いつのまにか、ベッド🛏️に乗せられて、病室へ移動していました。




深い眠りに入っていたものの、ベッド🛏️ごと移動していたのはなんとなくわかりました。

酸素マスクと気管挿管、点滴がついたまま、ベッド🛏️で静かにしていました。

20時頃、看護師さんがきて、気管挿管の呼吸のチューブが外れ、看護師さん監視の元、お水が飲めるかチェックがありました。無事に問題なく🆗。そこからは、自由に飲み物が飲めました。😊喉の痛みが少し続きました。

それができてから、尿の管を外していただきました。経験者の投稿から、外す時、痛いよーという感想もあり、看護師さんの「抜きますよ!」の一言で、少し力が入ってしまい、一瞬痛かったけど、無事に抜けました。その後、トイレに行きましたが、1回目はとっても痛かったです。膀胱炎のような感じ。2回目以降は、痛みはありつつも、少しずつ軽減されていって、痛みはその日のうちにだいぶ良くなりました。😊

夕方、主治医のイケメン爽やか医師(A)と、謎の超イケメン医師がお見えになって、回診。

私が診察の度に「痛み😖」についてお話することが多かったせいか、主治医が、「お痛み、どうですか?」と聞いてきました。

私:「想像💭していた程の痛みではありませんでした」

ということで、懸念していた「痛み😖」については、あまり感じず、表にでていない親知らず🦷を抜歯した後のような鈍痛は感じますが、痛くてしかたないという程でもなく、念の為、今でも、鎮痛剤💊は処方してもらって飲んでいます。

術後、点滴にロキソニンと吐き気🤮止めも入っていたようで、吐き気もなく、術後の気分は爽快😊です。

卵巣嚢腫のMRI検査の結果が気になるところではありますが、昨年12月に、【耳下腺腫瘍】発覚からの約半年間、長く辛い時期が終わり、無事に手術を迎えられたことで、少し、ホッとしています。😌

手術後、病室でぼんやりとしていました。

昨年の12月以来、突然、暗闇に放り込まれた感じだった半年間。なぜ、耳下腺腫瘍ができてしまったのか?突然、病を発症してしまう怖さ、いろいろなことを考えました。

そして、病室のベッド🛏️の上を見て、私は小学生1年生頃のことを思い出していました。


小学生の低学年頃、月曜日の朝礼の時に立っていて、いつも貧血を起こしてしまう子供でした。父からは、クラっときたら、すぐにしゃがんで、頭を打たないように!と言われ、1時間目は保健室で過ごすことが多くありました。成長するにつれ、風邪もひかない元気な子供になりました。(今は、二重生命線🖐️のお陰か、タフですよ!)


私が保健室のベッド🛏️で寝て休んでいる間、1時間目の授業が気がかり😕でした。みんな、どんな勉強📖しているのだろう?と。遅れを取らないかな?とか。ノート🗒️、どうしょうとか。


月曜の帰宅後は、両親に「今日も朝礼で倒れて、1時間目は保健室にいた」と話していました。


そんなことを思い出してからは、走馬灯のように、これまでの人生(小学校➡️中学校➡️高校➡️浪人生活➡️大学➡️就職➡️母の介護➡️父の入院➡️両親の他界➡️自分が好きなことを見つけ、一生懸命に夢中になっていたこと➡️自分のやりたいことはわかっているのに、一歩踏み出しても、なかなかチャンスがなくて、ドアが開かれない悔しい想い➡️そして、今回の耳下腺腫瘍発覚!)


と、こんなふうにわずかな時間だったんですが、私の脳裏に走馬灯のように、人生を振り返る時間となりました。


そうしたら、何故だか、涙😢が溢れ出てきて、感謝の想い💖があったり、悲しく辛い想い😢があったり、様々な想いが交錯して、ハンカチで拭っても、涙が止まらなくなってしまったのです。😭


そんな時、看護師さんが病衣からパジャマへの着替えを目的で私のところに来られて、涙😢を流していた私を見て、ビックリされたみたい。


「泣いているんですか?」って。


その後は、涙は自然に出なくなって、病衣からレンタルパジャマへ着替えました。

【清拭(せいしき)=「体を拭く」】もして、少し気分がスッキリ!

夜は、「ライン妖怪😈おばさん」が気になって、眠れないので、入院中は、眠剤を処方してもらっています。朝までぐっすり!気になる人に注意をお願いしても改善しないので、入院中、私は眠剤で自分を守ることにしました。😊