高知市を歩く1~土佐の偉人さんの家を偶然見つけたきに!の巻~ | あもん ザ・ワールド

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君へと届け 元気玉

放浪日 2016429

 

 

ごめん町というマニアックな町を出たあもんは

有名観光名所である“桂浜”まで車を走らせていた

スケジュールは、ごめん町が面白すぎたので押しぎみだ

しかし、ナビが教えてくれる最短ルートで急いでいた所で

あもんは急に車を止めることになった

 

 

 

 

 

『なに!武市半平太の史跡だと!!』

 

武市半平太とは土佐藩郷士で土佐勤王党の盟主であった偉人である

1861年、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬等の同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成した

彼は攘夷のために土佐藩参政の吉田東洋暗殺を指令したと言われている

その後、藩内クーデターにて藩政の実権を掌握し、京に進出する

上洛後は他藩の志士たちと関わる一方で、朝廷工作に奔走する

1863年、会津藩と薩摩藩が結託したクーデターで長州藩が中央政界で失脚する

攘夷の事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、公武合体派が主導権を握る

土佐藩においても、公武合体派の前藩主山内容堂の影響力が再び増すこととなる

1865年、「君主に対する不敬行為」という罪目で武市半平太は切腹を命ぜられる

享年36歳 という幕末志士です

武市半平太と坂本龍馬は幼馴染で、龍馬にとってはお兄さんのような存在でした

龍馬が自由奔放に生きるその陰で、真っすぐな方法で維新を遂げようとし

龍馬が帰ってこられる新しい場所を創ろうと思っていたにちがいありません

 

ここに武市さんの旧宅とお墓があるとは、全くのノープランでした

思わぬ展開にちょっぴり鼻血が出そうになりましたが

時間を忘れて武市さんに会いに行きましょう♪

 

なんでもない、普通の田舎道を進みます

おお!小さな神社があるではありませんか

ここに武市さんが祀られているのでしょう

この地では萩で言う松陰先生と同じように半平太先生として伝わっておられます

なんと!瑞山神社と並んで瑞山記念館があるではありませんか!

一応、高知を旅する前に色々調べたのですが、ここは何故かヒットしませんでした

小さいながらも立派な記念館がありました

まだ新しい雰囲気で、受付も何もなく、無料開放パターンでした♪

武市先生です

一説にはアゴが長かったので、アゴ先生と呼ばれていたご様子w

皆が畏怖尊敬している中でも親近感はかなりあったのでしょう

 

こちらは武市さんの妻の富さん

夫によく仕え、武市さんが獄に投ぜられた時には

夫の苦痛を思って板の間に臥し、夏も蚊帳をつらずに過ごしたと言います

結構な美人さんだったと予想されます

 

清岡道之助さんです

彼は同志23名で野根山にある土佐三関の一つとされる岩佐番所に武装屯集し

土佐藩庁に半平太以下同志の釈放を要求しました

この嘆願を「徒党強訴」とみなした土佐藩庁は、藩兵800人を動員して鎮圧しました

この大群にはさすがに抵抗出来るはずもなく、道之助たちは隣領の阿波へ逃げ込みます

当初の予定では嘆願が受け入れられない場合、長州藩が進発する京へ向かい、

これに合流する策であったが、長州藩は禁門の変ですでに敗走し、

その報をいまだ知らない道之助たちはまったくの孤立状態におちいりました

その後、田野郡奉行所に護送された道之助たち23名の郷士たちは

一度も取調べを受ける事もなく、安芸郡の奈半利川の河原に連行されて一人残らず斬首されました

清岡道之助、享年32歳。処刑に際して、彼らは辞世を詠むことも許されず、

その歌は完全なかたちで伝わっていません

辞世を高らかに吟じる道之助の声は途中で途絶え、首が落とされたと言います

 

時勢によって成長し、時勢によって運命を定められた方々です

 

 

 

 

どこの記念館にもある落書きノート

こういうノートでは、必ずひとつはツッコめますw

 

 

えええええーーーーなにーーーーーー

小栗旬だとーーーーーーー

まじですか?こんなコアな記念館に小栗旬だとーー

しかも、感動してますやん!!

一緒に来たのは誰?と探しましたが、見当たりませんでした

まさか、あもんと同じようにひとり旅ですか??

小栗さんはどんなツッコミ旅をしているのですか??

↑それは、あもんだけやん!w

 

ということで、続きましょう