ヒロシマ・ノート | あもん ザ・ワールド

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君へと届け 元気玉

2010年8月 記

1945年(昭和20年)
広島が原爆により消滅した数カ月後
米軍側調査団の声明が世界に広がった


原子爆弾の放射能の影響によって死ぬべき者はすでに死に絶え
もはやその残存放射能による生理的影響は認められない



以後10年間
広島は沈黙をした…


『ヒロシマ・ノート』
大江健三郎著




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本書は被爆十数年後、広島を訪れた著者が
被爆者の生き様と前代未聞である原爆症という難病に立ち向かった医師達の献身を綴った本である



戦時と言う時代
現代人では想像できないぐらいの悲しみが満ちていただろう
現代人では堪え切れない貧しさと偏見があっただろう
それでも人間は今いる家族とご飯を食べ
朝には起き、子供達は遊び、大人達は働きに行き
夜には家に帰っていた
しかしあの一発の原子爆弾は
その苦しいながらも出来ていた普通の生活も奪ったのである


さっきまで隣にいた人が
気がつくと死んでいる


そんな地獄絵図を見た広島人の心には
生涯忘れられないトラウマが植え付けられたのである


広島では原爆で亡くなった人は数万といるが
運よく生き残った人も多くいるのである
彼らはその後『広島で被爆した』という事実を背負って生きなければいけない


彼らは本当に運が良かったのだろうか?


広島被爆10周年であったある日
第1回原水爆禁止世界大会が開催された
「核戦争阻止」「核兵器廃絶」「被爆者援護」という三つの基本目標が掲げられた
そこで十年間の沈黙の後初めて被爆者が演壇に立ち発言をした
『生きていて良かった』ある被爆者が漏らした感想である


『本当に良かったね』
現代人ならそのほとんどがそう答えるであろう

しかし被爆者の被爆以後の生き様は
そう楽観的に考えられるものではなかった


以後、大江氏が取材した被爆者の生き様を引用させて頂く

ひとりの娘がケロイドのある顔を恥じている。彼女の心の中ではこの恥を別れ道として地球上の全ての人間をふたつのグループに分けることが出来るわけだ。(中略)ケロイドのある娘達は自分のケロイドをそれを持たない全ての他の人間達に対して恥ずかしく感じる。ケロイドのある娘達はそれを持たない全ての他の人たちの視線に屈辱を感じる。
ケロイドのある娘達は、自らの恥、屈辱の重みをになってどのように生きることを選んだのか?
そのひとつの生き方は、暗い家の奥に閉じこもって他人の目から逃れることである。
この逃亡型の娘達が、おそらくもっとも多いに違いない



統計には老年の死者達に囲まれて、唐突にきわめて若い死者もまた現れる。この冬、まだハイティーンの母親が急性骨髄性白血病で死亡をした。彼女は生まれたばかりの赤ん坊の年齢で被爆したのだった。そして18年後に、自分の赤ん坊を産んだ直後、白血病の症状を発して死亡したのだ。(中略)
被爆した若い母親の出産直後の死については僕は、病院の内外で、他にもいくつかの痛ましい噂を聞いてきた。被爆した若い妻には異常児を生んでしまうのではないかという不安と共に、出産後、自分自身が原爆症を発して死亡するのではないかという不安もまた濃く存在するのである。そして、それでもなお、このハイティーンの娘は恋人を得て結婚し、出産したのだった。このような絶望的なほどの勇敢さ、それは人間の脆さと強靭さに、ともにかかわって、真に人間的だというべきであろうと思う。


青年は4歳の夏、被爆したのであった。(中略)そして、やっとのことで生きながらえたひとりの子供が、ハイティーンに成長したある日、白血病に冒されている自分を見だしたのである。青年はかれの20歳を原爆病院のベッドで迎えた。
すでにたびたび、僕はその例を挙げたが、白血病を治療する医師は、初期の段階において、まず一応、白血球の凄まじい増加を食い止め、いわば病気の「夏休み」をまねきよせることができる。(中略)2年間の夏休みのあと、青年は死と再びめぐり合わねばならず、その時、死は決して彼を取り逃がすことがない。もし、ペシミスティングな心の持ち主がこの夏休みを一種の執行猶予の時間と呼んでもとくに誤りではないであろう。
しかし、青年はかれの2年間を猶予の時と見なさなかった。かれは人間らしく生活し、社会的存在たることを希望した。原爆病院の医師達は青年のために、彼の病歴を秘して、就職口を探した。この医師達は詐欺を行ったのではない。(中略)
青年は、この2年間を本当に生きようとしたのだ。かれは有能な働き手であった。かれはまた職場での社会生活の全てを十分にまっとうした。かれがどのように真実に生きようとしたか、ニセでもなければ、ツクリモノでもない、真の現実生活を生きようとしたかれは、青年がひとりの娘と愛し合うようになり、婚約したということで、いかにも明らかであろう。(中略)
しかし、2年経って、充実した夏休みは終わった。青年は執拗な嘔気に悩まされるようになり、再度入院し、関節という関節の全ての激しい痛み、そして猛烈な嘔気という、白血病の患者の最悪の苦しみの果てに死亡したのであった。
一週間たって、死んだ青年の婚約者が原爆病院を訪れた。彼女は青年を看護した医師や看護婦達にお礼を言いにきたのだといった。(中略)
翌朝、彼女は睡眠薬による自殺体として、発見されたのである。



彼らは本当に運が良かったのだろうか?



『にんげんをかえせ』
峠三吉

ちちをかえせ 
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
 
わたしをかえせ 
わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの 
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ




あもんは広島人であるため小学生の頃から毎年8月6日は登校日となる
その日は平和学習と称して戦争にかかわるアニメ映画や被爆者の証言フィルムなどを見ることになっていた
その後、原爆について授業が始まる
あもんの家は爆心地から約5Kmにある
あもんの両親は他県から移ってきたため被爆はしていない
よってあもんも被爆2世ではない
しかし同級生である友達のおばあちゃんは原爆の日に生きていたのである
あもん家界隈には当時原爆から逃げていった人たちが助けを求めてさまよっていたみたいである
そんな生々しい証言を友達はみんなの前で発表するのである
そして、先生がしっかりと最後に教えてくれたことがあった


『原爆症は触れてもうつるものではありません』
『広島には放射能はもう残っていません』


純粋な小学生であるあもん達は先生の言うことを信じた
しかし、当時は良く見かけたケロイドがある老人を目の前にした時
あの恐ろしい原爆フィルムが少年の心に蘇えり
怖くて怖くて思わず逃げてしまったのも事実である

それからというもの
あもんは『原爆の街・広島』を避けるようになっていった
『もう、忘れてもいいんじゃない?』とまで思う時期もあったのだ


“大人になってからの平和学習”を始めようと思ったその年に
あもんはNHK広島が制作したTVを見た


『原爆孤老~ヒロシマ・64年後の現実~』
という番組だ


原爆孤老とは被爆者である孤独な老人のことであり
彼らは被爆者に対する偏見や無理解から
結婚をあきらめ、出産をあきらめ
仕事をあきらめ、接触をあきらめ
被爆者であることをひた隠して生きている
彼らにTVはインタビューをする
しかし解答してくれる人は少なく
多くは『昔のことは忘れました』と言う
今もなお原爆の後遺症で苦しんでいるにも関わらず
原爆にあっても生き残ったことへの申し訳なさなのか
医療費が免除されるということへの妬みの目が怖いのか
今も周囲に自分が被爆したという事実を隠している老人がいる


原爆孤老の本当の人数は分からないが
現在、広島在住被爆者7万人のうち
2万人がひとり暮らしのお年寄りであるらしい


彼らは本当に運が良かったのだろうか?


広島の街は被爆建物が徐々に消えていき
新たな街作りが進められていった
『広島は復興した』
見た目にはそう思う人がほとんどであろう
しかし
人間的原爆被害が
74年経った今も続いているのは事実である

そして『日本の負の遺産』を背負い続けるのも
広島の運命である