょっと困らせましたが
後にそれは過酷な労働へと返ってくるだけだったそうです
被爆の瞬間は空の全てが光りましたが
ドンという音は一瞬だったので聞こえなかったみたいです
その後、爆風、熱風、竜巻と放射線がここまで襲ってきました
爆風で建物が数センチ動いたのか?と思うほど強烈だったそうです
当時この建物に居たのは約1500人
その内、学生は150人ぐらいだったみたいです
『やられた~やられた~』と血だらけの人
『あついあつい!』と火傷まみれの顔の人
そんな被爆者が周りに沢山現れたそうです
会長は幸運にもエアーポケットに入ったみたいで、無傷でありました
無傷な彼には『助けてください~』と多くの人から声が掛かりますが
もちろん、どうすることもできない中学生でありました
見えるモノすべてが地獄絵図の様な世界の中で
若き中学生の脳裏には恐怖しか感じなかったのでしょう
その地獄絵図は強烈すぎて詳しくは記憶に残らなかったようです
ただ一つ、被爆者は“おもらし”をしていたという記憶が残っていました
白い水の様なおもらしだったそうです
後に知ったことですが、それは小便ではなく
放射能で破壊された内臓が出ていただけだったみたいです
広島市内は被爆後100時間は放射能が残っていたと後に知りました
これにより、入市被爆も発生していたことも当時は誰も知りませんでした
会長の本心は“この建物の中に土足で入って欲しくない”ということでした
でも、会長は今ここで見学会を開催してくれています
続きます