そんなつもりなんて無かったのに、とは今更言わない。だけど男同士でする行為を、このホテルを指さしたあの瞬間まで考えた事も無かったのは本当。それなのに何故かどうしようもなくこの男に惹かれた。
『中、何入ってたの?』
きっと余計な事を喋っている。聞く必要なんてなく彼が見てしまった事に対して知らないふりをすべきだった。
『…………ホテル、変えようか?』
動揺している声で彼がそう言った。その中の物を彼が開ける前から予測は出来ていたのに何も言わなかった時点でアウト。嫌でもそれから連想する行為を彼にも思ってもらいたかったのかもしれない。
『何故?』
酔いの回った人間を介抱するという純粋な気持ちで入った部屋で卑猥な形をしたそれらを彼が見るべきでは無い事くらい分かっていたのに。
『だって……』
結果として俺のせいでこんな場所であんな物を目にさせてしまったわけだから当然彼は嫌な思いと共にこの部屋を出るだろう。俺をひとり残して。その事に寂しさを感じることは間違っているのに、置いていかれる事への寂しさと虚しさで彼の事を見る事が出来ないとかどうかしてる。体の疼きも正直どうしたらいいものか。
『だって、このままここにいたらオレ、あなたのこと抱くよ?』
そう思ったのに、ベッドに座るオレの隣に彼はそう言って静かに座った。体に触れるわけでもなく感情的になる訳でもなく。ただ俺の顔を覗き込むように見ながら静かすぎるくらい静かに座っただけ。
『それも悪くないかもしれないな』
このホテルの一室での出来事の全てにおいて、自分が彼という人間にどうしようもなく惹かれ、どうしても今離れたくないんだと言うことを認めざるを得ない。恐らくこのホテルを指さした時にはもう、こうなる事を望んでいた。
『……え?』
『いや、何でもない。……いいよ?しよっか。セックス』
飲み屋で隣になっただけの男と体を重ねようとしている事が信じられないのに昂揚した。自分が抱かれる立場にいる事を理解した上でこんなにも昂揚すること自体も非現実的で、だから逆に夢の中の出来事の様に思えて彼に抱かれようと思えたのかもしれない。
彼女と暮らしていたマンションは、その週のうちに出た。荷物を纏めて思ったことは、自分の物などほとんど無かったんだと言う事。仕事の物と衣類、それが必要な物の大半で、残りの僅かの物たちはとりあえず実家に一時の避難場所として預けた。
身軽になった。
別れを決めた時の一番の正直な思いがこれだった。狭くてもいいから新しい部屋を探すことから始めようと足取りは軽かった。そして何よりも、これで後ろめたくなく彼との事を思い出せる。その想いがとてつもなく大きくて、もう会うこともない彼の事ばかりを考えるようになっていた。
「……ここ……だよな」
部屋も見つけ引越しも終わり落ち着いてしばらくした頃にふと、彼と会えるかどうかは自分次第だと言う考えに辿り着いた。もう二度と会うことは無いだろうと思っていたのは単純に、会うべきでは無い、と自分で思い込んでいたから。長く一緒にいる女がいる手前、たった一晩だけ肌を合わせた男との再会が健全ではないことぐらいは分かっていたから。
「……相葉総合病院?ほんとにココ?」
あの日彼と出会った飲み屋の場所は正直曖昧だった。だけどあの日入ったホテルがこの辺りには全く似つかわしくないほどに派手で割と直ぐに見つけることが出来たのは運が良かった。
『オレね、そこの病院で働いてるんです』
間違いなく彼はあの日そう言った。その言葉を思い出し周りを見れば病院と名の付く建物はこのひとつしか見当たらない。整骨院だったり歯科だったりは何件かあるけれど、人に伝える時にそれらの事を病院とは言わないだろう。
「でかくね?もしかして俺、なんか勘違いしてる?」
天真爛漫で柔和に思えた彼にこんな大きな病院のイメージは無い。もっとアットホームで地元に愛されるような小さな病院を想像していたのに。
「いや……」
たった一晩、たった一度会っただけ。更にあの日からかなりの月日が経っている。だけど記憶が風化されているとは思わない。あの時酒を飲み交わし体を繋げた彼からはこのバカでかい病院の医師であると言うイメージは全く出来なかった。
「帰ろ……」
怖気付いた訳では無いけれど、急にあの日のことが全部自分の妄想だったのではないかと考え始めるのは多分明るい景色のせい。だってあの日とはあまりにも違いすぎる。酒が入り暗かった時間は自分の理性を多少緩くしたのかもしれない。
そんな事を考えながら気付けば家に戻っていた。
「そんなに落ち込むなって!」
どうやら最近の俺は元気が無く周りから見ればかなり落ち込んでいるらしい。
「なっ?女のひとりやふたりと別れたからって気にする事ないって。なんなら俺、紹介するよ?」
古い友人に誘われ飲みに来たのはいいけれど完全に誤解をさせてしまったらしい。彼女との別れが俺を落ち込ませている、と思い込んでいる。
「あのさ、申し訳無いけど、女絡みじゃないから。
俺の悩みはもっと繊細なんだよ」
その悩みってやつは、女ではなく、対男。彼がいるらしい病院の目の前まで行ったのに確かめる勇気もなく。しかもそれを何度も繰り返し今日に至る、なんて言えやしない。
「マジで?マジであの人の事じゃないの?」
「違うっつーの。終わった事に執着しねーわ」
「確かに翔さんはそうだけど」
「だろ?だからマジであの人の事じゃねぇの」
浴びるように酒を飲みでかい声でよく喋りノリがいい。昔から飲みの席が好きな奴でよく誘ってくれてはいたけれど、彼女と別れるまでは俺が飲み会に参加することは稀だった。
「でもさ、これで翔くんもこんなふうに飲みに来るならおれ的には嬉しいけどな」
ふわふわと笑うこの男も若い時から変わらない。争い事が嫌いで自由を愛する、と言えばカッコよすぎるかな。
「それは確かに!智くんの言う通りだわ。なんせ翔さんと飲むの地味に久しぶりだもんね。これからはガンガン誘うわ」
「やめろ。そんな暇じゃねーわ」
「またまた!暇でしょ、独り身になったんだし。今までの分だと思って付き合ってよ」
「だから、忙しいんだよ、俺は。つーかお前も忙しいだろ?有名デザイナー、ジュンマツモトはそんなに暇なのか?」
でもそうだな、こんな時間が今の俺には必要なのかもしれない。
「まぁまぁ、ふたりとも。また集まろうよ、こんな風に飲むのおれめちゃくちゃ楽しいんだよね〜」
そうじゃないと今の俺は四六時中彼のことばかり考えてしまうだろうから。
「そうだな。たまには来るよ」
「マジ?やった!智くんも聞いたよね?」
「ふふ、うん。聞いた聞いた」
なんて、それでも、こんな最中にも頭の片隅で考えてしまう。
「よし、続き飲も!俺、またビール」
「おれも〜」
「翔さんは?次何飲む?」
「……え?ごめん、なに?」
このうるさい店の中のどこかに、彼は居ないだろうか、って。運命なんて言葉を信じる訳では無いけれど、そんな再会がもしかしたらあるのではないか、なんて。