日本遺産~負の遺産~ | あもん ザ・ワールド

あもん ザ・ワールド

君へと届け 元気玉

2009年8月 記
 

広島の街では毎年
8月6日8時15分にサイレンが鳴る


昭和20年8月6日8時15分
広島の街に人類史上初の原子爆弾が投下された
その爆弾はリトルボーイと呼ばれた
ストロボのような青白い光そして爆風
爆風が納まると広島の街は一時

闇に包まれていった
やがてポツポツと人の姿が見えてきた
人々は皮膚も服も焼けぶら下がり

誰もが裸同然だった
顔の皮が剥がれ

白い肉とほとばしる赤い血が見えた
幽霊のように両手を前に上げて歩く姿
それは地獄絵図のようだった
そして、あの時の一瞬の出来事が
半世紀以上経った今でも苦しみを与え続けている


原爆の街 広島
あもんはこの広島で生まれ育ってきた
世界で初めて原爆を味わった街として

世界的に有名な広島
あもんはそんな『原爆の街』が嫌いだった
小学生の頃、毎年8月6日は

平和学習と称して登校日であった
そこで毎年、原爆について学ぶのだ
原爆にまつわる映画を見た記憶が今でも残っている

どの映画も被爆の瞬間や被爆後の街のようす人の様子が隠すことなく映し出されていた

あもんたち男子は『北斗の拳だ~』とか言ってふざけていたが
その映像に耐え切れない女子には泣いている子もいた
悲しみの現実を見せつけることによって感じて欲しいという教育
あもん達広島人はこの教育を受けて育っていった

広島駅を訪れると

激しい水ぶくれの跡が残った老人をよく見かけた
ケロイドと呼ばれる原爆の後遺症は

あもん達少年の心に鋭くヒビを入れ
怖くて、怖くて

その老人から逃げるように去っていった

あもんが高校生の頃

あるアーティストが言っていた
『広島のコンサートは盛り上がらない』


ある評論家が言っていた
『被爆の遺伝子を持つ広島人はこんなに馬鹿騒ぎをしてもいいのだろうか?という潜在意識が存在する』と

あもんが大学生のころ

小説家を目指す人が言っていた
『広島で賞を取る書き物は戦争や原爆を綴ったものばかりだ』


戦争を知らないあもんはこう思った
『戦争教育によって僕たちも被爆者となった』


あもんは原爆の街広島が嫌いになった
そして、原爆に無関心になっていた


日本中を旅するようになって
島国の宝物を探していたら
いたるところで戦争の爪跡を見る機会があった
世界的地位から見た当時の日本国
明治維新から続く尊皇攘夷の進化論
島国日本の母国愛の重さ等々
あもんは改めて日本帝国の過ちについて考えるようになった


戦争は島国日本の過ちである
しかしこの歴史は間違いなく我々日本国民の過去である
そう、これは太平洋戦争で敗戦をした日本の遺産である
この遺産を『負の遺産』という

 

過ちは起こしてみないと過ちとは分からないものである
過ちに気付いたとき人は謝る事ができる生き物である
過ちを繰り返さないためには真実を知ることが必要である
広島人であるあもんは改めて平和記念公園を訪れ
広島平和記念資料館を訪れた
あもんは大人になっての平和学習を始めようと思った


とある広島の図書館へ足を運んだ
広島の図書館には必ず原爆の本が並んである
そこであもんは『原爆詩集 八月』という本を広げた
そこには多くの事実が記されていた


~1945年8月の少年少女~

『弟』-小学5年生男子-

いたといたの中に
はさまっている弟
うなっている
弟は僕に

水 水といった
僕は
くずれている家の中に
はいるのはいやといった

弟は
だまって
そのまま死んでいった
あの時
僕は
水をくんでやればよかった


『原ばく』-中学3年生女子-

おぎゃあ おぎゃあ
生まれたばかりの赤ん坊
原ばくですぐ
この世のことは何も知らず
あの世へ去った赤ん坊


『愛する兄は』-高校2年女子-

一度だけ 一度だけ
私の名を呼んでほしい
遠く離れ 一人疎開していた私は
姿すら見ることが許されなかった
門辺で迎えてくれると信じ

急いで帰った家に
ありし日の姿のまま
うごかない姿の写真が
写真が迎えてくれた

幼い私に誰が兄の死を告げるのだろう
毎夕、石段に腰をおろし
帰ってくるように
ただ帰ってくるように
待っていた 幼い私だった
灯火がともって

肌寒い秋風
ほかにだれも帰ってくれない
骨の無い墓
こんなことがあるだろうか
墓の無い死人
このような悲しさ淋しさが
すべての人々の上に
再び繰り返されてはならないと祈る
そして 努力する


『僕は死ねない』-高校2年生男子-

うつむいて
一生懸命ノートしている授業中
いきなり
ポタリと鉛筆の先へ鼻血が散った
とめどなく
ノートの字を染めつぶして
血はいつまでも止まらなかった



隙があれば心のすみのどこからか
頭をもたげようとすることば

だが僕は死なない
あの原子爆弾のために
だまって死んでしまえるものか


原子爆弾が地球のいたるところに
光って落ちて人の命をうばって
地球上のいたるところに
僕のような運命を無理やりに背おわされて
悲しい人々ができていいものか
僕は死ねない
そっと腕をまくってみる
まだ 斑点はできていない





とある女性と話す機会があった
彼女は平成生まれの女子大生だった
長崎県出身である
いつしか会話は平和学習ネタとなった
「長崎も平和学習ってあった?」
「はい、ありました。長崎は8月9日が登校日でした」

「平和の授業をして、歌をうたったり、感想文書いたりしていました」
広島と長崎 我々は同志である
彼女は続けた
「原爆を知って、すごく怖かったけど、怖いということを認識するのは大切だと思うんです」
「被爆体験を語ってくれたおじいさんの顔と名前、今でも覚えていますよ」
「あっ数年前にTVで放送した“はだしのゲン”って凄くよかった。泣きましたよ~」
昭和生まれと平成生まれ 我々はもう同志である

彼女は自分の平和学習を誰かに伝えようという意志はまだ無い
勉強している福祉の仕事に就くことを夢見る女子大生である
「あっ そうそう、平和学習で習ったすごくいい歌があるんですよ~私、今でも熱唱できますよ。あもんさん、今度聞いてみてくださいね」





あもんは聴いてみた

梅原司平 『折り鶴』
 

 

 




あもんは泣いた…
平成生まれの女子大生から教わった平和学習で泣いた






みなさん!
どうか『大人になっての平和学習』を行ってください
負の遺産を受け継いでいるのは私たちです
今後生まれてくる赤ちゃんに伝えるのも私たちです
あもんが少年の頃に見たケロイド跡の老人はもう見ることができません
命を削ってまで創ってくれた負の遺産は日本国にとって宝物です
負の遺産を後世に残すことが私たちの使命です
そしてそれが世界恒久平和への道のりなのです



みなさん、お願いします
一年に一度でいいです
8月6日、8時15分頃でいいです
たった、十秒でもいいです
そっと、目を閉じ
日本遺産~負の遺産~を命さながら伝えてくださった方々の
ご冥福をお祈りください